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【寄稿】『推しの子』の大ヒットが物語る若者の”厭世観”と”空虚感”

木島祥尭(29歳・東京都・ライター)

 

 いの一番に言わなければならないのが、私はアニメ『推しの子』が大嫌いであるということだ。吐き気がすると言ってもいい。YOASOBIが歌う『推しの子』の主題歌「アイドル」は米ビルボード・グローバル・チャートで1位を記録し、AmazonプライムやNetflixなど数々の映像配信プラットフォームで視聴ランキング1位に輝くなど若い世代を中心に絶大な人気を誇り、InstagramやTikTokでも関連動画が山のようにアップされ、ある種社会現象化しているとも言える『推しの子』だが、やはり私は『推しの子』が嫌いである。

 というのも『推しの子』は近年まれに見るほど、現代若者の持つ”あの嫌な感覚”あるいは”あの厭な価値観”を見事に反映しており、現在29歳である私もおじさんに片足突っ込んでいるとはいえ、ギリギリ若者当事者として無視できないからなのだ。

 あの嫌な感覚とはズバリ”厭世観”のことであり、そして”空虚感”のことでもある。コスパやタイパ、毒親や老害、SDGsやダイバーシティなど中身はよく分からないけれども、やたらと影響力のある(権力のある)言葉に誰もが踊らされている世の中において、厭世観や空虚感は内的規範を持ち合わせていない現代日本の若者が抱える共通感覚と言っていいのではないだろうか。この厭な感覚を『推しの子』はエンターテインメントの領域で表現しており、あまりに出来が良すぎるために見ていると当事者として胸を抉られ、喉に手を突っ込まれて吐きそうになる。だから嫌いなのだ。否、大嫌いなのだ。

 さて、『推しの子』ではいかにして現代日本の若者が抱える厭世観や空虚感を表現しているのだろうか。そして、『推しの子』のヒットをある意味で支えてしまった若者の厭世観や空虚感はなぜ生まれてしまったのか。上記のポイントについて、本稿ではアニメの描写をもとに分析してみようと思う。

 まず『推しの子』は簡単に言えば、”星野アイ”というアイドルを推している2人のファンが星野アイの子供として生まれ変わる、まさに推しの息子・娘になる話だ。これはあくまでもあらすじでしかないが、実はこの設定の時点ですでに若者の厭世観が見て取れるのだ。上記のようなある人生を送っている主人公が突然別の世界・別の人生を歩むことになる、つまり人生がリセットされるという形式を取る作品のことを”転生もの”(異世界に飛ばされる場合は”異世界転生もの”)と呼び、主に日本と韓国を中心に根強い人気を獲得している。

 そして、この転生ものにはお約束事がある。それは、前世の主人公は不遇かつまらない人生を送っているが、生まれ変わった来世ではたいていの場合都合の良い条件を手にしており、かなりいい思いができるというものだ。『推しの子』もその例に漏れず、2人の主人公のうち1人は医者であるものの、もう1人は重たい病を抱えた少女であり、生まれ変わった瞬間に大好きだった推しの娘として可愛がってもらえ、さらに母親の持つアイドル級のルックスや才能を引き継ぐことにも成功している。これはまさしく不遇だった前世から好都合の来世に生まれ変わる転生もののフォーマットそのものと言えるだろう。

 転生ものの基本はすでに述べたように今の現実がクソであるが、転生すれば一発で大逆転できるという構成で展開される。ここに多くの若者が心を寄せる現状を考えるのに、つまり現代の若者はすでに自分の人生が詰んでいて可能性なんかないから、次の人生に期待しようというモードになっているのではないだろうか。それはコロナ禍以降加速度的に広まった”毒親”や”親ガチャ”という言葉からもうかがえることで、善良な親の元に生まれるか、そうでない親の元に生まれるかで、人生なんてあらかじめ決まっているではないか。お金持ちの子供がお金持ちになっているではないか。高学歴・高収入の親の子供が東大に進学しているではないか。アスリートの子供がアスリートになって活躍しているではないか。だとしたら、好条件で生まれなかった自分の人生はもはや無理ゲーなんじゃないのか。地道な努力なんか無意味なんじゃないのかという諦めが生まれ、ああ転生して一発逆転できないかなと夢想することになる。

