イスラーム教徒の絶対多数を占めるスンナ派の間で権力者の不正に異を唱えて迫害されるマイノリティーとして生き延びてきたシーア派にとって、圧倒的な力を有する不正な権力者とその取り巻きたちに蹂躙され迫害されても、耐えて、忍従して、しぶとく生き抜くことがデフォルトです。生き抜くことがデフォルトであり、負けないことが勝利なのです。
ジハードは聖戦と訳され日本や欧米など非ムスリム諸国でも人口に膾炙しており、イスラームの好戦性を示すシンボルになっています。しかし12イマーム派法学では先制攻撃は「神隠し(ガイバ)」の状態にあるイマームだけの大権とされています。つまり正当防衛のために自らを守る自衛の戦いは義務であっても、たとえ自分たちの方が正しく相手が悪であると思っても自分から手を出す先制攻撃を仕掛けることは超常能力を有する無謬のイマームから名指しで指名された代理人でない限りたとえどんなに偉い法学者であっても許されないのです。[1]公正な法の支配に基づくイスラーム的政治秩序(Dār al-Islām, Khilāfah)を武力を背景に積極的に広めることを使命とするスンナ派と異なり、12イマーム派の戦争論は日本風に言うなら「専守防衛」なのです。
このことには二つの意味があります。まず第一にイランは先制攻撃をしないので、イランにとっての「勝利」は、アメリカやイスラエルのように他国に攻め込んで土地や資源や富を奪ったり、指導者や住人を殺害したり追い出したりすることではありません。祖国を侵略してきた敵を撃退し自分たちの生命、財産、宗教、名誉を守るために戦い抜き生き延びることができれば、それがイランの勝利なのです。ですからどれだけ住人を殺害され、軍事施設や商業、産業、文化施設を破壊されても「法学者による統治」体制という「国体」を守りきって和平に持ち込んで生き延びたならそれが「勝利」だということです。
イスラエルとアメリカとイランが情報戦・認知戦を繰り広げている現時点で、戦争の実態と双方の被害を正確に見極めることはできません。[2]しかし軍事的にはイスラエル・アメリカ連合の圧勝なのは明らかです、というよりもそんなことは戦う前から分かっています。西洋の政治学の常識に照らせば、軍事的に核兵器においても通常兵器においても世界最強、かつ政治的には国連安全保障理事会での拒否権をもつ安保理常任理事国のアメリカと、核保有もしている軍事大国でアメリカの絶対的全面的支持を受けたイスラエルに、イランが勝てる見込みなど最初から万に一つもありません。
しかし、そもそも、本当に西洋の政治学の常識に照らすなら、他国を領空侵犯して攻撃すること自体が許されません。領域国民主権国家システムの建前の理念であるデモクラシー(多数決)と主権平等の原理に明白に背いています。ところが国連常任理事国は拒否権を持つためにどんな無法も許されるという不正が黙認されているのです。[3]そしてイランが繰り返し否定しているにもかかわらず核開発を核兵器製造の準備と決めつけ阻止することもまた、現在核兵器を保有している列強が核の独占を続け核による威嚇を背景に政治経済的不平等を固定し既得権を守ることが目的の「核拡散防止政策」という不公正なシステムの産物です[4]。
12イマーム派の生きる信仰とは、圧倒的な力を有する不正な権力者とその取り巻きたちの間で大義を掲げて抗うマイノリティーとして、蹂躙されても迫害に耐えて忍従してしぶとく生き抜くことであることは、既に説明した通りです。「なぜ西洋の政治学の常識に照らして万が一にも軍事的に勝てるわけがない戦いをイランの指導部が行うのか」の答えは、この12イマーム派の生きる信仰の前段「圧倒的な力を有する不正な権力者とその取り巻きたちの間で大義を掲げて抗う」からに他なりません。そして「なぜイランが軍事的に大敗しても勝利宣言をするのか」の答えは、後段の「しぶとく生き抜くこと」に成功したからです。
勝ち目のない戦いで多くの犠牲者を出し、アメリカがハメネイの暗殺を示唆して恫喝し手駒の元国王の息子アリー・レザーまで担ぎ出して「イスラーム法学者の統治」体制への反乱を扇動したにもかかわらず、イラン国内では1979年の革命のような大規模な反体制デモは起きていません。法学者の統治体制を嫌ってアメリカに亡命、移住したもともと現体制に批判的だった在米イラン人の間でさえ、イスラエルとアメリカの軍事侵攻の傘下で法学者の統治体制を打倒することに賛同する勢力はごく一部にとどまっています。[5]アメリカが最新のバンカー・バスター(GBU-57/MOP)まで投入して参戦したにもかかわらず、イスラエル・アメリカ連合軍の侵攻に耐え抜いてイスラーム法学者の統治体制を守り抜いたのですから、12イマーム派の専守防衛の論理に則って最高指導者ハメネイ師が勝利を宣言したのは当然と言えます。
