【寄稿】不軽教の杭

髙平伸暁(37歳・会社員・大阪府)

 

1.ゴミ除けにされる鳥居

 神社の鳥居は壮麗なるものが多い。それもそのはず鳥居とは「神域と俗界を区画するもの」、また「神が通る場」であり、それ故「神聖」であるからだ。神聖なものであるからこそ、人は心を込め壮麗に建立する。この様に信仰対象やそれと密接に関する対象を慎みて飾るという行為は、古来より人間にとって自然な事であった。

 一方、道路脇に、粗雑な木で簡易に作られた鳥居が並べられているのを見た事がある人も多いのではなかろうか。これらの鳥居は、ゴミ棄て防止や、散歩中の犬の小便を防止する(もちろん飼い主にそうさせるのだが)ために設置されており、非常に効果が高いのだという。鳥居に向かってゴミを投棄したり、散歩中の犬が小便を浴びせたりすると、なんだか罰が当たりそうな気がして、そのようなマナーの悪い行為が減るのだとか。驚倒する事に、ゴミ除け用の鳥居は好評で、ロングセラーらしい。殊に、国交省や地方自治体からの需要は高く、多くの自治体が購入している実績もある。実際、高速道路脇に数多くの鳥居が並べられているのを見る事も少なくない。

 しかし私は、こういった鳥居を見る度に慨嘆するのだ。本来、神聖である鳥居を、ゴミ棄て防止や散歩中の犬の小便防止の為に、「利用している」様に見受けられるからだ。またこれら鳥居がちゃちに作られている事を鑑みると、コスト優先で極力簡易な造りにしたのであろう。神に対してあまりにも軽々しすぎやしないだろうか。豪華であれば良いとは思わないが、軽々しい信仰心が表象化している。また、不感症者が鳥居に向かってゴミを投棄する事もあるだろう。そうなった場合、鳥居を設置した当人は厭悪を覚えないのだろうか。

 

2.軽信

 道端にゴミを投棄されない様に、また散歩中の犬に小便をさせない様にするために、鳥居を利用し、剰えビジネスとして注目を浴びる。無宗教とされる現代日本らしい出来事である。

 日本人の無宗教性に関する議論の歴史は古い。現代まで系譜的に繋がりを辿れるような議論の場を形成したという点では、幕末から明治期にかけての訪日欧米人による日本人の観察が嚆矢とされる(藤原聖子編『日本人無宗教説』)。これまで日本人無宗教説について数多の議論が交わされてきた。代表的なものに、日本人は信仰を持たないが故に文明を持たないという「欠落説」、無宗教だからこそ文明国たりえたという「充足説」、また既存の日本人無宗教説への反論としての「独自宗教説」等がある。

 日本人の宗教観に関する議論は今なお盛んであるが、殊に西部邁の洞察が現代日本人の宗教観に対して鋭い。

 西部は、現代日本人の宗教観を「軽信」であると喝破した。我々日本人は、価値の絶対基準に対する信仰を放棄した結果、オカルトに対するそれに端的にみられるような、雑多なものに対する度し難い軽信の態度を持つに至ったのだという。目前の新技術に飛びつくが、けっしてそれに拘泥せず、別の新技術が来ればさっさとそれに跳び移るのだ(西部邁『批評する精神Ⅲ』)。

一般的に「軽信」とは、なんでもかんでも簡単に信じ込む事、という意味で使用されるが、西部は、「新しくて良いとされる物をなんでも簡単に信じるものの、その全てを『浅く』信じる事」という意味合いでも用いている。また、さっさと別の信仰対象へと移るという点で、軽信は信仰を軽んずる事であるともいえる。