 それは近年流行っている”ワンチャン”、”コスパ”、”タイパ”などの言葉からも窺い知ることができるだろう。夢を描いて努力をしても生まれの違いで格差があるなら頑張っても夢を見ても非効率だしリスクが高いから、所属集団(学校や会社)の中でのせせこましいイス取りゲームに興じて、いかに効率良く(コスパ・タイパよく)出世もしくは安定するかしか考えなくなる。あるいは、株で一発逆転(ワンチャン)してFIREを目指そう、出世すら忘れて趣味の世界に閉じこもろうとなる。つまりは努力が報われるという感覚が決定的に失われ、今の自分の人生の可能性は無難なところで諦めて、来世に期待しよう・夢なんか見ずに決められた安定したレールの上を走ろうとなっているのだ。一方で、努力なしで(あるいはノーリスクで)一発逆転できたらいいなという淡い欲だけは残っているため、前世がクソで来世が好都合の図式がウケるのだ……悲しいことに。

 言い方を変えれば、今の若者は『推しの子』に出てくる不治の病でどうにもならない女の子・ルビーちゃんに自分を重ねているのかもしれない。失われた30年、コロナショック、AIの台頭、非正規雇用の拡大、深刻な少子高齢化、格差社会、老後2000万円問題、南海トラフ巨大地震など、現在への絶望と未来への不安をあおる文言が飛び交う中で、ある種の不治の病に罹ったかのように日々強い不安感に襲われ、未来に対して夢や理想を描くことができなくなっているとも言えるだろう。

 先に韓国でも転生ものが流行っていると書いたが、その理由も日本とほとんど変わらない。韓国の格差の固定化は日本以上に酷く進行しており、生まれの違いがもろにその後の人生の収入に関わってくる。[1]貧困層から這い上がることが極端に困難であるため、転生して一発逆転のような物語がウケるのはごく自然なことだと思われる。借金まみれでうだつの上がらない主人公がゲームに勝って一気に億万長者を目指せるという韓国発のドラマ『イカゲーム』が流行ったのも、基本的に同じ理由だと推測される。日本も韓国も生まれですべてが決まるという運命論的な価値観と、それを悲しいことに支えてしまっている格差社会の現実が存在しており、コンテンツにもこうした状況が反映されていると考えられるのだ。

 さらに言えば、生まれ変わる先が推しの子供というあたりも非常に巧と言わざるを得ないだろう。現在いわゆる”推し活”に心血を注ぐ人は約3割に上る[2]と言われるほどすでに一般化されているが、その核心にあるのは心のシェルターの確保か、ノスタルジーか、”可能性の投資”のいずれかだと思われる。ここで問題にしたいのは3つ目の可能性の投資だ。先ほども触れたように現代の若者は自分の可能性を信じていないが、その一方で可能性を見いだせない世界で生きていくモチベーションを保つことも困難である。そこで自分の代わりに可能性を発揮してくれる対象が必要になり、推しという存在が不可欠になった。もちろん好きな対象を見て心が癒されるという効果もあるだろうが、その背後には自分の人生の可能性を諦める代わりに、他者にその可能性を委ねる・投資するという無意識的な行動原理があるものと推察される。

 また、推し活はあくまでも自分が挑戦するわけではなく他人の挑戦を後押しする活動なので、挑戦に伴う地道な努力や失敗のリスクを背負っているのは推しであり、推している側(ファン)には努力もリスクもない。そのため、仮にその推しの挑戦がうまくいかなくても気持ちが沈むことはあるかもしれないが、基本的には”他人事”なのでファンが実害を被ることはほとんどなく、逆にうまくいった時には可能性を投資した分”自分事”のように喜べる。つまり、自らの地道な努力や挑戦による失敗のリスクを避けながら、コスパ・タイパよく成功の喜びを感じられるという便利な側面もあるわけだ。ゆえに、推しの子供に生まれるという設定は、推しの人生(投資した可能性)が花開く瞬間を一番近くでノーリスクかつ努力ゼロで目の当たりにできる、夢のような素晴らしい体験として共有されやすいのである。

