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【寄稿】余白に耳を傾けて

小町(19歳・家事見習い・関西支部)

 

いったい、世の中に、真に新しいものなどあるのでしょうか。

どれだけ切り離そうと頑張っても、決して途絶えることのない古今のつながり。

全てが古く、かつ、新しいものであるならば、私は、自分一人の小さな絵本を作ることよりも、幾千年、幾万年も前から描かれ続けてきた、そしてこれからもとめどなく続いていくであろう長い絵巻物の一部として今を生きたいと思います。

始まりも終わりも霞んでしまって、はっきり見定めることのできない絵巻物、その壮大な物語の一部に、私はなりたいと希います。

と、ここまで書き、私の筆はぴたりと止まってしまいました。伝統や文化について、思うことは姿かたちをとどめ得ぬほど大きくふくらんでいたはずなのに、その思いを言葉にしようと筆を取っても、一向、それらを姿かたちにすることができず、原稿用紙のます目が埋まることはないのでした。もっと考えを深めなければと、私はますます意固地になり、筆に力を込めました。なんとか書き上げることのできた文章は、自分の思いや考えが込められていない空虚な言葉、型通りの言い回しが羅列しているだけのものでした。

私は、強く震動しているものの近くで、ただ共鳴していただけで、私は何にも考えてはいなかった。そう気がついた時、麗しかったはずの絵巻物が忽然と乾き始め、色を失ってゆくのを感じました。

学び直さねば。思い立ち、私はようやく汗ばんだ筆を置きました。

以前、「女性が大学に行かない時代を生きた彼女たちは、決して生活から離れることはなかった。専門的な学問に閉じこもらない、自由な精神で、文学や芸術と向き合えていたんです」と言ってくださった先生がいます。ふと思い出したその言葉に、私は、言葉や文章、さらには人間、社会、時代、自然、あらゆるものを表現する「文学」が何かの気づきを与えてくれるのではないかと予感しました。

そして、小説家の古井由吉先生のことが頭に浮かびました。改めて、過去の番組のアーカイヴで先生のお話を聞き、文学を中心とした、伝統や歴史への眼差しに感動し、乾いた心に潤いが取り戻される思いがしました。先人たちの積み重ねの上に、ようやく立つことのできている自分の小ささを思い出させてくれるお話でした。思考や言葉の問題にぶつかり、何も書けず、文学に、文学者に助けを求めた時、図らずも古井先生は、私が書き表したいと思っていた「歴史」や「伝統」というところにまで導いてくださいました。

日本における「小説」とは、近代にできた言葉、概念であり、古井先生は「小説は近代を背負っている」といいます。

先生の「小説(近代のもの)を書こうとしながら、実は、近代以前の文学、小説以前の文学、例えば、古い随想や日記、あるいは詩歌や俳諧にまで遡ろうとしている」という話を聞き、私は自分が試みていることが、長い絵巻物、つまり、伝統というものを観察し、遡り、それを今において表現することだと、このときはっきり自覚することができました。

先人が、あるいは「過去」が象るものに感じる美しさや厳しさ、やさしさや強さ、そういうものを、私は現代において表現します。いくら努力を重ねても、過去のあらゆるものは「今」においてしか表現できません。

『源氏物語 現代語訳』や『女坂』を記した作家、円地文子さんは『源氏物語 現代語訳』の序文に、

「私どもの生きている世界が1970年代の日本であってみれば、現実を潜り抜けてくる光線も音響もその他すべてのメカニズムは王朝読者の読んだ『源氏物語』と異なるものであるのは当然すぎる事実である。古典とは、そういう各々の時代の烈しい変貌に耐えて、逆にその変貌の中から新しい血を吸い上げ、若返ってゆく不死鳥でなければならない。」

とと、記されています。序文の一部分を読み、私はいたく感動しました。円地さんは、ここで、源氏物語が途絶えることなく、長きにわたって人々に読み継がれてきたことの真髄を見事に言い表しておられます。そしてこれは、源氏物語に限らず、「伝統」として伝わるものの全てに言い得ることだと思います。「若返ってゆく不死鳥」だけが、いつの時代にも輝きを持って生き続けるのだと思います。

「伝統の発見」というと、大袈裟で曖昧なように思われるかもしれませんが、私はいつも伝統の一端に、今という時代の中で触れようとしています。そして、伝統に触れたときの感動を現代人の私が言葉にしてみたところで、「伝統」そのものは揺るがないという絶対的な信頼を、半ば無意識的に抱いています。しかし、伝統というものに絶対的な信頼を寄せていることを、私たちはすっかり忘れることがあります。これは、全くの無自覚のうちに、です。

古井先生は続けます。

「近代、創作という言葉が使われ始めるが、一個人の創作では、文学はやせ細るばかりだ。一個人といえども、父、母、祖父母、先祖、色々な人が含まれている。多声をしっかり表さなければ、近代小説は近代という時代において行き詰まる」

と。

生活について、仕事について、遊びについて、芸術について、特に現代においては、あらゆるところで行き詰まりが生じているように思われます。行き詰まってどうしようも無くなった時、さまざまな破壊が起こり始め、破壊が破壊を呼ぶばかりで人々は途方に暮れ、何にも関心がなくなってしまうのではないでしょうか。

