先週は、ダグラス・マレーの『西洋の自死』に因んで、ミシェル・ウェルベックの『服従』という小説を紹介しておきました。そこで描かれていたのは、まさに〈啓蒙主義=リベラリズム〉の無際限な拡がりが、一体どのような「ニヒリズム」をもたらしてしまうのか、そして、人々にどのような「服従」への欲望を植え付けてしまうのかといったことでした。
では、なぜ「リベラリズム」は、「ニヒリズム」を呼び出してしまうのか。
その答えは簡単です。
価値を実現するための手段でしかない「自由」(リバティ)を価値にしてしまえば、「真の価値」は蒸発してしまうからです。
なるほど、私自身、「自由の条件」を擁護する気概においては人後に落ちません。が、それはやはり、その自由によって守りたい価値がある限りにおいてです。
たとえば、「リベラル」という言葉が、政治的意味を持ち始めたのは、およそ17世紀以降のことですが、――それまでは、奴隷に対して「自由民」の階級を示す言葉で、そこから転じて、寛容である、気前がいい、特権などの意味を持つ言葉だったと言われます――それは、やはり、宗教戦争以降に成った近代政治学の概念だと言っていいでしょう。つまり、教会や国家による宗教的「強制」に対して、「個人の信仰」を守るために編み出された政治的概念、それが〈リベラリズム=信仰の自由〉の政治的意味だったということです。
思想史家であるアイザイァ・バーリンの言葉を借りれば、だから「リベラリズム」とは、「主体―一個人あるいは個人の集団―が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであること放任されている」(「二つの自由概念」1958年)状態を目ざす政治概念、つまり、「~からの自由」という消極的自由を擁護する考え方として登場していたということです。
しかし、それなら、この概念を加速していった先に、一つの「虚無」が待ち受けていることは必然でしょう。初め、「強制」からの自由を唱えていた「リベラリズム」(17世紀)は、次に「伝統」からの自由を唱えはじめ(18世紀)、ついに「信仰」からの自由を唱えるようになっていくのです(19世紀)。しかし、「信仰を守るための自由」が「信仰からの自由」に反転してしまえば、その「自由」を使って守るべき「価値(信仰)それ自体」を見失ってしまった私たちが、「ニヒリズム」に陥っていくのは当然でしょう。
その証拠に、「~からの自由」(消極的自由)が、その「空虚」に突き当たり、翻って、その「空虚」を埋め合わすように「~への自由」(積極的自由)が語られ始めるのが、丁度、「神の死」を唱えたニーチェが亡くなった20世紀以降のことだったのです。つまり、理想社会(ユートピア)に対する設計主義的で進歩主義的な態度が次第に全面化してくるのが、この「神の死」(ニーチェ)の後に20世紀ヨーロッパだったということです――それが、後の共産主義、ファシズムなどの全体主義的世界観へと用意していったのです――。
しかし、そんな〈ユートピア思想=進歩主義〉も、所詮は、失くしてしまった「信仰」を埋め合わせるために設えられた「世界観」でしかなかったがゆえに、逆に、人々の「ニヒリズム」を見切った上で吐かれた〈大嘘=世界観〉に、20世紀の「リベラリズム」は、ほとんど抵抗することができなかったのでした。
かつて、小林秀雄は「ヒットラアと悪魔」(1960年)というエッセイのなかで、この「大衆」のニヒリズムを見切った上で吐かれたヒトラーの「大嘘」に対して、いかにリベラリストが脆弱だったかを指摘して、次のように書いていました。
「人生の根本は闘争にある〔ゆえに、嘘をつこうが、騙そうが、何が何でも勝てばいい〕。これは議論ではない。事実である。〔ヒットラアが言うのは〕それだけだ。簡単だからと言って軽視出来ない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等〔リベラリスト〕に、ヒットラアに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実在するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。」〔 〕内引用者補足
その意味では、まさに20世紀の「全体主義」とは、19世紀以降に西洋の〈啓蒙主義=リベラリズム〉が育ててきた「ニヒリズム」に付け込んで、その姿を現した「悪魔」だったと言えるかもしれません。「骨の髄まで仮面」であることによって「大衆のうちにある永遠の欲望や野心、怨念、不平、羨望に火を附ける」悪魔、ニヒリズムを餌として「死んでも嘘ばかりついてやると固く決意した」悪魔、そんな悪魔が表に現れたのが、リベラル・デモクラシーを標榜する「ワイマール憲法」下だったことは偶然ではありません。
いや、だからこそ、私たちは「自由」に騙されてはならないのです。それは、あくまで手段であって目的ではない。条件であって価値ではない。それは、今、目の前の「リベラリズム」――人権・寛容・多様性の無限拡大――が、どのような「ニヒリズム」をもたらし、その隙間を縫って、どのような「世界観」が蔓延っているのかを見れば一目瞭然です。
「~からの自由」(消極的自由)を擁護したと言われるアイザイア・バーリンでさえ、次にのよう書いていたことを、私たちは忘れてはなりません。
「しかし消極的自由だけでは不充分です。他にも価値があって、それを追求しなければ人生は生きる値打ちがなくなるかもしれないのです。私は決してそれを否定しません。安全、幸福、正義、知識、秩序、社会的連帯、平和等々の要求――基本的な必要――のためには、自由を抑制しなければなりません。いくつかの形態の自由は、他の人の究極目的に余地を残しておくために抑制しなければならない。それは、いつもまともな社会が必要としている差し引き勘定の問題なのです。」『ある思想史家の回想』I・バーリン/R・ジャハンベグロー、河合秀和訳
人が生きるには、「消極的自由だけでは不充分」なのです。だからこそ、「自由」に目を奪われる前に、一人一人が、「何のための自由」なのか、と自問自答しなければならないのです。「価値」は、その自問自答の先にあしかありません。
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