12イマーム派の教えが専守防衛で先制攻撃が禁じられているとはいえ、異教徒の侵略者からの攻撃に対する自衛の戦いは「神隠し」のイマームの許可は要らず、力の限り戦うことは義務となります。そこでは「殉教」はあくまでも結果であって、信徒にとっての義務は力の限り生きて戦い抜き敵を撃退することです。ですから殉教を覚悟した最高指導者ハメネイ師が身を隠し暗殺を避けることに何の矛盾もないのです。[6]
トランプの仲裁によって6月23日にいったんは成立したかに見えた停戦の内幕とそれをぶち壊しにしたトランプのイラン再攻撃宣言についての私見を述べておきましょう。イスラエル・イラン戦争をめぐっては激しい諜報戦が行われています。私たちが目にすることができる情報で真実が分かるとは思っていませんが、現時点で最も信頼できると思われる2025年6月25日付『BBCニュース』(日本語版)のショーン・セドン記者の「目まぐるしい24時間、どうやって停戦に至ったのか イランとイスラエル…そしてアメリカは」に基づいて纏めた停戦に至る経緯は以下の通りです。
アメリカが6月22日にイラン国内3か所の核施設を攻撃しました。これは無条件降伏の最後通牒とも報じられた19日のトランプのイラン向けメッセージに基づくものでしたが、むしろアメリカがイランの核施設を破壊することでネタニヤフにこれ以上のイラン攻撃を辞めさせてそれでイランと手打ちをさせるためであることが、SNS上でのトランプとのネタニヤフとのやり取りによって明らかになりました。22日の米空爆後にイランのアラグチ外相は「米国は国際法を尊重しておらず脅迫と武力という言葉しか理解していない」とアメリカを非難した上で報復後に外交による対応を考慮すると指摘しました。
カタールには米軍の数千人の兵士が駐留する広大なアルウデイド基地があり、それがイランの攻撃の対象となりました。ところが事前に被害を避けられるようにイランからカタールに事前通告があったことが明らかになりました。そしてイラン指導層は国民向けにはアメリカに報復したぞとアピールできるけれど、その報復はアメリカとの直接戦争につながるほどの大きな損失を与えないように絶妙に計算された抑制され攻撃をしていたのでした。
それに対してトランプは、2時間前に米空軍基地を攻撃され、その2日前にはイラン革命以来初めての核施設への大規模攻撃を実行し、それ以前には邪悪で世界の安全を脅かす危険な存在だと言い続けてきたイランに対して、報復を「早期通告してくれた」ことに感謝を述べ、イランはこの地域の平和と調和へと進むことができるだろう」と融和的言葉をかけ、イランの指導者らに平和に向けて「オリーブの枝」を差し出したのでした。
後に明らかになったところでは、この時点でアメリカ、イラン、イスラエル、カタールが水面下で慌ただしく協議を進めており、トランプはネタニヤフと直接電話で話し「戦いを終える時」だと伝え、この間にもヴァンス副大統領と首席国際交渉官のウィトコフ中東担当特使がイラン側と接触していました。
イランのアラグチ外相はトランプの停戦案を受け入れる用意があると示唆し、イスラエルが攻撃を停止すれば「それ以降に報復を続けるつもりはない」と述べ、トランプ大統領は「停戦が発効した。絶対に破るな!」とすべて大文字でソーシャルメディアに投稿し停戦開始を宣言し、それから間もなくイスラエル政府も停戦で合意したと正式に認めたのでした。
この時のトランプの言葉を再現しましょう。“God bless Israel, God bless Iran, God bless the Middle East, God bless the United States of America, and GOD BLESS THE WORLD!”. 筆者は1979年の革命以来のイラン・ウオッチャーですが、管見の限り、19179年のイスラーム革命後に歴代大統領でイランを祝福したのはトランプが初めてです。言うまでもなくBlessは宗教用語であって外交用語ではなく、愛国心と結びついたアメリカ的宗教的表現です。勿論、政治における言葉は全てポジショントークです。しかしポジショントークだからといって嘘だということにはなりません。私はこれはトランプの本心でもあると思っています。