 しかも、子供に戻るという設定は幼児退行願望(あるいは胎内回帰願望)も満たしてくれるのでダブル・トリプルで強力だ。作中では推しであり母親でもある星野アイに抱かれたり授乳してもらったりと、赤ちゃんとしてあやしてもらえるので、いわゆる赤ちゃんプレイが合法的にできるので、居場所を失い誰も癒してくれないと孤独感にさいなまれている現代の若者の心をつかまないはずがないのだ。

 さて、こうした居場所の無さと関係するものとして、次に『推しの子』で描かれる若者の空虚感についても掘り下げてみようと思う。空虚感については、先ほども紹介したアイドル・星野アイの言動によく反映されている。星野アイはアイドルグループ”B小町”のセンターを飾る人物であり、類まれなルックスと表現力の高さ、そして何よりもファンが求める姿に自分を合わせていく適応力の高さが特徴的だ。

 アニメの中で星野アイは繰り返し、自分はアイドルという嘘を演じ続けている、自分は究極の嘘つきであり、本物の愛がほしくて愛していると嘘を振りまいてきたと、モノローグの中で自分が嘘の塊であることを執拗に語っている。実際に彼女は周り(あるいはファン)が何を求めているかを敏感に察知し、求めている姿に知能指数の高いカメレオンがごとく即座に適合していく。ウケのいいポーズや皆に好かれる笑顔を完璧に身に着け、ネット上のファンの書き込みで「この笑顔を求めてた」と言われれば、それに準拠するように全く同じ笑顔を作るようになり、事務所の社長が楽しそうにしていればその雰囲気に合わせて自分も楽しいフリをする。それらがすべて嘘であることは彼女自身も自覚しており、環境や人に合わせて嘘をつき過ぎたことで、自分の本当の感情が分からなくなっている状態であることも自覚している。つまりは、空っぽなのだ。ここに現代日本に蔓延する過剰適応の問題が見えてくる。

 過剰適応とは、自分の考えよりも他人や周りの環境・空気を優先し過ぎてしまい、心身が疲弊する状態をさす。社会活動をする上で役割を演じることはたしかに重要だが、日本人は場の空気を重視し過ぎるあまり、この過剰適応に陥りやすいと言われている。事実、いわゆる空気が読めないことを意味する”KY”なんて言葉が流行語になるような国に我々は住んでいるわけで、その空気の重みは若い世代になればなるほど強まっているように思われる。

 実際、今の若者は授業で手を挙げたり人前でほめられたりなど目立つことを極端に嫌い、競争よりも同調を重視して、いかに横並びの列から外れないかを意識するようになっているようだ[3]。原因は多々あるが、同時代に生きる若者として思うのは、バブル経済崩壊以降に現れた歪んだ”個性主義”の台頭が大きな要因であったと考えている。もちろん”ゆとり教育”も条件の1つではあるが、実際にゆとり教育を受けてきた人間としては、その影響は限定的であると思われる。むしろ、ゆとり教育を含む時代の空気感自体が問題だった。

 バブル経済崩壊以降、経済的発展と競争に疲れた日本社会は、お金や競争、宗教に代わるものとして”個性”という価値観にすがるようになった。2000年代に入ると個性をテーマにした歌がヒットを連発し、その代表格となったのがSMAPの「世界に一つだけの花」だった[4]。”ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン”という歌詞が日本中で歌われ、日本全体が競争よりもオンリーワンだ、個性だ、自分らしさだという思想にとりつかれていき、徐々にオンリーワン真理教がその勢力を拡大させていった。そして、この時代あたりから”人それぞれ”が日本人の口癖となり絶対観の無い相対主義が蔓延し、人それぞれ考えがあってそれらはあまねく尊いので、人の意見を批判してはならないという妙な道徳観みたいなものが広まってしまったのだ。

