【寄稿】自衛戦争に備える

山田 秀次郎(86歳・財団法人予山会相談役・神奈川県)

 

1.ウクライナの衝撃-侵略戦争と自衛戦争

2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに軍事侵攻を開始した。ウクライナ軍はこれに軍事的に対抗し、両国の間で戦争が始まった。ロシア軍の戦いは明らかに侵略戦争であり、ウクライナの戦いは紛れもない自衛戦争である。ロシア軍はウクライナ領へ好き勝手に押し入るが、ウクライナ軍は押し返すだけでロシア領へは侵攻せず自国の国境を越えようとしない。欧米各国をはじめ国連加盟国は圧倒的多数がロシアの軍事侵攻を非難し、武器弾薬の供与をはじめウクライナを支援しているが、参戦しようとはしない。ウクライナが、唯一国で大国ロシアに立ち向かっている。

自衛戦争とは、こういうことになるのか。日々報道される「自衛戦争の現実」を目の当たりにして、戦慄を覚えざるを得ない。

➀大国が、交渉を拒否する強い意志の下に戦争による領土の一方的併合を試みているが、国連は全く無力である。

②非戦闘員(市民)に対する残虐行為(戦争犯罪)が発生し、無抵抗な市民が犠牲になる。

③戦場が自国内に限定される。そのため必然的に市民は戦場で生活することになる。住居や電気水道などの生活インフラも容赦のない攻撃対象となる。

④自衛戦争は終わり方が難しいために、すでに1年を経過しているがなお長期戦になるかもしれないと示唆されている。

一方のロシアは国連の安全保障理事会の常任理事国である。世界の安全保障に責任を持つ立場にある。一体、人類が平和を求めて営々と紡いできた知恵も努力も無駄だったのか。国連憲章では自衛権に基づく戦争だけを許され得る唯一の「正義の戦争」として許容し、他の戦争を否定している。過酷な戦争の歴史の上に、国々が希望を託して築き上げてきた国連という理念や仕組みは、無力になってしまったのか。ロシアの傍弱無人を誰も止められない。

ウクライナが戦う自衛戦争の終結についてはなお紆余曲折含みであり、この戦争から何かを読み取ろうとする試みは時期尚早なのかもしれない。しかし、そのことを前提としても、わが国はすでにいくつかの示唆を受け取っているように思える。筆者が大掴みに捕えているポイントは、以下の3点である。

➀出口の見えぬ自衛戦争を戦うウクライナの困難から見えてくるのは、自衛戦略の行き着く先が徹底した「抑止力」の構築に他ならないことを示唆しているのではないか。つまり、自衛戦争といえども、それは戦ってはならない戦争である。戦争を回避する方法は抑止力を高める事である。まず、強力な軍事力を整えなければならない。

②北欧諸国やバルト海沿岸諸国の動きなどから見ると、「集団安全保障」は自衛戦略上の圧倒的な必要条件ではないかと思わせる。つまり、わが国が憲法解釈上、個別的自衛権を持つとしながら集団的自衛権は認められない、としていることは間違っていないか。ロシアもNATO加盟国には手を出さない。

③欧米の主要国はロシアの侵略を非難するとともに、ウクライナの自衛戦争を「正義の戦争」として武器弾薬などの支援を惜しんではいないが、参戦しようとはしない。なぜか。核に関わる技術の進展が、核を「使われかねない兵器」に変え、「核による抑止」が変質してしまったからであろう。わが日本も、この文脈で「」を考えてみる必要はないのか。

今回のウクライナを受けてのドイツの鮮やかな変身ぶりに驚かされた。ドイツは軍事について何かと慎重かつ控えめで、日本とよく似た経緯をたどっているように思っていたからである。ドイツの素早い対応力(変わり身の早さ)と日本の対応を見ながら直感的に、軍事感性の差ではないかと思う。

2022年の9月12日、ドイツ国防相クリスティーネ・ランブレヒトがベルリンで新たに策定される国家安全保障戦略の基本的な考え方について講演し、「自由と平和の未来を欲するのであれば、方向転換しなければならない。軍事的な安全保障をこの国の中心的な課題として捉え、そして行動しなければならない。我々は軍隊を、海外での危機対応、あるいはコロナ、水害、森林火災支援の当事者とだけ考えることに慣れ切っていた。その時代は過ぎ去った。我々は再び、軍隊を我々の生存のための備えの中心的機関としてみなければならない。・・・ウクライナ戦争は、すべての人、平和慣れしたドイツ人にも、国家は最後の機関として軍隊を必要としていることを示した。・・・ウクライナは軍事的に防衛できているからこそ存在している。我々はそこから教訓を得なければならない。」と説いたという。(注)

