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【浜崎洋介】「思想」の在り方について――34歳男性サラリーマン(ペンネーム富士奇跡さん)のご相談にお答えします(2)

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 藤井先生の「人生相談」に刺激されて、私も富士奇跡さんのご質問に、少し違った角度から答えてみたいと思います。

 私は、今、三十九歳ですから、質問して下さった三十四歳の富士奇跡さんと、ほぼ同世代だと言えます。おそらく、それもあって、現在流通する様々な情報に接することで、かえって「思想の迷子のようになっている人は少なからずいるかも」しれない、そんな「思想の迷子になっている人々に対して、先生方はどのように思われていますか」という問いかけには、切実なものを感じました(富士さんの質問の全文は、最後に掲載しておきます)。

 ただ、同時に、「サラリーマンをしていると、経済合理性や現実的な着地点で考える癖が年々染みついている一方、シンポジウムで話されているように長期的な視点で見ると保守思想家の歴史の読みは当たることは歴史が証明している事実であり、シンポジウムにご出席されていた先生方のように大きく構えて物事をとらえたいという欲もあります」という富士さんの言葉を読むと、その言葉のなかに、既に「思想の迷子」になってしまう種が孕まれているようにも見受けられました。どういうことか。

 富士さんのご質問に対しては、前回は、藤井先生が具体に即して「人生論」を展開されていたので、今回、私の方は、もう少し抽象的な「思想論」を展開させていただければと思っています──とはいえ、話は結局、具体に及びますが──。

 まず断言から始めますが、人が「思想の迷子」になってしまう種は、「思想」と「現実」とが区別できない─あるいは区別したくない─という姿勢のうちに孕まれています。
 では、そもそも「思想」とは何なのか。
 それは「現実」を見るために用意された支点であり、その限りで、「現実」とは違う位相にあるものです。つまり、「思想」とは、「現実」とは違う「理想」を考える営みとしてあるのです。実際、目の前の現実によってコロコロと変わっていく言葉を、誰も「思想」とは呼ばないでしょう。

 しかし、だとすれば、「理想」が「現実」の対義語であることからも分かるように、「思想」には、必ず「現実否定」の契機が含まれているということになります。そして、「現実否定」の契機があるということは、「現実主義」(ある「現実」に対して戦略を練ること)だけに泥んでいる限り、絶対に「思想」は手に入らないということでもあります。
 とはいえ、私は「現実」を無視してもいいと言っているわけではありません。逆に、「現実」を凝視した上で、その「現実」によっては左右されないものが自分の中にあるのかどうかを見つめる必要があろうと言っているだけです。言葉を換えれば、ここまでは譲れるが、ここからは譲れないという一線が自分の中にあるのかどうかを確かめる必要があるということです。

 だから、私たちは常日頃から「危機」を想像しておく必要があるのです。たとえば、あれもこれも手に入ると思っている状態(日常)で、人は「何が譲れぬ一線なのか」などと自問自答することはほとんどないでしょう。しかし、「危機」は、私たちに、あれかこれかを問い質してきます。そして、そのとき立ち現れてくるのが、自分自身の「譲れぬ一線」であり、また、自分が本当に何を必要としているのかといった自覚です。

 具体的に言いましょう。大学に専任ポストを持たず、直接的な「効用」も疑わしい「文学」などで日銭を稼いでいる私などは、いつ食べられなくなるか分からない危機感のなかで、日々の原稿に向かっています。ただ、そういう事情もあって、むかし結婚する時に決めたことが一つだけありました。それは、「妻と筆」のどちらかを取らねばならなくなったとき、私は迷わず「妻」を取るということです。
 特に私の場合、学生結婚(大学院時代ですが)だったものですから、いざ、妻が交通事故に遭っただの、急病で倒れただのした場合は、もちろん「学問」どころではなくなるわけですし、その先も筆が握れるかどうかは分からなくなるわけです。だからこそ、いざというときに、醜く惑わないためにも、最後の最後で何を守り、何を捨てるべきなのかといった優先順位は自分のなかでハッキリさせておく必要があると思ったのです。

 ただし、だからといってそれは、優先順位の低い「筆」をおろそかにすることではありません。むしろ逆です。「危機」に際しての「譲れぬ一線」を自覚するがゆえに、今、ここで「筆」を執れていることの僥倖を自覚することができるのです。また、それによって、「この筆」に賭けていく覚悟、今ここを精一杯生きる姿勢も固めることができます。
 その意味で言えば、私にとって「妻」は、「思想」だと言ってもいいでしょう。それは、「現実」がどうであろうが、私の言葉を出発させる起点であり、私が是が非でも守るべきものの異名です。

 そして、面白いのは、その「思想」を手にすると、逆に「現実」もよく見えてくるということです。簡単に言ってしまえば、「平和主義」だの「民主主義」だの「ポストモダン」だの「構造改革」だの「グローバリズム」だの……その浅薄さが──つまり「危機」に及んでの使い物にならなさが──、ほとんど直感的に分かってしまうのだということです。
 その意味で言えば、現今の日本が直面している最大の「危機」は、誰も我が事として「危機」を感じていないことだと言えるかもしれません。あれもこれもではなくて、あれかこれかを強いる機会が日本にはなさすぎる。とすれば、いつまでたっても日本人は「現実」にズルズルベッタリと甘えながら、「思想」を生きることはないということになります。
 かつて、福田恆存は「絶望から出発せよ」と言いましたが、その「現実」に対する「絶望」からはじめない限り、あれもこれも欲しいという子供染みた優柔不断さが払拭されることはないでしょう。この「絶望」を起点にできない限り、これから先も「思想の迷子」が増えることはあっても、減ることはないものと思われます。

