映画『パラサイト 半地下の家族』がアカデミー作品賞を受賞して話題になっています。公開から一ヶ月以上が経っているので新鮮味はないかもしれませんが、なかなかに考えさせられる映画だったので、今回はこの作品の感想を記すことにしたいと思います。(なお、以下はネタバレを含みますので、これから映画館で見る予定の方はご注意下さい。)
格差社会をテーマにしているという触れ込みに惹かれて、私も先月末に見ました。この映画でもっとも印象に残ったのは、物語の中盤、半地下の家が水没するシーンです。大雨の水が階段を滝のように流れ落ちて、汚水と混じったどす黒い水流となって半地下の家々を飲み込んでいく。
このシーンは、新自由主義のトリックルダウン理論に対する見事な風刺になっていると思いました。トリックルダウンは「滴り落ちる」という意味で、レーガン政権の富裕層減税策を正当化する理論として使われました。減税で富裕層の消費が増えれば、シャンパンタワーのようにおカネが中層、下層へと滴り落ちて、経済全体が潤うはずだ…。なるほど、確かにトリックルダウンは起きています。だだし上から下に降りてきたのは美味なるシャンパンではなく、中下層の生活を台無しにする真っ黒な汚水だったのです!
もっとも、この映画を単なる格差社会批判と考えたのでは、本質を見誤るおそれがあります。ここには三つの家族(金持ち一家、主人公一家、そして家政婦の夫婦)が出てきますが、それぞれがまったく違う世界を生きています。金持ち一家は典型的なエニウェア族で、オシャレなデザインの大豪邸に暮らしながら、子供の教育に惜しみないカネを注いでいる。主人公家族は親がサムウェア族、子供は学力・能力はあるのにエニウェア族に上がりきれず(「半」地下はその寓意的な表現でしょう)、家政婦夫婦は日々を生きのびることに必死なサムウェア族、という対比になっています。本来出会わないはずの三つの階層が出会ってしまうと何が起きるのか。それが、この映画の真のテーマであるように思われます。
面白いのは、最下層のサムウェア族夫婦が、最上層のエニウェア家族にまったく反感を持っていないどころか、むしろ尊敬さえしているというところ。むしろ彼らが憎むのは、自分たちを押しのけてうまく金持ち家族に取り入った主人公一家の方で、それが最後のシーンの「悲劇」につながっていく。米国のサムウェア族が、トランプのような分かりやすい大富豪を歓迎する反面、その中間に位置する高学歴層を異様に嫌うという構図と似たものがあります。
一方、半地下家族は、最下層の夫婦に対して最上層の一家に対しても、愛憎半ばする複雑な関係にあります。最下層の夫婦には同情を感じている(大雨の日に家政婦を迎い入れたのはそのためでしょう)のですが、自分たちが生き延びるために犠牲になるのはやむを得ないと考えている。世の中は弱肉強食で、結局は騙すか騙されるかだと、ある意味では典型的なネオリベ的価値観を持っている―――その価値観をもっとも体現しているのは主人公の妹です。一方、金持ち一家に対しては、騙されやすい「善人ぶり」を嘲笑しつつも、その理想(エニウェア族の理想)的な家族のあり方にうらやましさを抑えきれずにいる。金持ち一家が不在の時を見計らって、大豪邸のリビングで「金持ち家族ごっこ」を楽しんでいるのは、その象徴的な表現になっています。
面白いのは金持ち一家で、彼らには半地下家族や最下層の夫婦の生活がまったく見えていません。この一家の「鈍感さ」の描写は、映画全体を通じて徹底しています。金持ち夫は、家政婦が必死に食料を夫に運んでいることに気づかず、「あの女は大食いだ」と笑いとばしている。金持ち妻は自分の子供のこと以外に何の関心もなく、金持ち息子は貧乏人の匂いを嗅ぎつけるほどの鋭さを持っているのに、最下層(家政婦)の夫が真っ暗な地下室から毎日送っているSOSの信号を無視し続けています。
本来であればまったく出会うはずのない三つの家族・夫婦が、半ば偶然に不幸な出会い方をしてしまうと何が起きるのか。同じ社会に属しながら、それぞれまったく別の生活空間をそれぞれの誠実さを持って生きている家族が、見えない仕切りを飛び越えて出会ってしまうとどんな結末が待っているのか。それをブラックユーモアたっぷりに描いたこの映画の監督(ポン・ジュノ)は、なかなか「人が悪い」作家です。
実際、この映画は最初から最後まで、観客に居心地の悪さを感じさせるように出来ています。たとえば、主人公が金持ち一家の娘と恋に落ちるシーン。この場面を見た観客の誰もが、二人の恋がうまくいくとは思わなかったはずです。身分違いの恋、それもウソをついて金持ち一家に取り入った主人公の恋がうまくいくはずがない、きっと手痛いしっぺ返しが待っているはずだと観客に予感させ、実際にその通りになっていく物語の展開は、見る者に「やっぱりそうなるだろうな」という妙な安心感と、「主人公が可哀想だ」というなんとも言えない違和感の、双方を味合わせます。
