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【寄稿】「サウィン」のこと

奥野健三

 

 近年の東京渋谷でのハロウィンは以前のような騒ぎではなくなったようだ。しかし、大阪をはじめ全国の繁華街ではハロウィンを楽しむ(?)若者はむしろ多くなったように聞いている。

 ハロウィンをキリスト教のお祭だと思っている人は多い。アメリカから世界中に広まったことも原因だが実はそうではない。

 聖書にはイエスの降誕日について書かれていないにもかかわらず、クリスマスをイエス・キリストの降誕祭としているように、元々はキリスト教にとっては異教のお祭であったものが、長い歴史の中でキリスト教のお祭りとして取り込まれたものがある。

 クリスマスはその代表例で、古代北方ヨーロッパに居住していたゲルマン人の「冬至祭」をイエスの降誕祭に取り入れたものだ。

 今回、取り上げるハロウィンもその一つだろう。

 ハロウィンはケルト人が重要視する4つの季節祭の一つである「サウィン」を源流にしている。

 ケルト人とは古代ヨーロッパの先住民族で、地中海沿岸部からブリテン島まで広くヨーロッパに分布して暮らしていたが、統一国家ではなく古代ケルト語を共有する部族の集合体として構成されていた。

 紀元前15世紀ころ、豊かな話し言葉を持ち、言葉を神聖なものと考えるケルト人社会には、政治的指導者であり、医者であり、裁判官であり、シャーマンでもあったドルイドと呼ばれる人たちがいた。

民衆から尊敬されるドルイドは、宗教儀礼や慣習、あるいはケルト人が古代から伝承する神話などを文字化して後世に伝えることはなく、口伝伝承を最も神聖な方法であると考えていた。

 従ってケルト人の文化は、彼らの衰退や滅亡と共に消え去ってしまうのだが、逆にそれを後世に伝えようとした人たちもいた。

 それは紀元前1世紀、ヨーロッパ大陸のケルト人を滅亡に追いやったローマ帝国のカエサルであり、紀元313年ローマ帝国の国教となったキリスト教のその後の修道士たちが、アイルランドなどに遺されていた史料の写本を手掛けていた。

 しかしケルト人が文字を知らなかったわけではない。

 19世紀末、フランスのリヨンで発見された「コリニーの暦」は、太陰太陽暦を採用し青銅板に彫られていた。それによると30日で数える7ヶ月と、29日で数える5ヶ月を合わせて355日の12ヶ月を1年とし、2年半に1回の閏月も設定されていた。

 そして1年を「闇の半年」と「光の半年」とに分け、それぞれをまた2分割し、1年を4つの季節に分け、その4つの季節の最初の日をお祭の日と定めた。

 すなわち冬の1日目(11月1日)を「サウィン」、春の1日目(2月1日)を「インボルク」、夏の1日目(5月1日)を「ベルティネ」、そして秋の1日目(8月1日)を「ルーナサ」という4つの季節祭が定められた。

 農耕牧畜が主な生業であったケルト人が暮らすヨーロッパの冬は厳しい。

 しかもヨーロッパでは紀元前1万年以降温暖化が続いていたが、紀元前2千年以降寒冷化が進み、紀元前750年前後、同じく紀元前330年前後の寒冷期の影響は大きかった。

 食糧の調達ができない厳冬をいかに生きながらえるかは、ケルト人の毎年の最重要課題であった。秋の収穫物を備蓄し、家畜も生育用と、屠殺して食糧にするものと選別しなければならない。また備蓄した食糧を襲う異民族もあり、実際、この時期には戦争も多く発生していた。

 春を基軸にする日本人とは違って、ケルト人は「闇の半年」の入り口である11月1日を1年のスタートと考え、冬の季節祭であるサウィンを4つの季節祭のうちでも最も重要なものと考えていた。そこには厳しい自然環境で生きるケルト人の知恵があったのだ。

 ケルト人にとって冬の入り口は「死」の入り口でもあった。食糧用に屠殺される家畜は「死」そのものであり、収穫の終わった農地も、緑の枯れた放牧地も「死」を意味するものであった。

 しかし、ケルト人は「死」を嘆き、恐れたわけではなかった。

 豊かな神話を育んできたケルト人は、悠久の歴史の中で自然と接し、自然が闇の世界にあって限りのない恐ろしさと破壊力で人間を飲み込む危険性のある事を知っていた。

 しかし、同時に自然は見返りを求めず、限りのない優しさと温かさで包んでくれることも知っていた。

 春になれば枯れた牧草地は新しい緑でいっぱいになり、秋には枯れた農地に豆や麦が蘇り、家畜にも新しい仲間が誕生する。リヨンで発見された「コリニーの暦」はケルト人が自然と生きる証しであった。