(注)「ウクライナショック 覚醒したヨーロッパの行方」三好範英 草思社2022.12.29

2.憲法を読み直す(理解の試み)

そこで、まずウクライナにおける自衛戦争の現実を念頭に置いて、一切の先入観あるいは経緯を排して率直に憲法9条の理解を試みた。

先ず、憲法の条文。

日本国憲法 第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

3.自衛権と自衛軍

9条の条文に入る前に、そもそも主権国家が等しく持っていると言われる「自衛権」というものについて、確認しておきたい。

自衛権は主権国家が自然権として保有するものであると言われている。個人が人権として緊急避難、正当防衛の権利を持つのと同じ考え方で、普遍的に認識されているという。また、国連憲章は第51条で加盟国の固有の権利として自衛権を認めている。わが国の憲法には「自衛権を放棄する」との記載はない。したがってわが国は自衛権を有しており、自衛権の執行は、通常、軍によってなされることが普遍的に理解されている。そうであるならば、わが国が自衛のために軍を保有し運用することに、憲法上の問題はないのではないか。

なお、議論としては先取りになるが、これとは別に九条二項の「前項の目的を達するため」という字句をもって自衛軍が留保されていると考える意見もある(芦田修正)。いずれでもよいと思う。わが国は自衛権を有し、自衛権は軍によって執行されることが普遍的に容認されている。9条を理解する上での論理的な矛盾もない。因みに、護憲派改憲派を問わず憲法学者(注)は日本は自衛権を持っているとしている。内閣法制局も同様である。

(注)例えば、「憲法改正の真実」樋口陽一/小林節 集英社新書(2016.03.22)

自衛権は必然的に軍事力を伴う。軍事力を伴わない自衛権は論理的には想定できるが、一定の規模を持つ主権国家にとって現代の国際環境下では安全保障の軍事的論理として成り立たない無責任な解釈であるから否定される。したがって、自衛権の保有は必然的に軍事力の運用が前提にある。(自衛権を持ちながら、軍を持たない国が数か国ある。いずれも小国で他の手段によって国防が図られている。)軍事力を運用するための組織としては、「軍」を編成するのが国際標準である。軍事力の保有と運用は組織としての軍の下で行われ、国として特別な管理が担保される必要がある。軍に特別の厳密な定義があるわけではないが、武装組織の管理運用概念として「軍」には普遍性がある。それ以外の特別組織による場合は、本来、管理運用理念を公にして、国際法上誤解を回避しておく必要があるのかもしれない(例えば、ロシアのワグネルは警察ではないが国軍でもない)。自衛隊はこの面で国際法上の瑕疵を問われないか危惧がある。悪意をもって装備の質などを追及されたとき、自衛隊を自衛隊法などを盾にして軍では無いと言い切るのか。因みに前記(注)の両著者は「自衛軍」を容認している。また、自衛権に基づく軍の保有、管理運用は国連憲章に適合する。

自衛権に限定した軍の装備・運用は、国連憲章が唯一認めている軍事力の運用理念で、自衛戦争は国連憲章が認める唯一の正義の戦争である。(国連憲章では、自衛戦争の期間について「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な処置をとるまでの間」と限定しているが、ウクライナでは国連によるこの処置が未だ取られていない。)

(2)侵略戦争とパワー・ポリティックスの放棄

さて9条である。9条第1項は、国連憲章を念頭に置いて国権の発動たる戦争、つまり侵略戦争(aggression)と、武力による威嚇または武力行使を国際紛争を解決するために使う権利、つまりパワー・ポリティックス(Power Politics)を放棄していると理解される。この条文の主旨は、最近の言葉では「法の支配による」、「力による現状変更の試みをしてはならない」ということになろう。憲法制定当時は斬新で不安要因を抱えているように思えたかもしれないが、現在ではほぼ普遍的に(少なくとも民主主義陣営では)正しい(あるべき姿)と認識されている軍事運用理念である。