私たちは、知らず知らずのうちに、過去というものはさておいて、何でも彼でも、「一人」で為しているような気持ちになることがあります。もっと言えば、誰の手も借りずに「一人」の力で成そうとしていることが素晴らしいことだ、という気持ちになることさえ珍しくありません。友だちでも家族でも、あの人はあの人、この人はこの人と、個々を完全に違うものとばかり考えてしまいます。

しかし、絵巻物を巻き戻し、つくづく眺めてみると、昔も今も変わらず、生活を営む人間の姿が描かれていることに気がつきます。そこに描かれた人間に、大した違いはないのです。小さな人間同士、それぞれの間にあるのは、取るに足らない少しの差ばかりだと、私は思います。ばかと天才は紙一重というように、ほんの少しの差は、たしかに、大なる差でもあります。しかし、その差によって優劣を決めたり、お互いを相入れないものだと考えたりするのは、本当に不仕合わせなことです。少しの差を全く無いように考えることも、少しの差を誇張して大きな差とすることも、どちらも賢明ならざるものなのです。

そして、古井先生のお話の中で、次の言葉ほど私を反省させ、また、安堵させてくれたものはありません。

「個人の独創性は、どこか一部分で生かすことができれば、それで充分だ。残りは先人の積み重ねである。」

何か自分にしかできないことを、自分にしか作れないものを作ろうと、背伸びをし、肩肘を張っている時には、必ずと言って良いほど、恣意的で、醜いものが出来上がります。私は文章の表現を通して、客観的に自分を見つめる機会がうまれ、その度、自分のあり方、生き方がいかに未熟であるかを嫌というほど突きつけられたのでした。誰にも頼らない、教えも乞わない、一人っきりで何かができると思うことは、小さくてトゲトゲした虚栄心から生まれる、思い上がりです。そんな思い上がりをしている時に書くものは、自分自身の感覚を麻痺させ、小さな個性すら失わせてしまう大毒にしかなり得ません。

絵巻物は先人から先人へと繋がり、描かれ続け、そして今、私たちのもとにあります。

「昔流のしちめんどくさい形式は、思い切って改革していかねば、何一つ進歩しないじゃないか」そうおっしゃる方もいるでしょう。けれど、そういう昔からの形式は、初めからそのように定められていたものでしょうか。目上の人に敬語を使うのは昔からの形式だから・・・。伝統とよばれるものが、そのような空虚な、形式だけの空っぽの器であるならば、確かに私も、「そんなものは手早く手放してしまってもかまわない」と思います。そこに、何かしらの敬意、敬愛、思いがなければ、定められた形式や規則の元も子もありません。

伝統というもの、文化というものに見出すべきは、むしろ「心」です。各人に共通の思い、心から発し、各々が共有できる良識として、形や規則にまで発展してきたということ。ただ、その形式や規則を守ることが目的になってはいけないのです。

形や規則だけを守ろうとする、ロボットみたいな人を素晴らしいとは思えません。それは、教えられれば子供にもできることです。そのような元も子もない規則で、何もかも雁字搦めにするのではなく、人々の胸に「思い」が蘇ることが、今という時代においての進歩だと私は思います。

思いや考えを伝えるときに、どうして、理由や証拠ばかり求められ、気にしなければならないのでしょう。

余白。余韻。間。

日本のあらゆる伝統文化、伝統芸能は、何もしない「余白」や「間」に心を込めます。形そのものに、何か意匠を凝らすというよりも、何もない間、時間、空間に思いが滲み、かたちを為すものです。が、現代は、その空間が「エビデンス」や「ソース」に埋め尽くされてしまって、あるいは狭められてしまって、窮屈になっていはしないでしょうか。事実、私たちは、のびのびした心で物が見られなくなり、言えなくなり、書けなくなっています。余白や間を味わうこと抜きに、目に見えてわかりやすいものにしか辿り着いていない私たち現代人には、わかりにくいものを時間をかけて観察し、表現することは耐え難い苦痛なのかもしれません。

古井先生は、

「言葉が、言葉の由緒や言葉同士の関係を無視して、記号化し始めている」

と話されました。言葉が単なる記号と化すとき、言葉を使う人の心も同様に廃れると言っても間違いではないと思います。思いを排し、空虚な形式だけが残り、それらが記号化する。

今、「心なんてあったかしら」と言う人が現れても、私はちっとも驚きません。もしかすると、もうすでに、そのような人は現れているのかもしれません。人工知能などは、全くその記号化の権化のように思われます。

矛盾まみれの私には、一つの明確な理由と、絶対的な結論を持つことはできません。

そのような、さまざまな矛盾や葛藤、せめぎ合い、余白、さらには沈黙。それらをそのままに表現できるものが文芸です。結論を示してくれるのでも、解決方法を教えてくれるのでもありません。ただ、その様子を描くだけなのです。そう分かってはいるものの、ありのままの姿を見つめ、それらを包むうつろなもの、朧げなものを描写することは、私にとってとても難しく、けれど、最も取り組みたいことでもあります。今の私に書けることは、書かねばならないことは、自らの矛盾や混沌からふと生まれ出る思いであり、歴史に触れた時に覚える感動なのかもしれません。

伝統的な色や香りが失われつつあることへの危機を唱えるばかりでなく、私は、その間や余白にある色香を自らの生活に蘇らせる喜びや楽しみを絵巻に描きたいと思います。そこに込められた、死者の、生者の、あらゆるものの思いに耳を傾け、絵巻物を描き続けたいと思います。