 ケルト人にとって「闇の半年」の入り口であるサウィンの祭は、死の恐怖に耐える祭ではなく、新しく生まれ変わる「再生」を願う祭でもあったのだ。

 宗教的指導者でもあったドルイドは、自然の恵みを得るために宗教的祭祀の必要性を説いていたのだろう。ドルイドに導かれたケルト人は神の探究者であった。

 日本仏教では「山川草木」といわれるが、ケルト社会には「草木虫魚」という言葉がある。ケルト人はこれに自然を加えて、世の中のあらゆるものは生命の宿る物質と捉え、それぞれが霊的な働きを持っていると考えていた。

 ケルト社会を追放したローマ帝国のカエサルが、ケルト文化を後世に伝えたのも、彼らの宗教性に興味を持ったのかも知れない。

 万物は神の創造物と捉えるキリスト教社会からみれば、このようなケルト人の自然崇拝は未開人の原始宗教であると排他的に考えているが、一神教の登場をみるまで自然崇拝は人類に共有された宗教の形であったのだ。

 

 さて、ケルト人はサウィンの祭をどのようにして執り行っていたのでろうか。われわれ日本人は「お盆」を想像していただければ理解しやすいだろう。

 日本ではお盆になると地獄の窯の蓋が開くように、サウィンの夜は死者と生者の間の壁が取り除かれ、祖先や親しい死者がそれぞれの家庭に戻ってくるとドルイドは教える。

 その日のために各家庭では食事を用意し、備蓄の小麦粉で菓子を焼いた(菓子は元来、供物であるといわれている)。そして家族そろって、祖先や霊魂たちと食事を共にするのである。

 この日、ケルト人たちの村々は生者が用意した食事を求めてあの世から大勢の祖先や死者たちがやってきて宴が始まる。ここではキリスト教のような垂直の関係はなく、あの世もこの世も、生者も死者も垣根がなくつながれた横の関係が構築されているのである。サウィンが「万霊節」と呼ばれるゆえんがここにある。

 フランスのブルターニュ地方でも、帰ってくる祖先のために戸口や窓の外に食べ物を置く習慣が15世紀まであったといわれている(ブルターニュとはラテン語のブリタニアが語源で、ブリタニアとはグレイト・ブリテンのことでカエサルはこの地方の住人をブリタニア人と呼んでいたという)。

 ケルト人にとってサウィンが祖先を家に招き食事を共にするのは、死者を供養するばかりではなく、死者が生者に生きる活力を与え、そして「闇の半年」を何事もなく過ごし、「光の半年」への蘇りを願うものでもあった。

 また、生者が祖先や死者のことを疎かにし、食事の用意を怠ると、親しい死者の霊は生者に罰を与えるとされ、そしてこの慣習が現代のハロウィンへと受け継がれることになる。

 すなわち子供たちが各家庭を廻りお菓子をもらうという行事である。

 子供たち数人が手をつないで村の家々を「Trik or Treat」と言いながら、カブをくりぬいたランタンをもち村中をめぐる。

 子供たちがやってくると、家の大人たちはたくさんのお菓子を子供たちにプレゼントするという、現代にも残っている慣習がそれである。

 この場合のお菓子は帰ってきた祖先や親しい死者たちをもてなすご馳走であり、やってくる子供たちが演じているのは祖先や霊魂なのである。

 子供たちが発している「Trik or Treat」は「お菓子をくれなきゃいたずらするよ!」だが、そこには、「祖先や霊魂をおろそかにするとあなたは不幸になるよ!」の言葉が隠されている。

 また、それぞれの家庭の戸口で焚かれるかがり火を「ボンファイア」と呼ぶが、この炎は備蓄する食糧となる屠殺された家畜の骨を積み上げて焚かれた炎であることから「ボーン(骨)・ファイア」と呼ばれると伝えられる。

 

 それではキリスト教が邪教と教える異教の祭「サウィン」をどうして自らの祭「ハロウィン」として取り入れることになったのであろうか。

 ケルト人を追放したローマ帝国もその後のゲルマン人(アングロ・サクソン)に滅ぼされ、ヨーロッパ大陸のケルト人はスコットランドやアイルランド、あるいはブリテン島のウェールズなどわずかな地域に居住することになる。

