「中国」という語は「中華」と同じような意味で古くからあったが、もともと黄河流域あたりに限った漠然とした地域のことであった。「中国」が国の名前に用いられるようになったのは19世紀末である。日本人なら誰でも知っているように、昔は「漢」と呼ばれたり、「唐」や「明」だったり「清」と言われていたりしていたが、これは国名ではなく王朝名である。英語の「チャイナ」やラテン系の「シノ」、インドでの「震旦(シンスタン)」、仏典の「支那」などの呼称は最初の統一王朝「秦」が語源である。
私たちは西欧的世界観を通して地理や国家を見ているが、西欧以外の国々には、古来、それぞれの世界観・国家観があった。ヨーロッパ大陸がまだ未文明の地であったころ、地中海地域や小アジアには都市国家があった。同じころに中国にも都市国家があった。双方の都市国家は、その後違った歴史を展開する。春秋時代、中国大陸の広い大地には城壁に囲まれた小さな都市(邑)がポツポツと点在していた。異民族の襲撃を避けるための城壁の外では農耕が行われたが、その先は茫漠とした荒野が続いていた。戦国時代になると鉄器の普及で次第に農地が広がり、農産物の増加によって人口が増えた。邑の支配地域の面的な広がりは、やがて他の邑との摩擦を生む。鉄器文明は古代最大の技術革新であり、農耕と武力(経済と軍事)を格段に発達させた。地中海地方でも同じように鉄器文明が時代の激しい変化を招いている。
中国の史書に現れる初期王朝の「殷」は、長いこと伝説王朝と思われていたが、19世紀末、河南省で卜占のための甲骨文字が刻まれた亀甲や獣骨片が発見されたのを発端に、20世紀初めに壮大な規模の城郭都市の遺跡(殷墟)が発掘され、殷王朝が実在したことが確認された(前16~前11世紀頃)。この地域で大量に発掘された甲骨文字は5000字以上もあり、それ以前に見られる新石器時代の単純な記号とは別の、漢字の起源になるものと認められる。この地域が「文字」を持ったということが、他の地域を圧倒する文明を築いた大きな要因である。
文字は最初の情報革命である。同じころ、地中海のフェニキア(シリア地方)でもアルファベットの原型が現れている(ウガリット陶板)。情報の蓄積と発信力は高度な文化と支配力を形成する。春秋戦国時代には、各地に点在する邑の間の交流が活発になり、次第に殷の高い漢字文化が共有されるようになった。中国は広大で、同じ言語体系でも発音が異なり方言も極端である。日本のような狭い島国でさえ多くの方言があって意味が通じないことがあるのだから、大陸の広さでは寧ろ「外国語」であって、話し言葉が全く通じないのは当たり前である。しかし、文字が媒介すれば同じ言語体系での意思の疎通が可能になる。漢字の力によって、文化もまた邑の間に共有されるようになった。この文化的習慣の似た邑が点在する黄河流域の地域を中原という。
邑はもともと氏族集団である。周の弱体化によって政治秩序が崩れ、春秋戦国時代を通して次第に君主と実力のある家臣たちの上下関係が重視されるようになる。血縁関係による秩序から、君主を頂点として知識階級の上下を遵守する「礼」による秩序に移行していったのが戦国時代である。中華の教養をもつことは漢字という文字を理解する教養である。漢字による知識や教養を自覚する者たちは、自分たちが持っている高い文化を理解できない周辺の民族を「夷」として差別するようになった。のちに、僻地の小国である日本の遣唐使が、一応、使節として迎えられたのは、彼らが漢字による文化を共有する教養ある者、即ち「礼」をわきまえた知識人と見做されたためである。大切なのは血縁や民族ではなく、中国の文化を共有し礼節を守っているか否かであった。
