「そうだ、着物を着て生きていこう!」エーゲ海のほとりで、私はそう決心した。三年前の秋のことだ。
私の通う東方正教会は、キリスト教の中でももっとも歴史的に古い宗派だ。薄暗い聖堂にろうそくが灯され、黒衣を身にまとった修道士たちがいにしへのビザンティン典礼歌を歌っている。大地の底から湧き上がって来るような深遠な響き。福音書は、今日にいたるまで、紀元一世紀に地中海世界で使われていたコイネー・ギリシア語で朗誦されている。使徒時代から途切れることなく続いてきた〈聖なる伝統〉に四方を囲まれ、私たち巡礼者は時空を超えた彼方の世界へと誘われていく――。
こういった環境に身を置く中でしだいに、私の中に、内なる歴史感覚のようなものが芽生え、育っていった。刹那的、表層的ではない、歴史をつらぬく真なるもの、善なるもの、美なるものへの憧憬といったらいいだろうか。大いなる伝統を前に、私はそれに呼応するすべを持たない自分の浅薄さを恥じた。その時だった。突如として私は、自分の祖国に数千年の歴史をもつ民族衣装――着物――が存続していることに目が開かれたのだった。あゝこんな素晴らしい、生ける伝統の存在になぜ今の今まで気づかなかったのだろう。灯台下暗しとはこのことを言うのか。
そう思ったらもう、着物が着たくて居ても立っても居られなくなった。祖母や親戚のおばちゃんたちからお下がり着物をもらい、Youtubeのチュートリアル動画で着付けを習い、一か月後には着物で生活するようになっていた。はじめて御所車柄の訪問着をまとった時の震えるような感動を今でも忘れることができない。やはらかく、ずっしりと重みのある正絹をまとったとき、私は平安時代の美にすっぽり身を包まれるのを感じた。本来まとうべき衣に抱かれ、肌という肌が歓喜していた。私は――米国系の大学を卒業し、ずっと海外で暮らしてきた――この私は、生まれてはじめて自分が日本人であることを体感した。信じられないような喜びが全身を、そして全存在を駆け巡った。
太古からつづく日本の着物を着て、いにしへの正教典礼に参祷するとき、そこには〈歴史的なるもの〉と〈歴史的なるもの〉との邂逅、そして美のアンティフォン(交唱)がある。着物の古典的モチーフである唐草文様は、古代ギリシアの神殿などに見られる草の文様が原型だと言われており、シルクロードを経て日本に伝わった。そういった諸文明の交流の軌跡を「身にまとう」ことのできる幸い。私たちの歴史を、美意識を、代々継がれてきた思いを日常的に着ることのできる喜び。こんな民族衣装は他にあるだろうか。着物が博物館に展示されるだけの過去の遺物ではなく、現在の私たちにも開かれている生きた衣服であることは、世界的にみても奇跡と言っていい。
詩篇に「深淵は深淵を呼ぶ(abyssus abyssum inuocat)」(41篇8節)ということばがある。聖アウグスティヌスはこの箇所を注釈し、互いに深淵をもつ人間どうしの交流には「滝の音」(=神の霊)の媒介が必要であるとしている。そこから鑑みるに、いにしへの「正教典礼」という深淵が、神の霊を介し、日本の美意識としての「着物」という深淵を私のうちに呼び覚ましたのだった。神の御子を表象するろうそくの光は、個としての私、民族としての私のこころの深淵を照らし、神の聖堂の中で今日もそれをやさしく包み込んでいる。
林 文寿(岐阜支部・NPO法人職員)
2025.04.09
清水 一雄(東京支部)
2025.04.09
長谷川 正之(信州支部・経営コンサルタント)
2025.04.09
富加見絹子(45歳、ギリシア、翻訳家)
2025.04.09
前田健太郎(50歳・東京都)
2025.04.09
小野耕質()
2025.04.09
髙江啓祐(中学校教諭・38歳・岐阜県)
2025.04.09
火野佑亮(奈良県、26歳、フリーター)
2025.04.09
織部好み(東京支部)
2025.01.21
北澤孝典(農家・信州支部)
2025.01.21