 それに合わせて、21世紀突入によるお祭り気分や日韓ワールドカップの開催による熱狂、「マツケンサンバ」などのダンス曲の大ヒット、小泉純一郎氏による劇場型政治など90年代の暗黒を忘れてしまったかのような能天気さがあったのも重要なポイントだ。モーニング娘。の「LOVEマシーン」の”日本の未来は世界がうらやむ”という現実逃避も甚だしい歌詞が重宝されたことからも分かる通り、特に2000年代の前後は日本社会全体が根拠のない明るさで山積していた問題から目を背け、このまま行けるはずという強力な正常性バイアスの殻に閉じこもっていた。ワールドカップで”日本チャチャチャ”と応援しながら、LOVEマシーンで”日本の未来はウォウ ウォウ ウォウ ウォウ”と唱えながら、日本全体が集団催眠状態に陥っていたとも言えるだろう。子供の目や耳に届くのもこうした現状肯定的・事なかれ主義的なものばかりになってしまい、主張や批判、反発や反抗といった価値観自体に触れることがほとんどなかったように思われる。ゆえに考えるよりも上記のようなノリ(同調)を重視する空気が強く働くことになり、個性主義が台頭している割に意見の衝突がなく、空気を読むばかりのフワフワしたコミュニケーションになってしまったところがある。

 こうした個性主義・同調主義的な時代状況の中で幼少期を過ごしたことにより、おのずと競争・対立の意識は弱まり、人それぞれだからを前提にして人と意見をぶつけ合うことを避けて、波風を立てずにその場を乗り切る術を身に着けてしまった。その術がまさしく過剰適応であったと考える。自分の意見を言わずに周りにとりあえず同調・適応していれば、競争もなくそれぞれの個性を傷つけることもなく、自分が傷つけられることもない。対立しそうなときは、例の”人それぞれだからね”という魔法の言葉で相対主義に逃げることでバトルが起きないようにする。一見すると平和的で素晴らしいような気もするが、よく考えてみると人それぞれなんて言葉はすべての意見に当てはまる前提の中の前提なので、実際には何も言っていないに等しい。自分の意見は何も言わないという選択肢を取ることで、他者との衝突を避けてきたのが実際のところだろう。つまり、周りに合わせる、沈黙するという手段に頼ってしまったがゆえに、自分の意見や考え、内的規範を構築する機会を得ないまま大人になってしまったのだ。逆に対立しないための・目立たないための空気に合わせる適応力だけは極端に発達してしまった。

 さらに2010年代に入るとSNSが本格的に利用され始め、芸能人・一般人問わずあらゆる人の炎上を日ごろ目にするようになったことで、社会が醸し出す空気の圧力はより強力なものとして若者にのしかかるようになった。ネットを通して誰に見られているか分からない、いつ誰が自分の言動を外部にリークするか分からないという状態が365日24時間継続する生活を送る中で、あるいは緩やかに進行していくディストピアの中で、ただでさえ過剰適応で自身の考えを控えてきた若者たちは、ネットの圧力を恐れてさらに沈黙するようになり、さらに場の空気に合わせるようになってしまった。現実とネットの両側から空気の圧力を受け、もはや息をするのがやっとという状態に追い込まれてしまったのである。

 近年ではコンプライアンスや各種のハラスメント、SDGs、多様性といった影響力のある言葉が五月雨式に登場し、同時にマスク警察をはじめとする民間警察の皆様の熱意溢れる地道な取り締まり活動によって、より一層空気の圧力は強化され、当たり障りのない一般論しか言えないような状況が生まれている。その結果、会社でも学校でも家でも友達の前でも自分(本音)をさらけ出すことができなくなり、空気や外的規範に従って行動する星野アイのような空っぽな人間が続々と生み出されることになったのだ。