春秋時代に黄河流域とその周辺にあって衣食住の習慣が似ていた国々が中華に同化し、自分たちの文化が優れたものだという自覚を持つようになると、函谷関の西(秦)や揚子江以南(呉・越・楚)の習慣が異なる地域を野蛮な「夷」と呼んで差別した。戦国時代には、次第に「夷」と呼ばれていた地域も黄河流域の地域の文化に同化するようになったが、西の強国の秦はいつまでも異質な「夷」と見做されて、戦国時代の合従連衡の「合従」策は秦以外の南北に連なる6つの国が、西の秦(夷)に対抗しようという策である。前221年、徹底した法治改革により全体主義国家になっていた秦は中国を統一し、秦王は自らを「皇帝」と称し、王よりも上位に君臨した。
人間でも同じだが、自分ひとりしか存在しなければ名前など不要である。他者を認識したとき、自分と区別するために名称がつけられる。統一王朝が出来たのち、偉大な文明を誇る王朝は世界の中心にあって、皇帝が世界の頂点であると考え、四方に広がる大地はそのうち自分たちに同化していく野蛮な夷の地域でしかなくなった。王朝が変わることは、礼の秩序の頂点が入れ替わることであって、秩序そのものには変化がなかった。企業のトップが変わって少々営業方針が変更されても、企業そのものは存続していくようなものである。
西方のステップ地帯や砂漠地帯の遊牧民族は風土の違いから中華に同化しようとしない夷であり続け、どの時代にも手を焼いたが、西洋が極東に進出して来るまでは、東アジアに中華に張り合えるような高い文化を持つ勢力はなく、周囲の取るに足らぬ国々は中華の王朝に朝貢して礼を尽くし、いずれは中華に同化するものと見なされていた。
南アジアから東南アジアにかけてのリムランドの比較的平和的で安定した地域に力で介入した西洋が、同じように、武力を背景にして東アジアに現れるまでは、中華王朝は唯一の権威という世界観を保っていた。宮廷は西洋に対しても初めのうちは朝貢の礼を強いたが、異なる文明の発想の違う文化を持つ西洋には通用しなかった。アヘン戦争の敗戦と屈服は、清王朝だけでなく歴代王朝を通して初めて味わう屈辱であり、彼らの王朝は世界で唯一の権威ではなくなってしまった。まして、古代から格下の存在であった日本にまで進出されたときには、はらわたが煮えくり返るほどの怒りと悔しさだっただろう。その恨みが消えることはないと、日本は覚悟しておいたほうがいい。
唯一の存在ではないと認めざるを得なくなったとき、西洋システムの近代国際世界で通用する「国名」がないことに気づいた人々がいる。近代の国家は国民のものである。しかし、「清」は王朝名であり、王朝は皇帝のものである。漢王朝は劉氏のものであり、唐は李氏のものであり、清に至っては満州の女真族の王朝である。清末の改革思想家であった梁啓超は、古代から現在までを俯瞰する自国の通史をなんと言うべきか困った。通史は「清の歴史」でもなく「漢の歴史」でもない。そこで彼は、古代の中原にあった「中国」という呼び方を提案し、自国の歴史を「中国史」と言うようになった。梁啓超は「中国」が「自惚れた表現」であることを知っていたが、異民族王朝の「清」がそのまま国際名称として固定してしまったり、外国に勝手に国名を決められたりするよりは、国民が結束するためにも「中国」のほうがいいと言っている。
紀元前の時代に氏族政治を排して君主直属の官僚機構を作ったということは、統治能力や政治制度において、中国が西洋よりも遥かに先進的な国家であったということである。ギリシャ・ローマ時代のヨーロッパ大陸が、地中海に比べて原始的な生活を営むモタモタした田舎者であったころに、中国は、いまに通用する全体主義的官僚制度を作り上げていた。しかし、近代になって西洋が見た中国は遅れた社会としか評価されなかった。それは、西洋が近代産業によって築かれた物質文明の尺度に支配されていたためである。