しかし停戦合意発効直後にイスラエルのカッツ国防相はテヘラン中心部の体制拠点に激しい攻撃を行うよう命じたと発表しました。イスラエルの戦闘機がイランの首都へ向かうとトランプ氏は再びすべて大文字で「その爆弾を落とすな。そんなことをすれば大々的な違反だ。操縦士たちを帰還させろ。ただちに!」とSNSに投稿しました。
NATO首脳会議に発つ前にトランプは、記者団に向かって、停戦合意発効後にイランへ向かっていたイスラエルの戦闘機を帰還させるようネタニヤフ首相に求めたことについて「時間制限のあとに発射されたロケット砲が一発あったんだろう。それでイスラエルは出動するという。あの連中には、落ち着けと言いたい」と述べ、怒った様子で攻撃をイスラエルが仕掛けたのが「気に入らない」と述べ、続けて「イランについても、良いとは思っていない」と述べました。報道陣に背を向けて立ち去ろうとしつつ、トランプはイスラエルとイランに対して「あまりにずっと長いことすごく必死に戦ってきた二つの国があって、もう自分たちが何をしてるのかまったくわかっていないんだ」と罵倒語を交えて両国に対する不満を爆発させました。
ホワイトハウス関係者によると、NATO総会出席のためにオランダへ向かう機内でトランプはネタニヤフに電話をかけ「極めて厳しく率直な」態度を示し、ネタニヤフは「事態の深刻さとトランプ氏の懸念を理解した」ということです。トランプはまたイランの指導部に関しては、核兵器の開発などそんなことを考えるのは最後のことのはずだとも述べたといいます。
しかし、トランプは強引に停戦を纏め上げましたが、あっという間に停戦を危機にさらします。理由は双方の停戦違反ではなく、イランの3か所の核施設のアメリカの爆撃の効果に対するイラン(ハメネイ師)とアメリカ(トランプ)の評価のナラティブの食い違いです。
トランプのナラティブは、米軍によるイランの核施設攻撃は壊滅的であり、広島と長崎への原爆投下の場合と同じく壊滅的打撃によってのみ戦争を終わらせることができた、とのものでした。
被害の真相は分かりませんが、『フィナンシャルタイムズ』の分析ではアメリカの空爆の効果は限定的でイランの核開発能力はほぼ無傷です。[7]またIAEA(国際原子力機関)のラファエル・グロッシ事務局長は6月24日にはアメリカ軍の空爆でイランの核施設内で「汚染が生じた可能性がある」と述べましたが、25日にはアメリカの攻撃前にイランが高濃縮ウランの大半を別の場所に移した可能性があるとしています。トランプがイラン核施設の攻撃の影響を誇張しておりイランの核開発計画の中断を成し遂げなかった、とのハメネイ師の勝利宣言は事実としてもあながち間違いとも言い切れず、専守防衛の12イマーム派のナラティブであることを考え合わせれば決して単なる「負け惜しみ」ではありません。
それに対してトランプはイランがウラン濃縮活動を続ければ再び攻撃すると改めて警告したた上でハメネイ師の勝利宣言を「うそをつくべきではない」と非難し、制裁緩和の検討をやめたと表明、核施設へのIAEAの査察を求めました。核開発計画を放棄すれば経済発展に協力すると、硬軟織り交ぜてイランに譲歩を迫り中断していたイランとの高官協議を再開しイランの核開発計画を放棄させる戦略を取りましたが裏目に出ました。
イランではアラグチ外相が26日に協議再開について「合意に至っていない」と述べ、27日にはグロッシ事務局長の訪問も拒否し、原子力庁のモハンマド・エスラーミ長官も「原子力産業は国家の成功の象徴」として核開発計画を継続する方針を表明しました。[8]7月4日にはIAEAの査察官のチーム全員がイランから退去し、査察官がいなくなったことで、アメリカの攻撃によるイラン核施設の被害やウラン濃縮などの活動に関する透明性が一層失われることになりました。[9]
おさらいをしておくと、イランが核兵器を作る、と言っているのはイスラエルとアメリカであって、ハメネイ師は2003年に核兵器はイスラームの教えで核兵器は禁じられている、とのファトワー(教義回答)を発しており、核開発は平和利用の目的だ、というのがイラン政府の公式見解でもあります。[10]
