【寄稿】挽肉は傷みやすい

吉田真澄(67歳・会社員・東京都)

 

 スペシャル、エスタブリッシュ、VIP、セレブリティ。私が生業とする広告・マーケティング業界では、高額マンションや高級車、ジュエリーなどの市場においてこんな呪文を執拗なまでに繰り返し唱えて、商売を進めてきた。最近、このような高額品市場では、ギフテッド(天賦の才能を持つ人)という新タイプ、かつ極めて差別的なキーワードまで登場し始めている。そして、これら所得額や資産額の多寡に対応した縦軸のキーワードを、ややカジュアルに広告表現化したものが、

 

「違いのわかる人ね。」「ワンランク上の自分になろうね。」あたりになるのだろう。そしてもう一つの有力な方法論として、

 

「あなたらしく。」「私らしく。」「自分にご褒美を。」といった横軸系のベクトルが存在する。

 

 その両者に年齢、性別、学歴、職歴、出身地、家族構成、居住地、年収等の属性を掛け合わせれば、マーケティング業界で広く支持されてきたSTP戦略(Segmentation Targeting Positioning フイリップ・コトラー)の準備が整うのである。この戦略では市場やターゲットを細分化して、それぞれのポジションに対応する価値観やベネフィット(便益)が提案され、できる限り取りこぼしのないようマーケティングやプロモーションの施策が具現化されていく。

 

 前者は、消費者の垂直型の差別化欲求を満たすものであるが、後者は、それに着いていけなくなった、または、意識的にそのような価値観からのドロップアウトを試みた人々の水平型差別化欲求を満たすために用意された呪文である。誤解を恐れず、そのスタイルを象徴的に表現するなら、前者は都市部の高層マンションなどに住んでワインやシャンペンを嗜み、後者はウクレレやオカリナを片手に自分探しの旅に出かけたり、エコカルチャーや多様性カルチャーやシンプルライフ、シェアリングといった言葉に代表されるミニマル消費に自己と社会の未来を見出そうとしているかのようである。

 

 1930〜50年代の米国フォード社の少品種大量生産方式に象徴されるようなサプライサイド(供給側)主体の生産スタイルがデマンドサイド(需要側)主体に置き換わっていったのは日本では、70年代後半から80年代にかけてであった(『分衆の時代』博報堂総合生活研究所 1985年)。しかし、そんな流れが、やがてグローバル資本主義へ収斂することを予見し、最先端を走っていた当事者自らが警鐘を鳴らした、(『消費社会批判』堤清二 1995年)消費スタイルにおけるパラダイムの大転換期でもあった。ともあれ、高度情報消費社会ではこのように、縦横に消費者を細分化し、従来のマス概念で捉えきれなくなった消費性向に応えるべく、製品開発から広告、販促活動、ブランド体験に至るまで、あらゆるプロセスにおける「個性化」を指向し続けている。個性化といっても、もちろん実態は一人一人にヴィンテージものや一点物の製品を提供できるわけもなく、クルマならいくつかの仕様やデザインやパーツを選んでカスタムメイドして自分らしさを実現したり、ファッションなら同一モデルのスリーブシャツの多彩なカラーバリエーションの中から好みの一色を選んで、ジャケットやネクタイやスカーフ等とのコーディネーションによって、私ならではの、お洒落を楽しんだりする、といった慎ましく、細やかな「個性化」に過ぎないのだが……。

 そしてこの、消費者を賽の目のように切り分けて分析しようとする手法は、どこかブロック肉を切り出して何枚かにスライスし、縦横に切り刻み、自家製の挽き肉を作る行程を思い出させる。まあ、家庭で一から作るハンバーグ料理のようなものである。かくして「個性を求めて止まない人々の群れ」というパラドクシカルな画一化(マスの分割再編成)が達成されていく。こうなればもう、しめたもの。欲望は、モジュール化され、細分化された挽き肉間に生じるライフステージごとの僅かな差異をエネルギー源として自動的に再生産され、「より個性的な私にふさわしい」消費財やステータスを求めた人々による差別化と優位性をめぐる永久運動システム(学歴で勝ったが、就職で負け、年収で勝ったが、結婚で負け、子供で勝ったが、人望で負け、有料老人ホームで勝った……というような)が確立されていくのである。

 