 さらに言えば、今はスマートフォンの発達により、なんでも事前に調べてから行動できるので、失敗を極力避けることが可能だ。ゆえに、失敗による経験の蓄積や教訓が得られず、ここでもまたネットという外的規範が優位に働いていることが分かるだろう。スマホという万能の転ばぬ先の杖を手に入れた我々は、正解(前例)にならって行動する・マニュアルに従って行動するという元々持っていた日本人的な癖を強化することになり、内的規範が醸成されないという状況が生まれている。

 例えば、恋愛テクニックを検索して”3回目のデートで告白する”というマニュアルに従ってとりあえず3回目のデートで告白するなど、本来もっと情緒的で柔軟であっていい恋愛ですら間違えないことを優先にした行動をとるようになっているのだ。しかも、各種のレコメンド機能が発達したことで、YouTubeでもニュースサイトでも、自分がいつも見ているものと類似したコンテンツが自動的に選出されるため、趣味の時間においてさえ自分の意思が介在せず、それこそ機械的に選ばされている状況だ。学校や会社の中だけならまだしも、恋愛や趣味など極めて個人的な領域でさえ、自らの判断よりもネットや機械による外部の判断が優位性を持ち、外的規範に頼る流れはより強まっていると言える状況だ。

 そもそも日本は昔から、親や先生、上司や会社、世間など自分より上の立場から正解や指示が与えられるトップダウン式の意思決定を基本としているので、答えや命令が上から降ってくるのを待つ指示待ち人間になりやすく、自らの意思で考えて行動しづらいのは事実だ。しかし、それでもかつてはネットもスマホもなかったので、自分の頭に頼って行動しなければならず、自らの行動の結果大けがをしたり失敗したり人を悲しませたりして、だんだんと経験的に知恵や道徳観を磨いてきたところがあると思われる。一方、現在はあらゆる場面において、先に紹介したように人を傷つける可能性や自分が傷つく可能性、自分で考えて行動する可能性、そして失敗する可能性があらかじめ排除されているため、人間としての核(主体)がいつまでたっても形成されない。確たる内的規範を持ち合わせていないので、大人になっても外的規範に従う過剰適応のルーティンから抜け出せず、自分が何を考えていて何をしたい人間なのか自分でも説明ができないという星野アイのような状態に陥っている。つまりは、空っぽなのだ。

 さて、ここまでは星野アイの過剰適応という側面から若者の空虚感について考えてみたが、空虚感については星野アイが登場する別の場面からも考察することが可能だ。実は「アイドルにならないか?」とスカウトを受けたとき、星野アイはアイドルになることを一度断っている。というのも、星野アイは幼少期親に捨てられ孤児院で育てられたという過去を持つ人物で、親の愛情を知らないため、愛を知らない人間が愛を振りまくアイドルなんかできるはずがないと考えていたのである。しかし、アイドルになって「愛してるって言っているうちに嘘が本当になるかもしれん」という社長の言葉で、アイドルとして愛してるフリを全力ですることにより、自分が知らない愛という概念を獲得できるのではないかと考え、星野アイはアイドルを目指すことになる。ここにも我々が抱える空っぽ問題を見ることができるだろう。

 2018~2019年にかけて大ヒットした京都アニメーション制作の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』でも、感情を持たないヒロインのヴァイオレットが愛を知るために懸命になる姿が描かれている。いずれも、愛が分からず空っぽな状態のヒロインが登場する点で共通していることが分かるだろう。こうした作品が近年支持され共感されるのは、観客もまた愛が分からず空っぽな状態に陥っているからなのかもしれない。

 では、なぜ現代の若者は愛が分からなくなってしまったのだろうか。原因としてまず思いつくのは、星野アイと同様に愛情を十分に受けてこなかったという問題だ。星野アイほど極端な例は少ないかもしれないが、事実として少子高齢化で子供の数が減っているにも関わらず、児童虐待の件数[5]や子供の自殺者数[6]は右肩上がりの状況が続いており、ユニセフが行った調査では日本の子供の精神的幸福度は調査国の中で下から2番目のブービー[7]。日本の子供の置かれている状況が悪化していることには疑う余地がなく、子供が愛情不足に陥っているのは火を見るよりも明らかである。日本を含めた7カ国の若者の自己肯定感を計る調査においても、アメリカやフランスなど諸外国の若者の7~8割が自分自身に満足していると答えているのに対し、日本の場合はわずか45.1%にとどまっており、諸外国と比較して日本の若者の自己肯定感の低さがうかがえる[8]