そしてアメリカでも、トランプがイランの領空侵犯をし核施設を空爆したことで、イランの核兵器開発を抑止したのではなく、かえってイランに核兵器保有の必要性と正当性を与えてしまったという見方がでています。つまりNPT(核兵器不拡散条)体制で認められている核の平和利用をめぐってIAEAが交渉している間であってもアメリカが一方的に領空侵犯して攻撃してくることを実証してしまったため、NPT体制に対する信頼性が決定的に損なわれ、そして核を持たなければ攻撃されるとの懸念が説得力をますようになってしまったのです。[11]
ハメネイ師のファトワーは現時点で有効ですが、ファトワーはそもそも特定の状況の下での特定の問題についての判断であって、状況次第で変わるものです。ですから、ハメネイ師の核兵器の保有を禁ずるファトワーも状況が変われば変わりえます。トランプのイラン核施設空爆はアメリカの直接参戦という前例のない事態であり、イランの安全保障状況を根本的に変えるものでした。状況が根本的に変わったなら、核保有を禁ずるファトワーが変わることは十分にありえます。実際にイラン革命防衛隊シンクタンク戦略研究国際関係センター(Center for Strategic Studies and International Relations)所長アミール・ムーサヴィ准将は2021年1月に「12イマーム派の法理によればファトワーは恒久不変ではなく状況の変化に応じて発布される、したがってアメリカとシオニストが危険な行動を取ればファトワーは変更される可能性がある」と述べています。[12]
MAGAアメリカの直接参戦、核施設への新兵器バンカー・バスター(GBU-57/MOP)を使用した大規模攻撃によって、イランが核兵器開発問題での態度を硬化させたのは確かですが、それはイランがアメリカと泥沼の戦争に踏み込み中東全体を巻き込む全面戦争に向かうことを意味しません。私見では最初に書いた通りこれはディールの始まりであり、態度を硬化させて見せたのはイランが情勢が有利とみたから条件闘争に入ったことを意味します。
最後に今後の短期的見通しとしてイランの視点からの2つのシナリオを概説します。
私見では現在イランは1979年の革命以来、最大のディールのチャンスを迎えています。なぜかというと第一に、イランは革命以来初めてイランに祝福を送ることができる大統領を相手にしているからです。既述の通り、筆者はトランプが世界の平和を望んでおり、イランとイスラエルを本気で和解させようとしていると考えています。言い換えれば、トランプはイランを挑発してイスラエルと全面戦争に持ち込ませて、それによって高挙が起き信心深いキリスト教徒が天に挙げられる、と考えるような「非合理的な」福音主義者ではない、ということです。
たとえイスラエルとイランの和平仲裁の目的が、自らの手でアブラハム合意を実現し中東に平和をもたらした大統領として歴史に名を残したい、ノーベル平和賞を受賞したい、との自己顕示欲からのものであっても、イスラエルとイランを和解させることが地域の安定と繁栄をもたらすとトランプが信じていることは事実でしょう。そしてそのためには圧倒的な力を持つ者が力を見せつけて力づくで仲直りをさせるしかない、そのためには広島や長崎への原爆投下による多少(数十万人)の犠牲はより多くの人命を救うためには仕方がない、と「普通のアメリカ人」と同じようにトランプもまた信じているのです。
第二に、トランプは、やはり革命以来初めて、世界全体を敵に回してでも国連安保理の常任理事会での拒否権を使って絶対的にイスラエルを常に支持し続け特別な関係をアピールしてきたアメリカ大統領として公然と怒りもあらわにイスラエル首相を罵り恫喝して、自らが用意したイランとの停戦をぶち壊しにする攻撃を力づくで止めた大統領だったからです。そしてトランプは自分の言うことを素直に聞くかどうかだけで判断し、最悪の敵であるイランと特別な同盟国であるイスラエルをいわば「平等に」困ったやつらとして扱った大統領だからです。
これはイランにとって国際環境の根本的な変化であり、イスラーム共和国建国以来初めての事態です。トランプの持ち掛けたディールへの対応の最初の一幕は大成功でした。カタールの仲介による両者の面子を立てた事前通告の上でのアメリカ軍基地への攻撃の勧進帳をトランプは気に入り、イランへの感謝と祝福の反応を引き出しました。しかし第二幕のホメイニの勝利宣言では、トランプが芝居を忘れて本気で怒り出してしまったのが誤算でした。