 その上で、富士さんからのご質問にお答えしておけば、まず「保守思想家の歴史の読みは当たる」から、保守思想が立派な「思想」なのではないということです。おそらく事態は逆で、「当たる」かどうかとは別に、保守思想は「現実否定」の契機を自覚しているがゆえに、結果的に「当た」ってしまうのです。
 そして、これで本当に最後にしますが、「大きく構えて物事をとらえ」る態度というのは、視野の広さや、知識や、論理力からではなく、「譲れぬ一線」に対する覚悟や勇気からもたらされるものです。それこそ、「教養高いバカ」の多い戦後日本に生きている限り、いやというほど味わわされる「現実」でしょう。
 果たして、富士さんからの質問に上手く答えられたかどうかは分かりませんが、以上を、私からのお答えとさせていただければ幸いです。

ペンネーム「富士奇跡」さん(34歳男性サラリーマン)からのご相談内容

先日の表現者クライテリオンでのシンポジウム非常に勉強になりました。世間の空気や圧力に流されず主張し続ける言論活動の意味について、深く考えさせられ、良い刺激になりました。また一方的に発信するだけでなく、Q&Aの場も設けて頂き読者との対話の場も設けて頂いたことに感謝いたします。

今回は保守思想のあり方と現実の日本社会(特に民間企業に勤めるサラリーマン)との関係性についてご質問させて頂きます。少々長くなってしまいますので、万が一ご掲載頂ける場合は抜粋頂いて全く問題ございませんし、日本のいわゆる普通のサラリーマンの一意見として受け取っていただければと思います。

プロフィールの通り、私は社会人12年目のサラリーマンで世代で言えば川端さんと非常に近い世代です。今回の質問をさせて頂く背景として、簡単に小職の自己紹介と思想の変遷を紹介させて頂ければと思います。
私は広島で生まれ、千葉で育ち、中学2年から高校までの青春時代をアメリカで過ごし、高校卒業と同時に帰国し国内の大学で経済学を学び、2006年に新卒でベンチャー企業に入社しました。その後3度の転職を経て現在は大手石油会社に勤めております。
学生時代~社会人1,2年目にかけては、今でいう構造改革派に近い考えで市場原理主義こそが正義という考えを持っていましたが、社会人2年目の際に、地方(新潟)に転勤となり、地方の賃金の低さと格差の現実を目の当たりにし、当時の日本社会のあり方を真剣に考えるようになりました。(当時は今より構造改革派の意見が主流だったと記憶しています)

そこからインターネット上にあふれる有象無象の情報などから、年次改革要望書などの存在等を知り、日本はアメリカに全く意見できない属国ではないか、という極端な反米思想に侵され、自民党は信頼できないと思いこみ、当時一大ブームだった民主党政権に投票し、対米隷属からの脱却!と息巻いておりました。
民主党政権の末路は言うまでもないことですが、その後安倍総理が戦後レジームからの脱却を掲げて再選し、私自身非常に大きな期待をしましたが、もはや戦後レジームからの脱却なんてワードは全く耳にしなくなってしまいました。

それでもまだ民主党政権時代に比べたら景気はマシですし(正直あまり実感は沸きませんが。。。)、安倍政権以前の毎年のように首相が変わるようなことでは、諸外国から信頼を得られわけないという背景、及び外交においても民主党政権と比べたら上手くやっている(何より多少でも英語で話せるのは良い)ことから、今は消極的ではありますが他に選択肢がないという点において安倍政権を支持しております。

一方で日本社会自体今のままで良いのか、という疑問も年々増えてきていて、
保守思想とは相いれないのかもしれませんが、最近は落合陽一さんや高城剛さん田端信太郎さんのような最新のテクノロジーをベースとしたすごく現代的な、いわゆる一般で意識高い系と呼ばれてる人たちが好む考え方についても現代日本には合っているのかな、とも感じてきています。

特に民間企業でサラリーマンをしていると、日本の大企業の意思決定の遅さ、また無駄の多さに加え、何をしているんだかよくわからないオジサン達を毎日のように目の当たりにすると、日本が高度成長期時代に構築した今の社会(特に大企業)の仕組みは全く機能しておらず、
もっと雇用を流動性を高めて、少なくとも今よりは企業の中に競争のある環境を醸成しないと、このままだと貧しくなる一方なのではと、保守とは少し違う観点から日本の現状に危機感を覚えるようになってきました。
だからといってただアメリカや外国をフォローしてればいいとは全く思っていませんが、今の仕組み(特に教育・会社)のまま過去と同じことをしても、人々が神経をすり減らして衰退していくだけのような気がしています。

非常に纏まりの無い話で恐縮なのですが、上記のように私は思想に確固たる意志があるわけではなく、常に考え方が移り変わり、先生方または他の読者様のように芯が一本とおっているわけではありません。
特にサラリーマンをしていると、経済合理性や現実的な着地点で考える癖が年々染みついている一方、シンポジウムで話されているように長期的な視点で見ると保守思想家の歴史の読みは当たることは歴史が証明している事実であり、シンポジウムにご出席されていた先生方のように大きく構えて物事をとらえたいという欲もあります。

いわば思想の迷子になっている私ですが、結局は自ら考えて答えを出すしかないことは重々承知しています。
しかしながら、声には出さないまでも、私のように思想の迷子のようになっている人は少なからずいるかも、という思いとシンポジウムの参加者の方々はどなたかからご指摘があったように年齢層が高く、あまり私のような考えをする普通のサラリーマンの考えを聞く機会もないかも、と考え勇気を出して投稿させて頂きました。

前置きが長くなってしまいましたが、私のような思想の迷子になっている人々に対して、先生方はどのように思われていますか?また何かアドバイスはありますでしょうか?
宜しくお願いいたします。

 

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