 こんなにも子供や若者の心が疲弊し自信がなく、愛情不足に陥っているのはなぜなのか。経済的問題や家庭問題、貧困問題、格差問題、健康問題など、あらゆる要素が複雑に絡み合って生まれている問題だが、ここではポイントを1つにしぼり、子供の育つ環境の変化にフォーカスしてみようと思う。

 おそらく日本人がまだ貧乏で助け合いながら生活していた頃は、家や物を共有することが当たり前で、家族以外にもさまざまな人と交流し、コミュニケーションをする機会が豊富に用意されていたように思う。それが、高度経済成長期を経て徐々に裕福になると、冷蔵庫やテレビ、エアコンなど家電家具を各家庭で所有することが可能になった。そして、バブル経済以降になると、兄弟がいても子供に一人一部屋が与えられるようになり、家族みんなでシェアしていた家の黒電話が個別の携帯電話に切り替わり、一部屋に1台ずつエアコンやテレビが設けられるようになった。

 経済の発展に伴って、物の共有が減り逆に物の所有が増えたことで、物や場所を共有する時にかつては発生していたコミュニケーションがなくなり、引きこもって1人でなんでも自己完結できるような環境が作られるようになったのだ。さらに拡大家族から核家族への転換が加速度的に進み、同時にコミュニティの崩壊も進行したことで、隣近所に誰が住んでいるかも分からない状態が当たり前になり、あらゆる面で孤立化が強まることになった。その結果、子供たちが成長過程で人と接する場面が極端に減ってしまい、自己肯定感を養うような土台としてのコミュニケーションを十分にしないまま大人になってしまったのだと考えられる。それは、愛情を感じる機会が減ってしまったと言い換えてもいいだろう。

 子供たちが自由に遊べる公園や空き地が減り、地域で声をかけてくる人が不審者扱いされて遠ざけられ、モンスターペアレントの登場によって子供と教員との関係が希薄化し、核家族化が進んだことで祖父母との交流が減り、所有の集中によって引きこもれる環境が整備されたために核家族内での会話も減り、子供たちは著しくコミュニケーションの場を奪われてしまったのである。

 その結果として、我々の世代(ゆとり世代)くらいからやたらと”コミュ障”(コミュニケーション障害の略称)という言葉が使われるようになった。実際にコミュ障のキャラクターをメインに扱った『僕は友達が少ない』や『古見さんは、コミュ症です。』などのアニメが雨後の筍のごとく量産されることとなり、現在もなお多くの支持を集めている状況だ。つまりは、幼少期から青年期にかけて孤立している時間が長く、まともに人と関わっていないために、やたらと人見知りで傷つきやすく会話の苦手なコミュ障が大量発生してしまったのである[9]

 コミュ障であるがゆえに、学校に行っても友達をうまく作ることができない。仮に友達らしいものができても、先ほども触れた空気の圧力が強すぎるために、本音で会話できるような相手はおらず、関係性を壊さないための当たり障りのない一般論か、共通の話題に終始してしまう。2020年に大ヒットしたAdoの「うっせえわ」の歌詞にも、”最新の流行は当然の把握”とあり、仲間外れにされないように流行を常にチェックして、話題を合わせることでなんとか関係を維持しようと苦心している様が見て取れる。このような上っ面で壊れやすい人間関係において悩みを打ち明けたり、本音をぶちまけたりすることは仲間外れのリスクを伴うので控えるようになり、結果として誰とも心を通わせることがなく、周りに人がいても孤独感を強く感じるようになっている。しかも、コミュ障なので友達がいない状況を打開するための行動に出ることもできないという如何ともしがたい袋小路にはまっている状況なのである。ささやかな抵抗として現実がダメならとSNSに逃げ込むわけだが、SNSでの自分の発言はいいね!やフォロワー数といった数字に変換(採点)されてしまい、年収やテストの点数で評価されるのと同じような空虚さが付きまとう。