しかしもう一点見逃してはいけないのが、ハメネイ師の勝利宣言に対して怒りに任せてトランプがNATO首脳会議の後の記者会見で放った言葉「彼ら(イスラエルとイラン)は盲滅法に殺し合っているが、自分たちが何をバカやっているのかわかっちゃいない(They are fighting so hard, they don’t know what the fuck they’re doing)」です。これはアメリカ大統領がイスラエルに対して公然と外交の場に相応しからぬ「fuck」という露骨な表現で強い怒りを露わにした非常に例外的な政治発言でした。つまり、ハメネイ師の勝利宣言に腹を立てた時点でも、特別な同盟国であったはずのイスラエルを不倶戴天の敵であったイランと同列に引き下げるトランプの評価は「本音」であり変わっていない、ということです。これは国際環境におけるイランの相対的な地位の劇的な向上であり、条件交渉を有利に進める千載一遇の好機だと言うことです。ですから、私見ではイランは以下の二つのシナリオを念頭にディールを行っています。[13]
第一は、この機に核兵器製造を禁ずるファトワーを撤回し、国体を護るために核兵器製造を解禁するファトワーを新たに発するシナリオです。
MAGAアメリカは核施設の破壊が予想を下回り核兵器製造能力を完全に奪った確証を得られなかったという軍事的失敗に加えて、領空侵犯の上に核施設を攻撃するという国際法への明々白々たる違反行為によって、かえって中露による正論の批判を浴びる結果になりました。またトランプがイランの核施設空爆を長崎への原爆投下になぞらえたのも、欧米列強が互いの縄張りを犯さず既得権を温存するために結んだカルテルに名誉白人国家として末席に連なる日本の国民感情まで傷つける悪手でした。ネタニヤフのパレスチナ人に対するジェノサイドでの目に余る悪行の数々に加担して参戦しているとの印象を与えたのもMAGAアメリカにとっての逆風となりました。
国際法上も明らかに違法なアメリカの空爆はハメネイ師が国家存亡の危機にあって「法学者の統治」体制の国体を守るために、核兵器の保有を合法化するファトワーを新たに発することを、国際法的にも正当化する事由となります。
12イマーム派法理学では、死んだ法学者のファトワーは効力を失いますので、最高指導者ハメネイ師が暗殺された場合も結果的には同じで、自動的に核兵器製造は宗教的には解禁されます。この場合は国際環境の変化により、イランは核兵器保有の権利を有するが、国体の保全の保証が得られれば、その権利を保留する、という形での条件闘争になります。これは軍事用語として「戦略的曖昧さ(strategic ambiguity)」として知られているものです。代表的な例が核兵器の保有を公式には肯定も否定もしないイスラエルの沈黙です。実はイランはムハンマド・レザー・シャーの時代から欧米の協力の下に核開発を進めており、シャーの発言には核兵器の将来の保有に関しても「戦略的曖昧さ」がありました。[14]現在のイランも同じように「戦略的曖昧さ」によって将来の核兵器保有の可能性の示威行動をとっています。[15]
この場合、中露北朝鮮との安全保障条約を結ばれて、イランをグローバルサウスの核保有大国にしてしまうより、イランと和平条約を結び国交を回復する方がアメリカにとって利益があるという理路は十分説得力があり得ます。イランの核武装は、アジアを主戦場として中東から手を引こうとしているアメリカにとっては大きな脅威ではなく、それを妨げてきたのはイスラエルとの特別な関係だけだったからです。
核兵器は使ってしまえば自国にも予測不能の災厄をもたらす使えない兵器です。いつでも兵器に転用できる技術と材料を準備しながら、それを持たない約束をすることで、アメリカと非友好的な講和条約であっても結んでまがりなりにも国交を回復し、国際社会に完全復帰することは、「圧倒的な力を有する不正な権力者とその取り巻きたちの間で大義を掲げて抗うマイノリティーとして蹂躙されても迫害に耐えて忍従してしぶとく生き抜く、専守防衛を国是とし12イマーム派の法学者の統治体制を国体とするイラン・イスラーム共和国」にとって最善のディールです。