 ところで本稿の目的は、高度情報消費社会を背景とする市場経済システムそのものを批判することにはない。筆者自身も、かつては縦横に振り回されてきた経緯のある、もはや逃れようもない、このような社会への対処法や相対化の可能性について考察していきたいのである。つまり、バラバラに分割され、肉塊から切り離されて、自由を獲得したかのように見える個人が、一粒ずつ世界と向き合うことの意味や、その危険性について論じたいのである。粒状になり、空気に触れる面積が増加した挽肉は傷みやすい。少し放置するだけで酸化が促進され、黒ずんだり、緑色がかったりたりしながら腐敗していく。同じような原理が、デジタル社会の進展によって国内ニュースから世界情勢、さらには、家族や恋人はもちろん、ごく身近な友人たちのコミュニティの状況まで、あらゆる情報に手元の端末ひとつで一瞬にしてアクセスできる現代の情報環境と私たちとの間に働いていないか、という問題について考えてみたいのだ。「いちばんの加害者が何言っているんだ!」という誹りは、甘んじて受け止めるつもりである。

 

 ご存知のように、マス生産・マス消費社会は産業革命に端を発する工業化と新聞、雑誌、ラジオ、テレビのようなマスメディアの誕生・発達を源とするものである。そして高度情報消費社会は、そこに内在する限界性とされていた「画一性」を商品ラインアップや生活スタイル提案やメディアの細分化と多様化によって克服し、前述のような個性幻想を打ち出し、もはや盤石な経済システムとして先進国を覆っている。そしてその影響力の大きさは私たちがふだん何げなく使っている「個にポイントを置いた単語」として身近に表われている。個性、勝ち組はもちろん、ハイスペック男子(女子)、自分らしさ、自己責任、自己啓発、自己スキル、自己投資、パーソナル・ブランディング……。どこか、家庭や学校の教育方針のようであり、海外留学ガイダンスのようであり、就活エントリーシートのキーワードのようであり、新入社員研修会の演題のようでもある。いずれにせよ現代社会において、それほど重要視され、支配的なテーマとなっているのである。

 

 もちろん、そんな幻想でもなければ長い人生は退屈だろうし、努力目標だって見失ってしまうだろう。しかし、冷静に考えるべきは、このように、つねに他者と自分をくらべ、より優位なポジションを獲得することによって実感できる相対的な幸せ感は、実に脆い基盤の上に立っているということである。当然のことだが、勝ち組はごくわずかである。劣位にランキングされた大多数は心に傷をうけ、鬱ぎみになったり、被害者意識を芽生えさせたり、自己啓発に夢中になったり、自己スキルアップに躍起になったり、自己責任という言葉の重みをかみしめたり、自分探しというブラックボックスの中に逃げ込んでいったりする。そして、それを待ちかまえていたかのように各種セミナー、心理カウンセリング、カルト宗教、SNS、そして、向精神薬、ドラッグなどが次々と商品化されていく。しかし、それでもなお傷の癒えない一部の者は、身体的な最後の砦であるはずの性指向性まで細分化して公表することによって商業価値化を試み、「何者かになること」への一縷の望みをつないでみたり、他者を巻き込んだ暴発的な事件を起こすことによって表面化していく。かつて「表現者クライテリオン」誌上でも、再三、話題として取り上げられた映画『ジョーカー』さながらの事件が京王線車内で現出した(2021年10月)ように、少し想像力を豊かにすれば、都市部の街路や電車内などの公共空間では、もはやどんな事件が起きても不思議ではない状態にある。

 

 こうして限りなく細分化され、同時に都市化の進展にともなって中間共同体さえ喪失し、モバイル端末を常時、携帯するようになった私たちは、メールやSNSに頼ったコミュニケーションによって対話の機会を大幅に減じさせながら、溢れるほど大量な情報に日々、個人として接触している。その結果、動物本来の四肢や体幹といった脳以外の器官や筋肉を経由した情報取得の比率を圧倒的に低下させ、モバイル端末という「移動式安楽椅子」に座ったまま、視聴覚偏重のショートカットした情報を脳に送り続けている。もはや、情報の取得は身体的負荷とは無縁のものとなってしまっている。峠を越えて山の向こう側の天気を見に行く必要はないし、咲く花の微かな香りに、季節の移ろいを読み取る必要もなくなってしまっているのである。しかし、身体感覚を喪失した情報取得行為の日常化は、石巻・大川小学校のような悲劇(2011年の東北大震災時に宮城県石巻市を襲った大津波によって全校生徒108人の7割に当たる74人が死亡・行方不明。津波襲来まで40分ほどの時間があったにも関わらず、教師たちは、足場が悪いことを判断理由に、わずか5分で避難可能だった裏山への避難・誘導を選択せず、校舎から200メートル西側の新北上大橋のたもと方面へ誘導。一方、途中まで誘導に従っていたが、背後に迫った津波に、来た道を走り戻って裏山へ駆け上った只野哲也さん(小学五年生・当時)が生存者となり、事件後「奇跡の小学生」などと呼ばれ、メディアで盛んに取り上げられた。)を招来する。猶予時間の大半を情報収集や話し合いに費やした教師たちには、大海原から入江、北上川へと遡上する水が、導水路が狭くなるにつれ、急激に水嵩を増すことを想像する力さえなくなってしまっていたのである。大体、津波からの避難場所が、なぜ導水路沿いの「橋のたもと」になってしまうのだろう。