 一般的に人は会社や学校のようなある種数字で評価される世界と、数字とは関係なくありのままの自分として受け入れてもらえる生活世界の2つの世界を行き来している。会社や学校のような結果が求められる世界だけでは人間は精神を病んでしまうので、人間扱いしてくれる生活世界が不可欠だ。しかし、現代の若者はすでに紹介したような理由で心を通わせるような人間関係が極めて少ない(あるいは脆弱)で、自分の心を回復させてくれる生活世界が限りなく小さくなっており、人によっては皆無な状態に陥っている。SNSでその場しのぎの承認欲求を満たしたとしても、これはこれで数値化される世界なので会社や学校で行われていることと本質的には似通っており、1人の個人としてではなく結局は単なる数字の多い少ないで判断されるだけで、本質的な意味での孤独感の解消にはつながらない。ありのままの自分で居ていい場所、自分を受け入れてくれる、あなたのままでいいと言ってくれる場所がなく、常に仮面をかけ続ける生活を強いられているのだ。

 さて、この衰弱し切った生活世界しか持ち合わせていない人間に、愛を感じる瞬間があるだろうか。常に数字と評価にさらされ、話題についていくために映画を倍速で視聴し、常に共感する姿勢を求められ、本音をほとんど言えないような世界で生きていて、果たして愛を感じることができるだろうか。当たり前だが、そんなわけがない。このようにして、今の若者は愛が枯渇している状態に陥っており、無気力な若者が多かったり、バーンアウト(燃え尽き症候群)状態の若者が増えていたり、厭世観を抱えていたりするのも、根本的な原因はこの究極的な孤独状態における愛の枯渇なのだと言える。当たり前の話だが、やる気をチャージする場がないのに、やる気を発揮することはできないのだ。愛情のタンクがカラカラに渇いている若者が、星野アイが抱える”愛が分からない問題”に思わず共感してしまうのも、ある意味当然であると言えるだろう。

 また、”愛を持ち合わせていないがゆえに愛に焦がれる”という姿勢も共感を呼ぶ重要なポイントだ。こうしたある種の心の渇きについては、先ほども紹介したAdoの「うっせぇわ」の”遊び足りない何か足りない”という歌詞からも読み取れる。現状維持を望むように見える一見いい子ちゃんの若者も実はどこかで違和感や不足感を覚えており、何が足りないかまでは明確に捉えられていないものの、何らかの渇きを覚えているのは確かなようだ。そしてその渇きを何とかして癒したいと心の底では願っている。

 しかし、外的規範に沿って生きてきた若者たちは、自身が本質的に何を欲しているのか考える機会や環境を与えられてこなかったので、自分の求めることが分からず渇きだけが存在するという状況に陥っている。ゆえに、渇きを感じた時でも本質的な解決を図るのではなく、渇きをごまかすためのコンテンツやツールに頼り、一時的に自らを満たしてくれる動画やSNSに時間と自らの欲望を奪われることになってしまうのだ。

 2019年に放送され話題を呼んだ幾原邦彦監督の『さらざんまい』というアニメでは、”手放すな欲望は君の命だ”というキー台詞や、”欲望搾取”という悪役の放つ台詞があり、まさにそれはあらゆるところでマーケティングに欲望をかき立てられ、SNSのシステムによってむやみに承認欲求が刺激され、外部に欲望を搾取されている我々若者に向けられた言葉であるように思う。我々は種々の理由で自分の心が空っぽになっただけでなく、欲望さえも外部に吸い取られている状況にある。愛も心も欲もカラカラに渇いているのだ。せめて星野アイのように空っぽである自分を自覚して、自分から愛を希求(欲求)することは最低限必要なことなのかもしれない。外側に欲望を吸い取られるのではなく、欲望を自らのエネルギーとしてコントロールし、本当に自分が求めていることのために使うべきなのだろう。孤独を紛らわすための余計な消費活動に惑わされずに、”愛がほしい”という欲望・渇望をしっかりと見つめて、自らの意思で愛を求めて具体的な行動に移すことが必要なのかもしれない。