それをカタール、トルコ、オマーンなどの周辺国のステークホルダーを巻き込み、アブラハム合意を実現し中東に平和をもたらしノーベル平和賞を欲しがるトランプの優越感を満足させる名よりも実を取る下手に出るナラティブに仕立て上げられるか、イラン外交の腕の見せ所です。
第二のシナリオは、改めてハメネイ師とその他の権威ある高位法学者たちが連名で核兵器保有を禁ずるファトワーを発出し、ウランの濃縮も中断し、IAEA(国際原子力機関)の査察も受け入れ再開する条件で、アメリカと和平条約を結び国際社会に完全復帰を果たすディールです。
形式的には第一次トランプ政権が2018年に脱退した、イランによる核開発を制限しIAEAによる監視の下に置く代わりに国際制裁を解除する、イランと米・英・仏・中・露・独+EUの間で締結されていた包括的共同作業計画(JCPOA)にほぼ戻るような条件ですが、トランプのイラン核施設攻撃によってイラン側の国際法的立場が有利になったため、アメリカとの和平条約、国交回復まで視野に入れたディールが可能になります。このディールの肝は、ネタニヤフのイランの体制転覆の試みを阻止したトランプの和平実現への「誠意」を評価し、イスラエルとアメリカを切り分け、イスラエルだけを悪役に仕立て上げアメリカの顔を立てることです。つまり悪役のイスラエルとは停戦するが講和はせず、善玉のMAGAアメリカには、ネタニヤフを抑えつけパレスティナ問題でもジェノサイドを辞めさせるためにその影響力を行使することを条件にすることで「大悪魔、アメリカに死を」と呼んできた過去のいきさつはすべて水に流し、リップサービスを行い、アメリカ側からみると核兵器開発停止による「無条件降伏」の恫喝に屈したかのようなナラティブを紡ぎあげることです。[16]
本稿で詳述した大義を掲げて絶対的な強者に抗う専守防衛のマイノリティーとしての12イマーム派の自己認識を正しく理解し、トランプにそれを伝えて共に「勧進帳」を演じ切らせる力量を有する外交の賢者の一団が、歴代アメリカ大統領と一線を画すトランプが大統領であるこの好機を逃さず上記のどちらかのシナリオで中東に当面の平和をもたらすために目に見えないところで尽力していると筆者は信じています。(了)
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[1] 12イマーム派法学ではイマームの「神隠し(ガイバ)」期間には先制ジハードは許されないというのが定説です。
歴史を通じてマイノリティーの弱者として生き延びてきた12イマーム派は自衛で戦うことはあっても、異教徒に対してであれスンナ派に対してであれ自分から戦いを仕掛けることは法学上許されていません。つまり、12イマーム派にとって「勝利」とは「自衛に成功すること」、言い換えれば「攻め滅ぼされずに生き残ること」なのです。
拙著『イスラーム学』(作品社2020年)の第5章[現代シーア派政治思想]に収録されている拙稿「シーア派法学における古典ジハード論とその現代的展開」で詳述しましたが、それは12イマーム法学の標準的古典教科書アル=シャヒード・アル=アウワル(1384年没)著Al-Lumʿah al-Dimashqīyyah fī Fiqh al-Imāmīyyahに対するその最も権威ある古典注釈書であるアル=シャヒード・アル=サーニー(1557年没)のAl-Rawḍah al-BahīyyaH fī Sharḥ al-Lumʿah al-Dimashqīyyahの「イマームが神隠し(ガイバ)の状況にある場合には法学者にはジハードを許可する権限はない」との学説により、伝統的にジハードによる先制攻撃を仕掛ける判断がイマームの大権とされてきたからです。
[2] 英紙テレグラフによるとイスラエル・イラン12日間戦争で、イランのミサイルはイスラエル軍事施設5カ所を直撃していたが、イスラエルではこれらの被害は検閲法によって報道もできません。また同紙の分析によれば、イランのミサイルがイスラエル軍と米軍によるミサイル防衛システムを突破する割合は次第に向上しており7日目には突破の割合は16%に達していました。「「12日交戦」でイランのミサイルがイスラエル軍5カ所直撃」2025年7月6日付7/6(日)」『朝日新聞』参照。
