先日、長野県茅野市の「蓼科山(たてしなやま)」に登った。南八ヶ岳の北端にあり、その美しい山容から諏訪富士と呼ばれ、地元の人に愛されている。
軽い岩登りのような急峻な登山道の先には、岩石の海と呼べるような山頂が待っていた。1~5mほどの岩が無数に集まり、地面を作っていた。木々が育たないため遮蔽物がなく、絶景が広がっていた。一方で吹き付ける風が厳しく、厳しい環境であった。
蓼科山の山頂付近は火山噴火によって生じた岩石帯である。緑豊かな蓼科山の麓とは対照的である。山麓には蓼科山が生み出す清らかな水が湧き、複数の湖や様々な植物が育つ高原が広がっている。
そんな蓼科山の麓には多くの縄文遺跡がある。おそらく、豊かな自然環境は我々の先祖にとっても生活しやすい場所であったのだろう。
その一つの棚畑遺跡という場所からは、縄文のビーナスが出土されている。この縄文のビーナス、ほぼ完全な形で出土しており、国宝に認定されている。
縄文のビーナスは、寝かせるように安置した状態で出土していたらしい(尖石縄文考古館のサイトより)。そのことから当時の人々にとって、とても大切な存在で、おそらく芸術性や精神性、宗教性などが表現されているのだろう。
数千年前、我々の先祖が八ヶ岳の麓でどのように生き、何を信じていたのか……そんなことを推察する手がかりが縄文のビーナスにはある。
表現意欲をもち、形にするためには、ある程度の定住期間が必要だと思う。次々と移住していては、生活することに精一杯になり、表現する気力が生み出しにくいという実感が自分自身にある。
蓼科山の麓には、おそらく世代を超えて居住できるほどの恵みがあり、その中で縄文のビーナスが生まれたのだと思う。蓼科山の麓で十分な食物を得ながら定住生活をしていた先祖は、人口を増やしながら、日々の生活がより安定するよう努めた。
狩猟や採取などをして食物を確保する者、土器や石器を作る者、住居を作る者、未開の地を探索する者、そして祭りのような儀式を司る者……おそらく、複数の役割を担いながら、各分野で優れた技量を発揮する者が指導者となり、伝承していったのだろう。
そうした中で、生活が長期的、安定的になっていった。また、定住する人々の共同性も高まっていった。縄文のビーナスはそんな状況の中で生まれたのではないか、私はそう思っている。
現代日本人にとって、八ヶ岳の麓に住んでいた縄文日本人の在り方を知ることが、一体何の役に立つのか……今の私には明確に答えることができない。ただ、日本という国土に合った生き方のヒントがそこにはあると考えている。自然を信仰し、八百万の神という概念を生み出す原動力がその当時から少しずつ根を伸ばしていたのではないだろうか。
悠久の自然と人間の繋がりを感じさせる信州八ヶ岳。今はその表面を撫でる程度しか知り得ていないが、今後も魅力溢れる信州の中で生活しながら、実際にこの足で繰り返し訪れて、自然に息づく人間の歴史を学び、気づきを広げていきたい。
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