「オオカミ少年」という冤罪

谷川岳士(大阪府・36歳・会社役員)

 

 もはや嘘つきの代名詞である「オオカミ少年」という言葉。幼少の頃にこの物語を聞いてから私の中には、少年は本当に嘘つきなんだろうか、と根拠のない違和感が残り続けていました。多くの寓話は説話として人間が陥りがちな過ちを物語を通して教訓するものです。しかし、もし寓話自身がその「陥りがちな過ち」を犯していたとしたら。少年は本当に嘘をつき騒ぎ立て困惑する大人たちを面白がっていたのでしょうか。
 野生動物は我々が思う以上に鋭い直感と感性を備え、それに根ざした知能を持ち、巧みに危機を回避しながら生きていると聞きます。ある意味当然で、前号の「国土と国民の現象学」③で藤井先生が指摘するような文明という「住処」を持たない野生動物たちは、常に自然という脅威に人間よりも密接しながら生きています。その嗅覚なくして生き延びられはしないのでしょう。
 そんな野生動物の狼が、少年の一報を受け鍬や鋤を手に取り、火をおこし夜警をする村人の姿を見た時、無為無策に襲撃するとは思えません。つまり決して大人たちを騙して面白がるために少年が嘘をついたのではなく、村人の備えを見た狼が襲撃を取りやめたのではないか。そして後日また腹をすかせた狼を少年は目撃し、村へと伝え、村人達は眠い目をこすりながら夜を明かし、狼はそれを察知し襲撃をやめる。
 そんな事を何度も繰り返せばどうしても人は疲労から「どうせ今度も来ないだろう」と弛緩してしまい、夜警を解き、はたして狼はそんな隙きを突いて哀れな羊は食べられてしまう。そして疲労と大事な家畜を失った絶望から、村人達は口々にその罪の擦り付けあいが始まるかもしれません。そんな彼らの会話を想定してみれば、
 「なぜ肝心な時に警戒を解いてしまったんだ」「何度も夜警が空振りで疲労困憊だったんだ」「情報が正確ならこうはならなかったのに」「不正確な事を伝えるからだ」「そもそも本当に狼を見たのか」「他に誰か狼を確認したか」と、そんな会話を積み重ね最後には、

 「あの坊主が嘘をつかなければ、羊を守れたのに!」

 ……となるかもしれません。本当は少年こそが何度も村を救ったはずが、それが故に羊を失った罪を背負わされるという因果へと至った可能性がありはしないでしょうか。この「オオカミ少年」という寓話にはこんな背景があり、この我々の愚かさこそを教訓する物語であると受け取るべきではないでしょうか。
 そしてこれは、現代にも同じ事が起こっています。例えば国防、あるいは堤防や河川のインフラ等、それらが十分に機能していればしているほど、本来起こり得たであろう災禍を実感することなく、人々は無駄だ不要だ過剰だと軽視してしまいます。守られれば守られるほど、その真価を理解することなく軽視するという、深い人間の業ではないでしょうか。
 さらに加えて藤井先生が「この度の西日本豪雨の災害の記憶も、早晩、風化していく運命にあると思わざるを得ない」と指摘するように、近年もはや異常だと感じるのは、我々は妙に「災害慣れ」してはいないか。次は自分が被災するかもしれない事を忘れ、どこかで誰かが災害に遭っている事を何か日常の当然のように思ってはいないか。
 大石先生の指摘する方丈記の無常観や、あるいは良寛という江戸時代の僧侶が、大地震に遭った友人に対して送った「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」という手紙など、世の無常を泰然と受け入れるような様に日本人として感じ入るものは確かにあります。しかしこの現代の「オオカミ少年的冤罪」を作り出し、人事を尽くしもせず天命を待っているだけの我々には、本当に受け入れるべき「死ぬる時節」など訪れもせず、待っているのは悲惨な未来しか無いのではないかと思わざるを得ません。
 「当たり前の国土づくりが可能な世論」をいかに醸成するか、という問は私にはとても解けそうにありません。