[3] ロシア外務省はアメリカのイラン攻撃を「主権国家の領土をミサイルや爆弾で攻撃するという無責任な決定は、どのような論拠が示されようとも、国際法、国連憲章、国連安全保障理事会の決議に明白に違反している」とし非難し、中国外務省も「国連憲章の重大な違反で中東の緊張を悪化させると指摘していいる。「中露が米国のイラン攻撃を非難 中国「緊張激化させる」 ロシア「侵略停止を」2025年6月22日付『産経新聞』他参照。
[4] 公正を求める諸国からの代替案としての核兵器自体を違法とし全廃を義務化する「核兵器禁止条約」は、2021年に批准されていますが、全ての核保有国から拒絶されたため実効性はありません。
[5] Cf., MARIAM FAM, “In US, the Iranian diaspora contends with the Israel-Iran war and a fragile ceasefire”, AP, 2025/06/25.
[6] イスラエルに暗殺されたイラン国軍や革命防衛隊の司令官の葬儀が6月28日に行われましたが、マスード・ペゼシュキアン大統領ら行政、司法、立法の長は出席しましたが、ハメネイ師は欠席しました。それもハメネイ師の暗殺をイスラエルが目標に掲げている以上、情報戦において敵に戦果を宣伝させないためにも、ハメネイ師が暗殺の危険を避けて公の場に姿を見せないのは当然だからです。12イマーム派の殉教の決意は、日本人の玉砕の美学のようなセンチメンタルで非合理的な感情でなく、合理的な戦略、戦術立案の基礎となる所与であることを忘れてはなりませんす。吉形祐司「イランで司令官ら60人の葬儀、ハメネイ師の姿確認できず」2025年6月28日付『読売新聞』参照。
そして殉教哀悼儀礼の「アーシューラー」にあたる7日5日には欧米メディアなどでは暗殺を恐れて潜伏中との観測が広がっていたハメネイ師は「私たちはあなたのために死ぬ準備ができている」と叫ぶ群衆の前に姿を現し手を挙げて応えています。「イラン最高指導者公の場に姿現す 攻撃後初、宗教行事へ参加」2025年7月6日付『KYODO』参照。
これは休戦が守られ状況が落ち着いたともありますが、12イマーム派の信仰心が最も高調する「アーシューラー」の哀悼儀礼の中で暗殺されて殉教者となれば、イスラエルの戦闘能力を見せつけられて士気が下がるより、ハメネイ師の殉教をイマーム・フサインの殉教に重ね合わせて復讐の戦意高揚に繋がるとの計算があってのことでしょう。
[7] 「トランプ米大統領、広島と長崎への原爆投下になぞらえてイラン攻撃を正当化」2025年6月25日付『読売新聞オンライン』他、「局所的な汚染の可能性」IAEA発表 イラン中部のウラン濃縮施設内 着弾痕も新たに確認」2025年6月25日『テレ朝NEWS』、淵上隆悠「北米イランの濃縮ウラン「ほぼ無傷」、米軍攻撃前に搬出か」2025年6月27日付『毎日新聞』参照。
[8] 「ウラン濃縮継続ならイラン再攻撃 トランプ氏「当たり前だ」と警告」2025年6月28日付『東京新聞』、「イスラエルとイラン、辛うじて維持される停戦…イランは核開発計画断念の兆しなし」2025年6月30日付「読売新聞オンライン」等参照。
[9] 大野良祐「IAEAがイランの査察官引き揚げ」2025年7月5日付『朝日新聞』参照。
[10] アメリカの情報関連高官はイランのハメネイ師は2003年に核兵器開発を禁止する宗教令の「ファトワー」を発しており、これは現在も有効であり、イランが15日以内に核兵器を製造できるというイスラエルの評価は誇張されていると批判した。チョン・ウィギル「米情報機関「イラン、最高指導者が暗殺されれば核爆弾を作るだろう」」2025年6月21日付『ハンギョレ』参照。ハメネイ師の英語版公式サイト(2025年6月30日更新)の「核問題」シリーズの2017年4月9日付の項目「Reason is telling us not to pursue nuclear weapons」参照。
[11] Cf., “Bombings set back Iran’s nuclear program, but likely didn’t kill it”, Business Insider, 2025/6/25,
Miranda Jeyaretnam, “How Bombing Iran May Have Made Nuclear Diplomacy Much Harder”, Time, 2025/6/25.
