およそ三十年ぶりのインフレ。
それを一時的なものとしてやり過ごそうとする向きもあるが、それは不可能だろう。
では「インフレ」とは何なのか、「デフレ」とは何なのか。
そして「デフレ脱却」の思想とは何なのか。
「交換」を支えるものをめぐって紡がれた反経済学的試論。
この三十年間、経済成長から見放され「デフレ」を患ってきた日本人は、そのためなのか、思いもよらず見舞われた突然の「インフレ」に少々戸惑っているように見えます。実際、その動揺を鎮めるため、これをロシア─ウクライナ戦争による一時的なコストプッシュ・インフレだと言う向きもありますが、常識的に考えてそれはないでしょう。
なるほど、今回のインフレを見る限り、それが新型コロナ・パンデミックによるグローバル・サプライチェーンの寸断、ロシア─ウクライナ戦争による原油・天然ガスなどの燃料資源の高騰、そしてウクライナの小麦などの食料不足が直接の引き金になっていることは見易い事実です。が、それなら、それらの問題は簡単に解決するものなのか、そして、世界は再び、何事もなかったかのようにグローバリズムを称賛する世界へと回帰することができるのか? そう問うてみれば、それが単なる願望の表明以上のものでないことは誰の目にも明らかでしょう。
というのも、この逆行するグローバリゼーション(デ・グローバリゼーション)という現象自体が、当のグローバリズムが引き寄せた必然的な結果にほかならないからです。
グローバリズムが引き起こした現象は大きく言って二つあります。
一つは、海外投資を加速させた金融業(富裕層)と、海外にその工場を奪われた国内製造業(庶民)との分断と格差、つまり、先進国内におけるナショナリズムの溶解です。
そして、もう一つは、先進国に代わって製造業を受け持つようになった新興国(BRICs)と、次第に国内製造業を失っていった先進国との拮抗・緊張関係の醸成です──いわゆる米中覇権戦争や、ロシア─ウクライナ戦争の勃発も、その結果の一つだと考えていいでしょう。
前者に関して言えば、それこそ、誰よりもグローバリズムを加速させてきたアメリカ国内の疲弊と動揺がそれを証拠立てていますが──実際、世界全体に占めるアメリカのGDPの割合は三一・六%(一九七〇年)から、二一・九%(二〇二二年)に下がっています──まさにそれが原因となって、「パクス・アメリカーナ」と、それによって守られてきた「ネオ・リベラリズム」という世界=経済戦略はもはや立ち行かなくなっているのです。
とすれば、現下のインフレが、一時的な現象であるとは考えられません。が、それなら、この「デマンドプル・インフレ」(需要増による物価上昇)ならぬ、「コストプッシュ・イン フレ」(供給減による物価上昇)に対しては、ますます腰を据えた対応策が必要となってくるでしょう。とはいえ、その処方箋はそれほど難しいものではありません。
物価上昇は、一時的に実質賃金を押し下げますが、それを放っておくと、長期的には、その少ない供給量に合わせて需要もしぼんでしまい、経済全体(生活水準)がスケール・ ダウンしてしまいかねません。それを防ぐためには、長期的には国内供給量を増やすことですが、短期的には消費税、エネルギー税、食糧税、社会保険料を軽減すること、そして、積極的な公共投資によるデフレ圧力の緩和(需要喚起)が重要になってきます。その結果として、内需拡大が果たせれば、物価上昇に見合った賃上げも可能になり、目の前の悪性の「コストプッシュ・インフレ」(スタグフレーション)を、「デマンドプル・インフレ」の側へと質的に転換させていくことも可能となるでしょう。この程度のことは、どこの経済学の教科書にも書いてある、いたって常識的、かつ自明な経済対策だと言えます。
しかし、「ザイム真理教」(財政法四条)が問題なのか、はたまた「コストカット」の成果が省内出世コースの必修単位になっていることが問題なのか……、「財政再建」という呪文に囚われている財務省と岸田文雄政権は、突然の物価高に国民が苦しんでいる最中、一切の合理的説明抜きに「増税」(インボイス導入と保険料アップ)をちらつかせるという不条理ぶりを晒しています。「病膏肓に入る」、「バカに付ける薬はない」とはこのことでしょうか。
要するに、簡単に言ってしまえば、この先、持続的に賃金が上がり続けるという「確信」が醸成できない限り、今、目の前にある「コストプッシュ・インフレ」は、そのまま「スタグフレーション」(不況下での物価上昇)と化しながら、私たちのなかに深く根を下ろしている「デフレマインド」をより強固なものにしてしまいかねないのだということです。
では、デフレーションの本質とは何なのか、そして、それは人間にとってどのような病として現れるのか? たと えばケインズは、それを次のように説明していました。「個人の〔そして企業の〕貯蓄行為は言うなれば今日は夕食をとらないと決意することである。だがその貯蓄行為が、いまから一週間後あるいは一年後に夕食をとる、あるいは一足の長靴を購入する、つまりある特定の期日にある特定のものを消費するという決意を随伴するかといえば、そのようなことはない。かくして、今日は夕食をとらないという決意は、将来いつの日か行われる消費活動を準備するための事業を促進することなく、今日の夕食を用意する事業を不振に陥れることになる。〔…〕そのうえ、将来の消費に関する期待は大部分が現在の消費体験をもとにして形成されるから、現在の消費が減少すると将来の消費も抑制されることになりかねない。」『雇用、利子および貨幣の一般理論(上)』間宮陽介訳、岩波文庫、二九四頁 〔 〕内引用者─以下同じ