 鳥居をゴミ除けとして利用する行為は、まさしく西部が述べるところの「軽信」である。鳥居を利用する当人は、鳥居に向けゴミを投棄する所為が人々にとって後ろめたい所為であると解っており、けだし自分自身も同様に後ろめたさを感じる。何故なら、本ビジネスの様な新市場は、統計データを確保し難く、発案者自身の感覚から出発する事が殆どだからだ。また、そういった後ろめたさを感じているということは、少なからず神を感じているのだ。にもかかわらず、鳥居をビジネスとして利用している。まるで「べつに神さまを利用して商売しちゃってもいいじゃない」とでも言わんばかりの軽々しさである。如何せん、軽々しいのである。十字架にもゴミ除けの効果があるのであれば、彼らは数多の十字架を道路脇に突き刺し並べるのだろう。

 

3.敏感さ

 神道が日本人の精神的基盤の一つである事は、誰もが同意するところであろう。神道は宗教として概ね次の特徴をもつ。①多神教でアニミズム的性格、②創唱宗教では無く自然宗教である、③現世利益を求める傾向がある、④怨霊思想、⑤祖先崇拝、⑥新しい神を作り出す(安藤則夫『神道的信仰心の心理的分析』)。

 社会心理学者である南博は、明治から現代までのおよそ500にものぼる日本人論を調べた結果、日本人の基本的国民性は、「対人関係における『敏感さ』」にあると結論付けた(南博『日本人論』)。そしてこの「敏感さ」を基盤として、日本人の神道の信仰が現れているという意見があるのだ。畢竟、

敏感さゆえに、様々なものや自然現象に対して神を感じ、それらを祀るのである。

敏感さゆえに、日常生活の中で無意識のままに、祈り、奉り、お願いし、恐れるのである。

敏感さゆえに、自然災害を恐れ、家族や地域、国の安寧や繁栄を求めて、具体的な御利益を願うのである。

敏感さゆえに、繰り返される災害や疫病が、非業の死を遂げた人達が恨みを抱き続ける事によるものだと感じ、怨霊として崇拝し慰めようとするのである。

敏感さゆえに、祖霊が同じ国土に留まり自分たちを守ってくれると感じ、氏神信仰や村の鎮守様信仰として現れたのである。

敏感さゆえに、楠木正成や間宮林蔵などの優れた人々を、新しい神として祀るのである。

(安藤則夫『神道的信仰心の心理的分析』)

 

 しかし当今、太宗を占める日本人は「敏感さ」を失いつつあり、それと並行して軽信に呑み込まれている。神を感じ難い軽薄な人間たちによって、鳥居はいよいよゴミ除けとして利用されるまでになってしまった。

 

4.価値の絶対基準

 信仰とは神や仏を信じ尊ぶ事、また特定の宗教のドグマを自分の拠り所とする事である。つまり信仰とは、価値判断の基準である。また、信仰は人の意識に焦点をあてた語であるのに対し、宗教は組織や制度までも含めて指す包括的な語である。

人の心は不安定である。殊に超情報社会である現代では、氾濫する情報によって毎日心が惑わされ、安寧に辿り着き難い。ゆえに日本社会では、価値の絶対基準に近づきたいという思いが社会現象として至る所であぶく立ち、新宗教運動という形で表出した。少なく見ても1980年から2000年頃まではそのような社会的潮流であった(西部邁『批評する精神Ⅲ』)。

 価値の絶対基準に近づきたいという思いは、まったく健全な物であり、その限りにおいて新宗教運動の勃興は、寧ろ歓迎するべきものであった。

 しかしここ20年程は、新宗教すらも衰退の一途を辿っている。もはや価値の絶対基準を希求する態度すら人々から失われつつあるのだ。

 

5.ほどけゆく水平的紐帯

 過去30年あまり、新自由主義的政策の推進と並行して、格差は拡大し、一億総中流は崩壊の一途を辿った。そして人々の「水平的紐帯」が、社会の至る所でほどけてきている。

「水平的紐帯」とは、社会的な上か下かを超越した何らかの価値基準をもってして、互いに互いを認めあうことである。ゆえに水平的紐帯を結ぶ為には、人々が何かしらの価値の絶対基準を持つ事が必要なのだ。つまり価値の絶対基準を放棄した「軽信」では、この紐帯を結ぶことができない。いまや、「自己責任論」の蔓延と共にやってきた「勝者か敗者の構造」でしか、互いに存在を認める事が出来なくなりつつある。まさしく価値相対主義、そして軽信の蔓延である。