荒っぽく言えば、20世紀の戦争はパワー・ポリティックスであったと言える。国家と国家との間では如何に手を尽くしても外交、つまり話し合いだけでは解決できない問題があり得る。そういう場合は武力あるいは戦争による解決が適切なのだ(そして、戦争こそが平和をもたらす)、という考え方である。こういう文章にしてしまうとパワー・ポリティックスを肯定する人は居ないだろうと思われるが、帝国主義と言われる時代はそれが常識だった。その視点は戦争を倫理的道徳的な面から見るのではなく、冷静に国際関係を律する現象としての機能を評価しようというものである。現代でもその効用を説く人は居る。(注)国家の安全保障を視野に入れるとき、世界は依然としてアナーキーである(無政府状態の面を持つ)ことを忘れてはならない。国連はそうした経験と懸念の上に発足した。憲法は国連憲章の理念を信じ、賛同して共に歩むことを決意し、9条を設定したということになる。

(注)例えば「戦争にチャンスを与えよ」エドワード・ルトワック

奥山真司訳 文春新書 2017.4.20.

(3)9条2項の理解

9条が侵略戦争も所謂パワー・ポリティックスも否定していることは疑いの余地がないと思われる。そして2項はその証として、交戦権を放棄した。自衛戦争は受け身の戦争であり自衛権に基づくから、交戦権とは関わらない。パワー・ポリティックスは本質的に外征軍の性格を持つ。したがって軍の編成や規模は勿論、訓練、演習の実態、装備、武器等の性能機能などから見れば、意図を判断することは可能であろう。わが国は自衛権を基準として、それを逸脱する編成、演習、武装などを放棄していることになる。勿論、自衛権に基づく装備などの基準は技術の進展や国際状況などによって変わるであろう。それは国家の責任で自らが判断することである。自衛戦略は憲法の下で、日本が策定する事である。

(4)集団的自衛権

先ごろ国会では集団的自衛権をめぐる複雑怪奇なやり取りがあり、グレーゾーンだのなんだのと何時誰が何を基準に何を決めるのかといったことが理解できず、途中であきらめてしまった記憶がある。

➀自衛権は有するが、それは個別的自衛権のことで集団的自衛権は行使できないとする解釈が合理的に説明できるのかどうか疑問がある。現在の軍事環境を前提にすれば「生存権はあるが生存は許されない(幸運を祈る)」とするに等しい。

②憲法上には、個別的自衛権と集団的自衛権との区分が規定されていない。

憲法解釈上で両自衛権を分離して個別に解釈する必要はない。いずれも自衛権の範囲で本来流動性を持つ概念であり、憲法で規定され得る性格のものではない。過剰解釈ではないかと思われる。軍事同盟は今や自衛のための側面が強く、情勢の変化に応じて時々の政権の判断に任せられる性格のものである。ちなみに、NATOは1949年に発足している。それから今日まで70年以上の間、いずれの加盟国もその領土を侵されたことがない。NATOの行動規約は「加盟国の一国が武力攻撃を受けた場合、それは全加盟国への攻撃とみなされ、全加盟国が反撃する」というものである。軍事同盟として信頼度が高く、今や31か国が加盟している。

余談ながら、ウクライナがNATOの加盟国であれば、ロシアは手が出せなかっただろうというのが専門家たちの評価である。

(5)憲法の理解・解釈

軍事に関わる態勢は国際関係の変化を敏感に反映する。また、新しい武器の登場や性能の進展などによっても影響を受ける。軍事用語にもまた微妙な含意の変遷がある。憲法、殊に9条の理解については、字句にこだわるのではなくその条文に込められた本質的な理念に基づいて、その現代的な理解を議論し必要に応じて解釈を更新するのが正しいあり方ではないかと思っている。

憲法9条の解釈については様々な経緯があり、字句の解釈などにも様々な意見があることは承知していた。いちいちは記憶にないので、今回気になる点をいくつか復習してみた。ご参考に一例を掲げる。自衛隊が「必要最小限の戦力」という表現は言い訳がましく気になるので、ネットで淵源を探ってみた。