ケインズによれば、デフレとは、今夜の夕食を食べることを犠牲にしてまで貯蓄をすること、言い換えれば、生活世界を生きるよりも先に、貨幣という「物神」を崇め奉ろうとする欲望、その「貨幣愛」の過剰のことだと言えます。要するに、インフレが、モノの価値が上がり、人々が貨幣を借りてでもモノに投資しようとする現象──自ら貨幣を手放していく現象──なのだとすれば、その反対にデフレとは、モノの価値より貨幣の価値の方が大きく膨らむことによって、人々が現実の「夕食」ではなく、〈物神=貨幣〉の方に目を釘付けにされ、その「幻想」によってモノが交換されなくなってしまう病気のことを言うのです。
では、なぜ私たちは、「夕食」を犠牲にしてまで「貨幣」を貯め込むのか。
答えは簡単です。ときに資本主義社会は、モノが売れる ことへの信頼感、つまり、私たちが日々営んでいる生業の持続感を疎外し、不安を膨らませてしまうからにほかなりません。そのとき人々は、未来の不確実性を回避しようとして、商品、株、債権よりもなお確実で、いつでもどこでも交換できる「貨幣」へと飛び付くことになるのです。
この、貨幣とその他の商品との根源的非対称性について初めて意識化し、言語化したのは、資本主義経済が反復する「恐慌」を主題としたカール・マルクスでしたが、彼は、その景気循環を引き起こす原因として、「売り」と「買い」との間に介在する「飛躍」に注目しました。「W〔商品〕─G〔貨幣〕すなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔『経済学批判』〕、商品のSalto mortale(命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多方面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。」『資本論(一)』向坂逸郎訳、岩波文庫、一八八頁
マルクスが強調するのは、商品を貨幣に変えること、つまり「売ること」には、常に「命がけの飛躍」とでも言うべきモメントが存在しているということです。将来の需要が確実に見込めるなら──つまり「売れる」ことが確信できるなら──生産・投資ともに増大していきます。が、そんな確信が醸成できる条件など、純粋な資本主義社会に現れることはめったにありません。むしろ、流動的で部分的な知識しか与えられない資本主義社会のなかで、個人あるいは企業は、常に「売れるか否か」という不安に晒され続けているのです。そして、だからこそ私たちは、〈貨幣はどんな商品とも交換されるが、必ずしも、その逆のことは言えない〉という貨幣と商品との非対称性を前にして、「貨幣」に執着するという倒錯的かつ幻想的なフェティシズムのなかへと陥っていくことになるのです(精神分析においても、フェティシズムは、母子一体的な安心感から疎外された子供が、その一 体感に空いた穴を埋めるために見出した過剰な物神=対象への執着として理解されますが、その点、商品経済の穴を埋めている物神こそ、貨幣だと言うことができるでしょう)。
しかし、それは裏を返せば、「命がけの飛躍」を支えるものを用意することができるなら、つまり、一人で資本主義社会と向き合うことの不安を克服し、その孤独感──商品経済から疎外されるのではないかという恐怖感──を払拭することができるのなら、まさしく、物神としての「ぬいぐるみ」を部屋に置いて子供が街に出かけることができるように、私たちも、「宵越しの銭」を持たぬまま、街に繰り出せるようになるのだということを意味しています。
では、この「交換」につき纏う不安を取り払うためには何が必要なのか? 長期的な視点から言えば、それは資本主義社会の流動性を抑える制度・規制であり、慣習であり、つまり「伝統」への信頼感です。それを、たとえばアダム・スミスは「道徳感情」と言い、ハイエクは「自生的秩序」と言いましたが、いずれにしろ、「交換」によってではなく、その「交換」の背後にあって、その流動性を鎮めるものの支えによって、資本主義経済は資本主義の期待を安定させることができるのです(実際、この支えが希薄だったからこそ、十九世紀マルクスの時代には極端な景気循環が齎されたのだと言えるでしょう)。
ただし、ここで注意すべきなのは、その一方で、飽くなき利潤追求に伴うイノベーションによって、常に、伝統破壊と故郷喪失の不安に晒されてきた近代社会は、だからこそ短期的な処方箋──不均衡是正の方策──をも編み出さざるを得なかったという事実です。そして、そのとき考えられた方策こそ、国家による財政政策だったのです。流動する資本に抗して、何とか「最小の動揺と最大の連続性」(ウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』)を守り維持すること、それが近代国家の主要な任務の一つになるのです。
第一次グローバリズムの危機の最中でケインズ経済学が登場し、第二次グローバリズムの危機の最中でMMT(現代貨幣理論)が登場してきたのも偶然ではありません。それらの議論は、まさしく、私たちの〈命がけの飛躍=交換〉を支えるものをめぐって考え編み出された経済思想、私たちの「自由」を支える「信頼」についての社会思想なのです。
では、そこにある認識とは何なのでしょうか?
それは、〈社会への信頼があって初めて契約=交換がなされるのであって、その逆ではない〉、さらに、だからこそ、〈その信頼の基盤は、契約=交換の対象にはならないし、契約の対象にしてもならない〉というものです・・・<本誌に続く>
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