官僚主義は学問に基盤があり、官吏登用のための科挙は、まさに能力主義・メリトクラシーである。但し、現代の能力主義と異なって、それは官吏一人が個人的な利益を享受するのではなく、一門の繫栄に繋がるものだった。この制度は歴代王朝を通じて採用され、共産党政権でも基本的には続いている。歴代王朝で、科挙を通過しなければ士大夫以上の官吏になれず、官吏と人民の差は大きい。一般の人民は人間扱いされず、人格や権利などは全く配慮されない。支配層と人民の間には絶対的な断絶があった。
人民にとって、政府は自分たちを守ってくれるものではない。人民は支配層のための労働力であり賦役の対象でしかなかったから、人民のほうでも誰も政府を信用しない。彼らは彼らで血縁と財に頼るようになる。いまでも一般の中国人が金儲けに敏く、身内のネットワークを作るのは、当てにならない政府に対する自衛本能を受け継いでいるのだろう。農民たちは、搾取があまりにも酷いときには反乱を起こし、その結果、王朝が崩壊することがあっても、西洋のように自分たちで国家を運営しようという気概には欠けていて、次の王朝の下でもまた同じことが繰り返されてきた。王朝が国の主体であって、そこに暮らす人々は国家には関係なかった。
国民としての覚醒は、19世紀になって西洋に国土が侵食されるようになってからである。特に東方の小国と侮っていた日本が西洋文明を取り入れて実力をつけていった背景を観察した李鴻章や梁啓超などの知識人は、中国の社会制度そのものの変革を試みるようになるが、科挙に代わる教育制度の構築や、農民を「国民」に変えることはなかなか困難なことだったようだ。日清戦争の敗北後、辛亥革命(1911)で清王朝が崩壊し中華民国が成立するが、それから1世紀を過ぎた現在、「中国共産党王朝」ともいえる全体主義的官僚国家が支配しているのは、古代からの続きのような印象を受ける。民主化をしなくても産業国家として豊かになれることを中国は証明し、このままの路線を変更することはないだろう。
日本海に隔てられた地理的条件によるものだろうが、中華に同化しない日本は、中国にとって大昔から目障りで好ましくない存在だったと思う。日本人のほうでは漢文化に憧れていたが、漢籍の中の中国を日本風に解釈して勝手に(例えば陶淵明的な)幻想を抱いていただけと言える。16世紀の世界的な経済活動の活発化で民間の交易が盛んになると、明は沿岸の海賊を「倭寇」と呼んだ。実際には中国人の海賊行為だったが、「倭」という日本を表す呼称が使われたのは、既に日本に対する反感があったのだろう。「反日感情」は、非常に古くからあるのではないだろうか。
日本と中国は、民間の経済活動はあっても、歴史的に政治的な関りはあまりなかったようだ。交易をおこなっていたのは長江以南の沿岸部の商人たちで、黄河流域の政権にはあまり関係のない人々である。知識層は書籍や商品の情報で互いを知るだけで、政府間交渉のようなことは殆どない。第一、中華主義の中国にとって周囲の国々は属国なのだから、他国と交渉する必要など感じていないし、日本も鎖国で自国にこもってしまう。近代になって西洋が関係したことで、双方ともそれぞれが否応なく世界との対峙を迫られ、その過程で日本と中国は政治的な関係を持つようになった。両国とも西洋システムに組み入れられたのである。
中国政府は、高市首相の国会答弁に反発して、国際連合に反日感情を持ち込んで、嘗ての韓国の「告げ口外交」の徹底版をやり始めた。自らを「国連で戦後秩序を構築したメンバー」と称しているが、『日記59・国際連合80年』に書いたように、国際連合の基本を作ったのは米英で、中国は彼らの案を事後承認しただけである。まして、当時の中国は「中華民国」である。中国共産党政府は、国民党政府を台湾に追いやった1949年の成立で、国連創設の4年後である。国際連合が創設されたときに、中華人民共和国は存在しなかった。
日本を攻撃するためなのか、人民結束のためなのか、戦後80年を記念して北京政府は「抗日戦争80年・国連創設80年・台湾光復80年」を掲げたが、終戦の年に存在していなかった中華人民共和国は、そのどれにも関係していない。これらは共産党軍と戦っていた国民党政権・中華民国の歴史であって、アピールしたことでかえって共産党政権の歴史ナラティブの矛盾がさらけ出されてしまった。