政府は、わが国は戦争も戦力も一切を放棄しているとの立場に立ち、そのうえで、「しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第13条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合に、これを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。」(平成15年7月8日 自衛権についての解釈に関する伊藤英成議員提出の質問主意書に対する政府答弁書から一部分を引用)というものである。これが、自衛隊の武装に関する本質的な政府の観念であり、自衛隊の存在意義である。一方、自衛隊法に言う存在意義は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」(自衛隊法第3条)と定めている。いずれも、自衛権の行使ではない。政府が論理の破綻や矛盾をはらみながら過去の解釈(政府答弁などを含む)の維持にこだわることが理解できない。

突然のように生じたウクライナの戦争は、空想の世界でしかなかった自衛戦争の実態をあばいて見せるかのような衝撃であった。百聞は一見に如かず。我々日本国民も自衛戦争に備えなければならない。

私が理解した憲法の理念は次の如くであり、軍事事項(地政学的環境、武器装備の技術的進展、さらに運用手段手法の改革など)の流動性が大きいことから政府の解釈も以下のレベルに留めておくべきものと思う。

「わが国は国連憲章の趣旨に則り、国家の軍事行動を自衛権の行使に限定する旨を憲法で規定している。」

これまで政府は時々に憲法解釈を行ってきたが、それらは常に過去の経緯を踏まえたものであった。そうした手法の延長上で主権を守り国民の平和な暮らしを死守する有効な自衛戦争が可能になるとは思えない。過去の経緯、解釈にこだわらず、現実を踏まえて以下の如く上書きしてもらいたい。

「憲法の解釈を、次のように更新する。わが国は自衛権を有し、国を守るために自衛権に基づいて軍を創設する。自衛隊を自衛軍として再編する。」

4.自衛軍の創設

 

(1)国家による暴力の運用-警察か軍か

さて、憲法の解釈で自衛権を行使する組織は「軍でなければならない」と言ってきた。ここには筆者は強いこだわりを持っている。近代の国家は、国民から暴力を取り上げ占有している。そしてその暴力を通常「警察」と「軍」に分けて運用している。警察が国内秩序を分掌し、軍が主権と領域保全を分掌する。警察は基本的に国内において自国民が対象であり、武器は主として護身用に小火器を携行する。犯罪者の追跡拘束などは法に基づいてなされる。つまり法という正義の下で暴力を執行する。他方、軍は無法の世界で命を懸けて祖国と同胞を守る。戦争には正義が求められるが、戦闘そのものには正義も何もない。勝たねばならない。優れた武器を整え、訓練・演習によって鍛え続けなければならない。警察官は法に基づいて堅実に暴力を執行することが求められる。他方、軍人(兵士)は命令に基づく集団行動を原則とし、無法の戦場で敵を倒す(殺す)ことが求められる。自らは生き残ることが推奨されるが、命を惜しんではならない。戦闘忌避や逃亡は罪に問われる。警察行動は法が律する世界であり、軍行動は命令と服従が律する無法の世界である。国家の暴力に関する運用理念が本質的に異なる。

国家が独占している暴力の使い方は、結局、この二通り、つまり警察と軍に集約される。警察ではないが軍にあらずという「自衛隊」なるものの存在は、国家の組織概念の整理として無理があるように思われる。自衛隊が背負っている武装組織ではあるが「軍では無い」、あるいは国を守るための「必要最小限」の実力といった怪しげな言葉遊び風の表現は、そのことを象徴している。

(2)憲法解釈の更新によって自衛隊を廃し自衛軍(名称は別途決定)を創設

当事、なぜ自衛権に基づく軍までも放棄するような解釈をしてしまったのかとは思うが、詮索はあまり意味が無いようにも思う。降伏直後という特殊な情勢があり、また占領という特異な心理状態の下での出来事である。兎にも角にもこの80年近くを平和の裡に過ごせたことを喜びたい。そして、実はその間に世界の軍事情勢や新しい武器の開発など、わが国をめぐる軍事情勢も大きく変化してきたことを率直に受け入れる。ウクライナ軍の自衛戦争の実相をきっかけとして、その間の軍事情勢の変化を踏まえ、ドライな論理で軍事的常識を外さない淡々とした解釈によって更新(上書き)すればよい。それは政府の仕事である。