 水平的紐帯の脆弱化は、共同体を溶解させ街の活力を削ぐ。就中強調したいのは、水平的紐帯が無ければ、人々の「協力行動」が生れないという点である。何故なら上下の関係の本質は「主従」であり、「協力」の道徳は水平的紐帯からしか生まれないからである。協力行動が無ければ、国家の箍が外れ国はやがて衰退する。

 詮ずる所、「軽信」は良くない。ゆえに軽信から脱する必要がある。「敏感さ」が日本人から失われつつある今、軽信から脱するには、「努力して」価値の絶対基準を希求する必要がある。さしあたっての基準として、「軽信」の逆を行こう。

 

 

6.不軽

 新しくて良いとされる対象を何でも浅く信じる精神が「軽信」であるから、その逆を行く精神とは、「どことなく古臭くて軽蔑される対象でも決して軽んじない」精神である。それは「不軽」と呼ばれる。

古来より日本に伝わる『法華経』には、不軽を実践する人物の物語が記されている。その人物は常不軽菩薩と呼ばれる。常不軽菩薩は、像法時代(釈迦の死後500年から1000年の間)に出現した。彼は、生きとし生けるすべての人々に仏性があるとして、二十四文字の法華経を説き、常に衆生を礼拝し軽んじなかったが故に、常不軽菩薩と呼ばれる。常不軽菩薩は、人々から悪口され罵られ、杖で打たれ、瓦や石を投げつけられた。しかし彼は礼拝を止めなかった。彼はその功徳により六根清浄を得て成仏した。また不軽を迫害した人々は、その後一度は地獄に落ちたが、法華経を聞いた逆縁によってやがて成仏した(中村元『法華経』)。

 かつての日本には、今よりも不軽の精神が根を張っていた。例えば民俗学者である宮本常一が「忘れられた日本人」として紹介した祖父宮本市五郎は、まさしく不軽の精神の持ち主であった。犬、亀、蚯蚓、蟹。たとえ小さき生物の命でも、彼は決して軽んじず、敬意をもって接しつづけた(宮本常一『忘れられた日本人』)。また日本には、「一寸の虫にも五分の魂」という古い諺がある。由来は諸説あるが、一般に、どんなに小さくて弱い者でも意地や考えがあるため、馬鹿にしてはならないという意味で使われる。

 

《汝軽んずるなかれ》

 

 これこそ、我らの遺伝子を作り上げし無量の先人たちの重みで紡がれた価値の絶対基準であり、「一切衆生安寧の思想」の欠片である。

 

7.不軽教の杭

 永遠に流れる時間の切っ先にて、「理性ある者たち」は価値の絶対基準に迷い、自己閉塞する「大衆」はそれを希求すらしない。これが日本である。

 よって軽信からの離脱は、「理性ある者たち」が先駆とならざるを得ない。また彼らを、生命や心財を脅かす「邪悪な宗教(価値基準)」の餌としてはならない。希求されるは、「善」の価値基準であり、その道標は「歴史と理性による鍛錬」である。

 故に、押し寄せる「軽信」に凌辱されないよう、幾星霜と理性に鍛錬されし「不軽」のドグマの杭を、精神の大地に深く打ち込み、不抜とするのだ。「汝軽んずるなかれ」と自らに言い聞かせるのだ。

 私が放言せし不軽のドグマは、畢竟、「不軽教」と呼べる宗教である。私は、この不軽教を価値の絶対基準とすることで、「自他共の幸福」に向かい世界が漸進できると信じている。否、正確には、「信じよう」と努めている。大きな組織や儀式もなく最弱の宗教かもしれない。しかし母と父より受け継いだこのドグマを、終生我が命に刻み、そして我が子供たちにも繋げたいのである。深い闇のなかで燦たる灯の如く。