 

 メディアやスマートフォン等などを経由して絶えず流されてくる情報やトレンドを頼りに、他の誰かと自らの幸せ度を比較して、自分のポジションを確認する、いわば「相対的幸福度比較社会」は、その縦横問わず、差異化の原理にもとづいている。つねに他人をだし抜き、人々から離れ、(しかし、比較対象が必要なため、離れ切ることもできず)周囲やおなじ組織にいる人々の様子を窺い、比較し、一喜一憂する。さらには、コミュニティからの離脱を試みる者をストーカーのようにつけ回したり、酷いバッシングを浴びせようとさえする。

 彼らは、孤高の思索や、波乱に満ちた人生経験や、ハードな身体的鍛錬や、自然との対話や、書物や芸術との格闘などからゆっくりとアイデンティティが醸成されていく時間を待つことができない。いきなり他人の手鏡を奪い取り、そこに映っている自画像を盗み見ることによってアイデンティティを確認しようとするのである。それは、話題のラーメン店やスイーツ店に行列をつくり、商品を目の前にした瞬間に「写真ほどじゃないのね」などと不平を漏らす消費者の姿と重なる。ラーメン店やスイーツ店ならまだ取るに足らない話かもしれない。しかし同様の認識構造の歪みは、原発安全神話という物語の範囲内でのみ議論を進め、最も基本的な安全対策(例えば、電源を高台に敷設すること等)さえ怠って招来してしまった過去の大惨事にも見て取れるのである。もはや、価値基準は仮想現実の側にあり、現実や実在は、その確認手段へと堕してしまっているかのようである。そしてこの倒錯は今、かつてないほど危険な水域にまで達してしまっているように思われるのである。

 

 あのダーウィンが『種の起源』(1859年)で説いた「最適者生存理論」は、社会学、経済学等の権威を通じて「個の競争」による「淘汰」を前提とした経済思想となっていった。そうしてできあがった経済社会は当然のことながら、「個」の論理に貫かれている。そしてそこに足を踏み入れる者のうち、ごく少数は「個」として成功の喜びをつかみ、大多数は「個」に傷をうけ、ある者はその修復、精神的な合理化、またある者はリベンジに人生を捧げることになる。どんなに新しい時代が訪れようと、何かすっきりせず、視界も見わたせず、つねに、蹴落とされ、だし抜かれるのではという不安を抱き、見えない何かにコントロールされているような感覚。その理由は、おそらく大量情報による「個別化」と「差異化」の果てに我々がほぼ、全員参加でつくりだしているこの「相対的幸せ度比較社会」にあるのではないだろうか。いわば、特定の教祖さまがいない(みんなが教祖ですから)洗脳社会なのである。そして、この「淘汰一神教」とでもいうべきものが、グローバリズムの進展とともに先進諸国に広がり続けているのである。たとえば、筆者は、大切な友人や家族の中にもその影を見つけることがある。正直に言おう、私自身の中にも潜んでいるのだ。まるで、無間地獄のようである。

 もちろん、経済における競争は一定の公正を実現する有力な手段である。だからといって、個人までが競争の結果を「固定的なもの」として受け入れる必要なんてまったくないのである。競争に疲れたら降りることもできるし、しばらくしてまた何かにチャレンジしてもいい。優位性なんて時とともに移ろうものなのだ。しかし、淘汰は、この可逆性や可変性に秘められたゆたかさを否定する、(なんてたって相手が消えちゃうわけですから……もう競争さえできません)きわめてプアで静止的な概念であることに気づくべきである。

 

 脱出への手がかりは……。

 

 それは「同化」する喜びの復権なのではないのだろうか。人と人、人と社会、人と自然、人と創作物、人と生物、人と風土…。これまで「差異化」に追いやられ、有機と無機という壁に阻まれ、矮小化されてきたコミュニケーションの豊穣さを取り戻し、「同化の喜び」に光をあててみるのである。そして、その中に眠っているはずの「同化がもたらしてくれるケタちがいの喜び」に身をゆだねてみるのだ。その喜びは「震えるような快感」であったり「満ちてくるような横溢感」であったり「痺れるような高揚感」であったり「死の淵にたたずんでいるような静謐感」であるのかもしれない。なにも、某ミュージシャンのようにセックスやドラッグへの耽溺に賭けよう、と言っているのではない。むしろ必要なのは、ふだんの生活に根ざした「同化の喜び」なのである。何でもない一日の中にその喜びを取り戻したときにはじめて挽肉は、肉本来の統一感を取り戻し、我々はこの「相対的幸せ度比較社会」があたえる、あの不完全で、貧弱で、チンケな喜びから解放されるのではないだろうか。