 ケルト人の文化や伝統、神話なども古代ケルト語と共に細々とではあるが、キリスト教化されながらも生き続け、継承されてきた。

 ルネサンスを経て、大航海時代が始まり、アメリカ新大陸が発見されると、アイルランドからも大量の人たちが大陸に移住することになった。

 彼らが集中して暮らす地域では、ケルトの祭「サウィン」が毎年のように繰り返し祝われていた。しかし手に持つランタンはカブではなく、大陸で大量に生産されていたカボチャに代わっていた。

 多民族国家のアメリカで、一部の集落の行事が隣の村や町に伝播していくことを封じることはできない。

 そして祭に秘められた宗教的意義が時代と共に薄れ、イベント化していくこともよくあることだ。

 「サウィン」もアメリカの商業主義の中で姿を代え、アメリカ版「ハロウィン」が全土に広がっていった。

 昨年(2022年)、発売40周年を迎え、人類史上最高のアルバム販売数を誇った、マイケル・ジャクソンの『スリラー』は1984年グラミー賞で最多の8部門を受賞した。

 そして死者を連想させるマイケル・ジャクソンのスリラーダンスと共に、『スリラー』がハロウィンを象徴する曲であり、今やハロウィンの定番ソングであることに異論はないだろう。

 しかし、大衆が「ハロウィン」を受け入れたのとは別に、キリスト教はいかにして異教の「サウィン」を消化したのであろうか。

*  *

 殉教した聖人を祀る「諸聖人の日」は、キリスト復活から50日後の祝日と定めていた東方教会に対し、西方教会は5月13日に設定されていた。しかし、シリア出身のグレゴリウス3世は737年にこの祝日を11月1日に改めた。その理由について一説では、当初はマリア聖母や殉教した聖人の他に一般の聖徒も含まれており、日本の墓参りに相当する当日は多くの参拝者が集まり、食糧の調達ができないため、秋の収穫後にその日程が変更されたという。

 この説の信憑性はともかく、どうしてキリスト教が異教の祭日を取り入れたのか、この回答を見つけるのは困難だろう。

 ケルトと同様に自然崇拝のわが国にも外来の宗教である仏教が入ってきた。幸いにも新しくやってきた仏教は既存の宗教に排他的ではなく、民衆はそれまでと同様に自然を崇拝し、霊魂の宿る山や、岩や、大きな木などに合掌する生活を続けることができた。

 国家の庇護を受けた仏教は大きな寺院や高い塔を建てたが、民衆の崇拝の対象は仏像ではなく、いつまでも自然そのものにあった。

 僧侶たちにとって国家の援助は欠かせないが、地域住民たちにそっぽを向かれては困る。

 そこで新しく寺院を建立するときは、土地の氏神を祀ることを忘れなかった。山や川や森や岩、大木など周りの自然との調和を怠ることはなく、地域住民に寄り添うことを忘れなかったのだ。

 ヨーロッパにおいても同様のことが行われたのではないだろうか。

 異教徒を排斥するのが常であったキリスト教もここでは何故かそれをしなかった。

 キリスト教の選んだ道はケルト人の伝統や慣習を抹殺することなく、キリスト教化していくことで異教徒との共存を図ることであった。この進め方に問題はなかったのだろう、大きなトラブルもなく月日は流れていく。「サウィン」から「ハロウィン」へ、ケルト人の伝統もキリスト教化されながらも受け継がれていった。

 ところが、中世ヨーロッパでキリスト教に新しい波が押し寄せてくる。

 13世紀頃、西方カトリック教会はおぼろげで曖昧な状態であった死後の世界に煉獄という空間を発明した。そして善人であり悪人でもあるという〝宙ぶらりん〟の不安定なこの状態に動揺する民衆に対し、不安を和らげるための免罪符を発行したのだが、これを非難する人たちが現れた。

 16世紀、旧いカトリック体制を非難するマルティン・ルターを中心にしたプロテスタント教会の登場に伴って吹き荒れた宗教改革の嵐は、異教で邪教の祭である「ハロウィン」を魔女の操る悪魔的な行事であると弾圧した。

 プロテスタント教会が勢力を広げた原因の一つに経済の発展を可能にさせる教えがあった。

 従来の自然崇拝はもとより、イスラム教やヒンドゥー教、仏教などの世界宗教も集団を意識し、同じ戒律の下で生きるのが基本であったが、個人を尊重するキリスト教は違った。

 中でもプロテスタントはより個人主義的であった。国家が海外貿易に介入したカトリックのスペインなどに対し、プロテスタントのイギリスは自由な経済活動を奨励した。

 蓄財に罪悪感を覚えるカトリックに対し、神と個人は1対1であり、正しい行為に基づく利益は神も祝福するとするプロテスタントの教えは、現代のグローバリズムのようにヨーロッパ社会に根を下ろしていった。