あるいは、大雨の日に主人公一家が「金持ちごっこ」で盛り上がるシーンは、企みが思い通りに進んで喜ぶ一家の愉快な気分が伝わってくる反面、「こんなにうまくいくはずがない、この先なにか悪いことが起こるぞ」という不吉な結末を予感させる(大雨の中の落雷が、この不吉さを象徴している)という点で、やはり見る者をハラハラした気分にさせます。
一つのシーンが一つの感情を呼び起こして終わるのではなく、常に複数の矛盾した感情を呼び起こしながら先に先にと物語が進んでいく。そういう複雑な構成を持った物語になっているという点で、確かにこの作品は傑作というべきなのでしょう。
同時に、こうも思います。この三つの家族は、そのまま自分たちの境遇を受け入れて暮らしていれば、何の悲劇も起きなかった。金持ちは金持ちの、半地下は半地下の、最下層は最下層の、それぞれの生活を普通に送っていれば、最後の悲劇は起きずに済んだわけです。
しかし、主人公の家族(特に息子と娘)は、この社会を分断する見えない仕切りを乗り越えてしまった。ウソをついて金持ち一家に入り込み、その華やかな生活の一端を味わったことで報いを受けてしまった。非人間的な格差社会は悲惨だが、それを乗り越えようとしたらもっと悲惨な結末が待ち受けていた―――そういう物語を、ユーモアを交えているとはいえ堂々と描いてしまうポン・ジュノ監督は、やはり相当に「人が悪い」、しかし複雑な物語性を体得した作家と言えます。
(この映画を見た後、ポン・ジュノ監督の作品をいくつか見ましたが、どれも独特の味わいを持つ物語でした。特に印象に残ったのは『母なる証明』ですが、この作品でも後味の悪さは際立っています。もちろん、ここでいう「人の悪さ」は褒め言葉です。)
この映画は、同じ格差社会の悲惨さを描きながら、最後には爽快感(ただし多分に問題のある爽快感ですが)を味合わせてくれる『ジョーカー』とは違い、見る者を複雑な気分にさせます。格差社会の現実は簡単には乗り越えることができないが、かといって今の悲惨な境遇を運命として受け入れることもできない。この映画で描かれる「半」地下の家族は、今の資本主義社会を不安を抱えて生きる中間層の、見事な寓意になっていると思います。
格差社会の現実に敗北した物語になっているという点で、リベラル派が諸手を挙げて歓迎するような映画ではありません。一方、家族の幸せを第一に考えて行動したことの結果、家族をもっと不幸せにしてまっているという意味では、保守派を喜ばせる物語にもなっていない…。同じメッセージを社会評論で描こうとすると複雑になりすぎますが、このように描かれると誰が見ても分かる、しかしなんともいえない余韻も残るという意味で、「今」という時代を象徴する作品になっています。
私のお気に入りは、汚水まみれで水没しつつある半地下の家で、主人公の妹がゆっくりタバコをくゆらせているシーンです。金持ちが金持ちの暮らしをどんなに謳歌しようが、そのおこぼれをもらうために誰もが必死の努力をしようが関係ない、いまこの危機的な瞬間に一服することこそが人生のすべてなのだと言わんばかりの彼女の「開き直った」表情のなかに、この悲惨な社会を生き延びるヒントがある。その一瞬を見ることができただけでも、この映画は見る価値があるというのが、私の感想です。
※ この映画は、金持ち家族に取り入るために「ウソ」をついた主人公一家の悲喜劇を描いたものですが、最新号の表現者クライテリオンも、現代政治にはびこる「ウソ」をテーマにしています。こちらも合わせてご一読頂ければ幸いです。
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コメント
>水没しつつある半地下の家で、主人公の妹がゆっくりタバコをくゆらせているシーン
韓国って日本みたいにウルトラ嫌煙ではないのでしょうか。今の日本映像作品ではウルトラ有り得ないシーンに思えてなりません。
無知無駄要らん脳神経が思い出したのはトムとジェリーの西部の伊達男(だったかな?)の話です。普通の角をデカい角にモデルチェンジしたウルトラ猛牛がトムに向かって突進してくるシーン(牛の正面と諦めたトムの画面が繰返し切り替わる)。トムはジタバタするのを諦め煙草に火を点けてゆっくり煙を吐くのです。そして最後はジェリーがトムを馬にして乗っかり西部を駆けて行くのです。伊達男は伊達鼠に替わったのでした。
そんな感じで今の新自由主義がブッ飛ばされて替えれないもんですかね(総理は肉を切らせて骨を断つ方向づけをするためにも、もっと酷い日本にして凹凹にされる事が出来れば別の意味で伊達男になれるかもしれません)。
失礼しました。
>牛の正面と諦めたトムの画面が繰返し切り替わる
間違えた。猪突猛進の牛の正面と諦めたトムが目隠ししただけだった。
映画AKIRA の金田とクラウンの場面とミックスdown勘違いしてた儂の頭ントン。