高市政権への攻撃は、国民の目を外部に向かわせる狙いがあったのかもしれない。中国史上、王朝が崩壊するときは、たいてい農民の反乱があった。もともと政治がうまくいかないために困窮した農民が反乱を起こすことになるのだが、政治や経済の減速で既に弱体化している王朝は反乱の鎮圧に疲弊して力尽きる。中国にとって怖いのは「民衆の不満」である。現在の北京政府も、国内の景気低迷や若者の就職難や急激な高齢化の始まりなどで、国民の目を外部に向けたいところである。香港の高層住宅火災も、当局への責任追及が北京政府への非難に飛び火するのを抑えたい。習近平は、トランプ大統領はビジネスにしか興味がなく台湾問題には関心がないと見て高市政権に喧嘩を売っているのかもしれないが、ここに来て大統領が「台湾保証実施法案」に署名したことで、成り行きが微妙になって来た。
中国共産党が「中華主義」なのは、チベットやウイグルやモンゴルという異文化の地を強制的に漢化させようという政策にも表れている。「漢字文化」を押し付けるのは、古代から中国がやってきたことである。中華主義は「夷」を排除するのではなく、包摂して同化させるものである。西洋的リベラリズムと正反対に、個人に権利を与えず、官僚主義の全体主義国家であることも、古代中華王朝と大して変わらない。中華文明では、中華こそが頂点であるから、序列に敏感で何かと面子に拘ることになるが、これは、その辺のおじさんが「面子を潰された」と言って騒ぐのとはわけが違う。中国が「無礼」な扱いと感じることは、中華文明の基本である礼の序列を乱されたことで、序列を壊す者には、徹底して攻撃する姿勢なのだ。大陸中国は国家というよりも「中華文明圏」を維持する機関で、それが最大の使命なのかもしれない。
一方で、台湾に逃れた中華民国は、大陸では成立させることが困難だった「民主国家」を実現した。台湾が、本当に華夷思想を脱皮したのだとしたら、民主国家としての歴史は浅くても、国民主体の「国民国家」といえる。それが可能だったのは台湾の国土のサイズが関係しているだろう。広域多民族国家では、民主政治は難しい。
台湾が国民国家で中国大陸は文明圏だとしたら、もはや両岸は「一つの中国」とは言えない。それでも、大陸中国は諦めないだろう。中国は沖縄にも脅しをかけて、琉球処分やそれ以前の歴史にまで言及し始めた。「歴史」はナラティブである。客観的史実などというものはなく、歴史で語られる「物語」にはそれを編纂する者の意図やイデオロギーが籠められている。物語は何度も語られるうちに「真実」になる。日本は気をつけなければならない。
いまは、歴史解釈や国民感情に惑わされずに、現実を見据えて「自立」を考えることである。中国への忖度とアメリカ依存から脱皮しなくては、日本は自立できない。高市政権を取り巻く世界情勢は厳しい。
橋本由美
<編集部からのお知らせ1>
10/16発売の最新号『表現者クライテリオン2025年11月号 この国は「移民」に耐えられるのか?ー脱・移民の思想』。

Screenshot
<編集部からのお知らせ2>
クライテリオン叢書第5弾、『敗戦とトラウマ 次こそ「正しく」戦えるか』、書店・Amazon等で公表発売中!
|
|
敗戦とトラウマ |
執筆者 :
CATEGORY :
NEW

2025.12.05
NEW

2025.12.04

2025.11.28

2025.11.27

2025.11.20

2025.11.19

2025.11.28

2025.12.04

2024.08.11

2025.11.27

2025.07.25

2025.11.19

2018.03.02

2018.04.06

2025.04.21

2019.10.07