上書きされた憲法解釈では、9条とは切り離された自衛権に基づく自衛軍の保持を謳い、それによって国家の主権と平和を守ることが要求される。一方では、9条によって侵略戦争と武力による国際紛争の解決及びその試みが禁止される。つまり、自衛権を踏まえない軍の運用が禁止される。これは現代における平和国家の在り様を体現した姿であり、国連憲章に適い、パワー・ポリティックスの誘惑を捨てきれない諸国に対して規範を示す事になる。

5.自衛軍の課題(いくつかの課題)

 

(1)軍法の制定

自衛隊法、防衛省設置法等を廃し、軍法理念の法を新たに制定する。自衛隊法などは警察行動理念の運用を求めているので、自衛隊は行動に際して根拠或いは最高指揮官(首相)の命令、指示を求める。自衛戦争を想定すれば首相の負担は大きく、戦闘指揮所から動けない事になりかねない。長期戦を戦い得る態勢ではない。一方軍法では自衛権という運用上の背骨が通ることによってドクトリン(運用の基本原則)をあらかじめ固めて置くことができるため、首相の負担は大きく軽減される。また、軍の運用基準の細分化などが進められるため運用の統一性、効率化が進む。「戦力」は[運用]と[装備]の積と言われるが、軍法はこの「運用」の質(理念)を転換し「運用能力」を大きく改善する。

軍法会議は難題かもしれない。憲法の改正が必要になる。しかし、戦闘が国内に限られること、即決の必要は必ずしもないことを考えると、現在の司法制度で対応できるかもしれない。現に、独は軍法会議を持っていない。今後の検討を待つ。

また、シビリアン・コントロールは、本来、時の政権が外征軍(aggression)との関係を調整するものであった。その為、受け身の(defense oriented)自衛戦では出番は限られる。わが国では戦後何かの免罪符のように概念も熟さないまま多用されて来たが、素人が権力を笠に着て軍事行動に口を出す権利を与えるといった類のものではない。

(2)軍人

国家として公務員のほかに軍人の区分を創設する。必要な、処遇、名誉、顕彰、遺族補償などを準備する。

現状の自衛隊法及び防衛省設置法には戦死という概念がない。戦闘による自衛官の死は、単なる公務死として扱われる。国のため戦場に倒れた軍人に対して、国としてしかるべき名誉と顕彰、さらに遺族に対して特別の経済的保証が与えられる必要がある。

自衛戦争を戦うにあたって最大の難題は、自衛官をメンタルな領域で軍人にすることではないかと思っている。日本から軍人(武人)が消えて80年近くたつ。日本には尚武の伝統があるというが、一方で軍人が追われるように退場した記憶も残っている。書物と映像の中の武士や軍人が自衛戦争の戦士であり得るわけもない。新しい軍人像を模索し、規範をどうやって築いてゆくのか。少なくとも戦後と言われる時代以降、わが国の知的空間には軍人を論ずる場はなかった。

(3)軍と民間防衛

平和を望むなら戦に備えよと言う。ウクライナの自衛戦は、市民が自ら生きのびねばならないことを教えている。国の支援は限られる。島国であり国土の縦深性は限られる。外国への避難は想定しにくい。こうした条件の下で生きのびねばならない。国、市町村、警察、消防、病院などのほかに、マーケット、情報通信などなど生活インフラが関係する。

軍がどのように関与すべきか、難題であるが放置するわけにはゆくまい。

おわりに

ウクライナの戦争は、自衛戦争の実相を日本及び日本人に突き付けた。今ここにある何気ない日常が、テレビのチャンネルを変えたように突如戦場に変わる。市民が無慈悲に殺害され、逃れようもない。国民は否応なく戦場での生活を強いられる。自衛戦争とはかくも過酷なものか。平和国家を標榜し自衛に徹する覚悟をしている日本にとって、ウクライナの戦いは他人事ではない。侵略者を勝者にするわけにはいかないのだ。

期待した国連の力は発揮できていない。しかし、加盟国の殆どがロシア非難決議に賛同し、G7を中心とした主要国が結束してウクライナを支援し続けている。国連が掲げる理念は生き続けている。ウクライナを機会により逞しく蘇るに違いない。わが憲法は国連憲章を踏まえている。その憲法の下で解釈を更新(up to date)し力強い自衛軍を備えて国連の理念のもとに集い、民主主義諸国と肩を並べる事こそ日本のあるべき姿ではないかと思う。諸賢のご一考を願う。