 『推しの子』の劇中では、遠い夜空の星に手を伸ばす星野アイの姿が描かれており、それはまさしく手に入らないほど遠くに行ってしまった星野アイにとっての愛そのものであると解釈できる。そして、観客である我々若者にとっての愛そのものとも言えるだろう。星野アイはアイドルとして偽りの愛をギブしまくることで愛へ近づこうとあがき、その末に彼女は本物の愛にたどり着いた。まさに、つかめないはずの星をつかんだのだ。星のように遠くに輝く愛を手に入れることで、星野アイの名にふさわしい人物になったのである。もはや我々若者にとって夜空の星のように未知のものとなってしまった”愛”だが、それでも手に入らないと諦めてしまうのではなく、星野アイのようにあの美しい星に近づきたいという渇望を原動力にしてあがくことは大切なことかもしれない。

 最近では、自分が抱える渇望や寂しさ、孤独感を自覚して行動し始めている若者も少なくない。ソーシャルアパートメントで仲間を作ったり、子ども食堂や無料塾などのボランティア活動に参加したり、気候変動問題など同じ問題意識を持った同志で集まったりすることで、壊れたコミュニティの再生を図り、どうにかして自分の居場所を確保しようともがいている。厭世観や空虚感にやられそうになっている若者だが、希望があるとすれば星野アイや「うっせえわ」の歌詞に見られるように、何らかの渇望を持ち合わせていることだ。それは間違いなく彼らの行動の原動力として機能しているように思われる。この渇望すら失ってしまったら、いよいよ我々は社会を回す歯車そのものとなってしまい、人間とは名ばかりのただの部品に成り下がってしまうだろう。ゆえに、自分の渇望も欲望も簡単に手放してはならない。外的規範に合わせてお利口さんぶるのはもうやめて、自身の内的規範の形成に意識を向けなければならない。自身の内的規範と本質的な欲求に基づいて行動し続ければ、いずれは心の通じ合う仲間と出会うこともあるだろうし、愛と呼ばれる美しい星に手が届くこともきっとあるはずだ。

[1] 韓国統計庁「2021年社会調査」によると、韓国成人の60.6%が「階級移動の可能性は低い」と回答。子供世代の階級移動の可能性について「高い」と回答した人は29.3%、「低い」と回答した人が53.8%と階級移動への悲観的な回答が過半数を占めている。

[2] モニタス『推し活に関する意識調査』によれば「推し活をしている」人は27.3%で「推し活をしていない」人は72.8%となっている。

[3] 金間大介『先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち』東洋経済新報社、2022年、26~35頁、46~52頁、100~106頁。

[4] 2003年発売当時はオリコンの「年間シングルランキング」で1位を獲得しており、期間内売上は210.9万枚を記録している。

[5] こども家庭庁の「令和4年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数(速報値)」によれば、児童虐待相談対応件数は平成2年度の1,101件から右肩上がりの増加傾向を続けており、令和4年度は過去最多の21万9,170件を記録している。

[6] こども家庭庁の「【令和4年確定値】小中高生の自殺者数年次推移」によると、令和4年度の小中高生全体の自殺者数は514人となっており、過去最多を更新している。

[7] ユニセフ報告書「レポートカード16」によると、日本の子供の幸福度の総合順位は38カ国中20位。身体的健康は1位に輝くものの、精神的幸福度は37位を記録。

[8] 内閣府「令和元年版 子供・若者白書」の「特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~」2018年。

[9] もちろん、昔とは違って、ネットやSNSの登場により、現実でのコミュニケーションとバーチャル世界でのコミュニケーションを両立させなければならないという極めてややこしい状況に置かれたことで、かつてよりも高いコミュニケーション能力が求められるようになり、コミョ障にならざるを得なかったという側面もある。