[12] Cf., Michael Eisenstadt, Mehdi Khalaji, “Iran’s Flexible Fatwa: How “Expediency” Shapes Nuclear Decisionmaking”, The Washington Institute for Near East Policy, 2021/2/4.
[13] イランはホルムズ海峡の封鎖をほのめかしていますが、これも条件闘争のディールに過ぎません。ホルムズ海峡の封鎖を実施する能力と意欲があることをほのめかす戦略的示威行動によって石油供給への不安を掻き立てる可能性は十分に考えられるが、実際に封鎖を行うことは自殺的行為であり、実際に封鎖を実施する可能性は非常に低いからです。小山堅「ホルムズ海峡「封鎖」への「示威行動」には要注意」2025年7月3日『Forsightフォーサイト』参照。
またイランが封鎖を実施すればイランの石油の世界最大の買い手でロシアと並ぶ最重要な後ろ盾でもある中国との関係悪化を招きかねないことからも、海峡封鎖は示威行動に過ぎないと考えられます。「アメリカ、イランによるホルムズ海峡封鎖の阻止を中国に要請」2025年6月23日付『BBC News Japan』参照。
[14] 1974年6月23日のフランス週刊誌LES INFORMATIONSのインタビューでシャーは核兵器を将来保有する可能性をほのめかしていました。
[15] Cf, Jonathan Tirone「イラン、核開発巡り深める沈黙-「戦略的曖昧さ」で主導権狙う」2025年7月2日付『ブルームバーグ』。
[16] 6月29日、12イマーム派の最高権威(アーヤトゥッラー・ウズマー)のナーセル・マカーレム・シーラーズィー師とホセイン・ヌーリー・ハメダーニー師によるイランの国民と指導部を攻撃したアメリカとイスラエルに協力、助勢することが禁じられているとのファトワー(教義回答)が広く回覧されていることがアメリカで報道されました。二人のファトワーはアメリカとイスラエルを区別せず非難しており、残念ながらアメリカとの融和の意図は全く感じられませんでした。少なくとも敵国イスラエルとイランの停戦合意を纏め上げたトランプを功労者とみなして悪辣な神の敵ネタニヤフと差別化し、この機会を逃さずアメリカと手打ちを済ませて国際社会に復帰しようと言うことでイランの最高権威(アーヤトゥッラー・ウズマー)たちが一致団結した徴候は現時点では見出せません。Cf., Somayeh Malekian, “Iranian leaders’ religious decrees, legislation escalate legal crackdown”, ABC News, 2025/7/1.
<編集部よりお知らせ>
~『日本の真の国防4条件』出版記念~
元陸将補・軍事評論家 矢野義昭先生による新刊『日本の真の国防4条件』の刊行を記念し、特別講座を開催いたします。
本講座では、単なる技術論にとどまらず、「核武装」の是非を思想的側面からも深く問い直します。矢野先生自らが問題提起を行い、参加者とゼミ形式で議論を交わす双方向型の講座です。質疑応答の時間をたっぷり確保。直接質問し、意見交換ができる貴重な機会です。
ご参加の皆様全員に、矢野先生の著書『日本の真の国防4条件』を一冊進呈!
日時:2025年7月12日(土)14:00〜16:00(13:45開場)
会場:日本料理 三平 7階 サンホール(新宿駅徒歩5分)
会費:一般 4,000円/塾生・サポーター 3,000円
講師:矢野義昭(軍事評論家/元陸将補)
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