 教皇の承認した植民地競争を勝ち抜いたのはイギリスであった。イギリスはウェールズ、スコットランド、アイルランドを支配して大英帝国を作り上げ、世界の覇者となっていった。

 そうしたなかでウェールズ、スコットランド、アイルランドはケルト人の伝統をわずかに残す地域であり、「サウィン」からキリスト教化した「ハロウィン」を作り出し、続いてアメリカ大陸に移住したアイルランド人が今度はアメリカ版「ハロウィン」を世界に通用するイベントに育て上げ今日まで生き延びることとなった

 

 キリスト教の異教徒との対応は、ヨーロッパでは調和を重んじる反面、アフリカや南米、東南アジアにおいてはジェノサイドや容赦のない現地住民への殺戮が繰り返された。

 このようにキリスト教の相反する異教への対応はどこから来るのだろうか。そこには欧米人の心奥にある有色人種への蔑視があった。

 アメリカにはWASPなる選ばれたエリートたちの集まりがあった。WASPとは白人(W)であること、アングロサ・クソン(A・S)であること、そしてプロテスタント教徒(P)であること、がこの組織の条件とされている。

 建国当時のアメリカはイギリスのピューリタンが過半数を占めていた。ヘンリー8世が自らの離婚問題でカトリックを離れイギリス国教会を設立したのだが、内実はカトリックでもなくプロテスタントでもないという中途半端な宗教改革であった。これに異を唱え、聖書に忠実に徹底した宗教改革を求めたのがピューリタン(清教徒)であったが、国王の彼らへの弾圧は激しさを増し、イギリスを離れオランダやアメリカへの大移住が起こる。こうしてプロテスタントのアメリカが成立し、WASPの(P)となるのだが、不思議なのは(AS)である。

 アングロサクソンは5世紀にそれまでの先住民であるケルト人を追放しており、本来ならイギリスの先住民はケルト人でなければならない。それがどうしてアングロサクソンなのだろうか。

 古代ギリシア・ローマ人はケルト人のことを、長身で金髪をなびかせ、青い眼をした色白の勇猛な戦士をイメージしていた。しかし、実際に地中海沿岸部に居住したケルト人は背も低く、髪の毛も茶色や黒色の人種であったらしく、ウェールズに住む人たちも浅黒い肌に黒色の巻き毛であったという。

 ブリテン島のケルト人はカエサルに滅ぼされてローマ人と交配し、その後ブリテン島を侵略したのはアングル族、サクソン族、ジュート族というゲルマン系の三部族であり、彼らの身体的特徴は背が高く、金髪に青い眼と高い鼻であった。

 ちなみにゲルマン人は、4~5世紀に北方ヨーロッパから大量に南下してイギリス、フランスから地中海沿岸部までヨーロッパのほぼ全域を支配したが、フランスは自分たちの先祖が侵略されたので、この出来事を「ゲルマン民族の大移動」とは表現していない。日本が「ゲルマン民族の大移動」と教えるのはドイツの影響による。

 さて、イギリス人だが自分たちの先祖はケルト人ではなくアングロサクソン人だと言い張るのは、彼らの身体的特徴の違いによっている。自分たちの先祖は、背が低く浅黒いケルト人であっては困るのだ。

 イギリスの歴史を共有しようとするアメリカ人もアングロサクソン人を先祖だと信じ切っている。このことはイギリス人やアメリカ人こそが、ゲルマン人の特徴であった高身長、金髪、碧眼、そして高い鼻に強い憧れを持っていることを意味している。

 そして、その特徴を有した自分たちこそが選ばれた人間であるという錯覚が有色人種をより一層に差別する現実を作ってしまった。

 その結果、欧米列強の植民地争奪戦が21世紀の現代にまで全地球的に格差と紛争の種を残してしまっている。

 「サウィン」から「ハロウィン」へ。

 この変遷の中には一進一退する人類の歴史をみることができる。

 いま、キリスト教社会では宗教離れが進み、「無宗教」「無神論」が増えているといわれている。シェイクスピアのように死ねば土に還る、あるいは自然に還るといったキリスト教にとっては異教の考え方が、今まさに新しい宗教観として受け入れられようとしている。

 近い将来、「自然崇拝」の世の中がやってくるのかも知れない。