【寄稿】「日本らしさ」考

守口(無職・埼玉県)

 

 日本人は宗教に関しては無頓着な者が圧倒的に多い。冠婚葬祭は何らかの宗教に則って行うものの特定宗教へのこだわりはない。キリスト教にしろ仏教にしろ新興の教団であるほど熱心な布教活動が行われているようだが、大多数の日本人はそれらに対して一歩も二歩も距離を置いている。端的に言って、ほとんどの日本人は自分は無宗教と自認しているのではないか。

 宗教を持たず何らかの戒律にも無頓着であるにもかかわらず、日本の社会が無秩序で危険であるわけではない。世界標準からみえればむしろ評価は逆であるようだ。日本は安心・安全な国の筆頭に挙げられることもある。

大多数の者が無宗教と自認している日本人を支えるもの、その精神を支えるものとは一体いかなるものなのか。

 

 日本という集団や個人の「らしさ」に関する論説はいろいろある。

 岸田秀は精神分析を下敷きに、人間だけが「時間」を持ち、その時間の経過の中で味わう屈辱感や高揚感によって自我のかたちが決定づけられるとする。そして、誇りある内的自己と他者との協調を図る外的自己の有機的統一を失いどちらかが突出しがちな精神分裂気味の日本人の「らしさ」を明らかにしている。

 内田樹は日本の地政学的立ち位置から、いつもどこかに先進的なるものがあると思い込んでいる、その“辺境性”を日本の「らしさ」として指摘している。

 また、和辻哲郎は、日本列島が置かれているモンスーン的風土、さらに毎年激しい台風に見舞われる自然環境から、日本人の「らしさ」の特徴として「受容性」と「忍従性」を挙げ、それらに由来する「家」などの社会制度や「武士道」などの道徳思想を説明している。

 これらの「らしさ」の説明はわが身を振り返ってみて説得力を感じるものの、ではなぜ日本人が宗教に関して無頓着なのかがストレートには伝わってこない。一体日本人の固有の精神性を支えるものは何なのであろうか、

 

 最近NHKの『英雄たちの選択』で安倍清明を取り上げていた。そのなかで作家の夢枕漠が、清明がカリスマ化された(=陰陽道が確立された)理由として、その背景に万物に魂が宿っているとする縄文以来の日本人の精神性を挙げていた。つまり、清明が確立したとされる陰陽道とは、魂が宿る万物によって作られる世界、つまりアニミズムを前提として、それに操作性を付与することによって日本人にふさわしい規範の在り方を体系化、明文化したということのようだ。つまり、陰陽道はキリスト教や孔子の教えなどとは異なる日本固有の「宗教」と言っていい。儒教、仏教が移入されるなかで、それらをいまひとつ素直に受け入れられない日本人のために編み出された「宗教」が陰陽道だったのではないか。平安後期から明治初頭まで、陰陽道は公的機関で管理されつづけたのも納得できる。近代に入って陰陽道は表舞台から姿を消したが、いまでも神社のオミクジのようなかたちで隠然と広く受け入れつづけているのは周知の事実である。

 

 終戦直後の私の子供のころ、日本は古代からアニミズムが信じられ、そういう迷信に支配されつづけてきたのが日本という国と教えられたことを覚えている。戦勝国がキリスト教国だったこともあり、それを教える側も教えられる側もどこかでそういう迷信にいまだ支配されている日本の後進性を示唆するものとして違和感なく受け入れていたような気がする。

 文化に優劣などないという文化相対主義が定着してきた昨今では、それぞれの民族を支える精神性について等身大の議論が行われるようになってきた。

 言語学の知見によれば、われわれ人間はそれぞれの言語、母語によって世界を認識している。例えば、「ものがなしい」「うらさびしい」という事態は、そういう日本語を持っている日本人にしか認識できない。われわれ日本人にとっての現実世界は日本語でしか説明できないということだ。だから同じ文脈で、万物に霊が宿ると考える日本では現実世界をあぶりだす言葉にも霊が宿っており不吉なことを言葉にして発するとそれが現実化してしまうと考える言霊信仰がいまでもあると指摘する向きもある。

 

 日本人が無意識にしろ受け入れているアニミズムとは、人間を含む自然界の万物には霊が宿っているとするもの。それはまたあるがままの自然界はそのまま受け入れるべきものという感性につながる。自然界の万物には霊が宿っていればこそ、万物でつくられる自然界にはそのまま受け入れるべき秩序があるということになる。無意識にしろそういう感性を持つ日本人は、絶対神などを想定しなくとも自然界にはあらかじめ秩序が見える。少なくとも現実世界の秩序は超越者や支配者から与えられるものではない。

 前述の和辻が言う「受容性」のなかに“現実世界をあるがままに認める”心性、感性を認めてこそ日本人の「らしさ」が見えてくるように私には思われる。

 その意味で、NHKの番組のなかでの夢枕獏の指摘はわれわれわれ日本人の精神性を考える上でより本質的のように思える。

 日本人にとって万物でつくられる自然界にはそのまま受け入れるべき秩序があるから、人工的な世界に発生する無秩序は秩序あるものに直さなければならない。サッカーのサポーターが試合後ゴミを拾って元のきれいな状態に戻す行為が注目されているが、別に日本人の民度が高いわけではない。自分を取り巻く外界は秩序あるものでなければならないと思っているという固有の精神性に由来するものなのではないか。

 人間同士がつくる世界にも秩序があるのが当然のこと。誰に言われなくとも人間がつくる世界にはあらかじめ秩序があるべきものと思っている。その人間がつくる秩序ある世界を昔から日本人は「世間」と呼んできた。自らの行動規範は絶対神の教えを受け入れて身につけるのではなく、「世間」に受け入れられるか否かで誰に教わるでもなく自らの行動を律してきた。世間を根底で支えるその精神性は縄文時代から継承されてきた「アニミズム」信仰なのではないか。オミクジに一喜一憂する日本人の心性は日本人にとってアニミズム信仰が生き続けている証拠なのではないか。

 

 日本人の「らしさ」(集団的自我)は例えば大戦の敗北のような屈辱的な出来事によってつくられていることは間違いないし、そのことを冷静に自覚することは大事だが、それだけが日本人の「らしさ」を決めているわけではない。その根底にある精神性にこそ「らしさ」を理解する鍵がある。

 自由、平等、人権が声高に叫ばれひたすら人間や個人に価値を置く近代思想にどっぷり浸かっているわれわれ現代人である。「家」の存在感は薄れ伝統的な家族制度も大きく変わってきていると言われる昨今である。しかし日本の「らしさ」に微塵の変貌も見られない。理由は簡単だ。われわれ日本人に見える現実世界、その見え方が変わらないからである。

 

 どんな宗教もそれを信じられない者にとっては「迷信」である。また、近代思想や近代の価値も元を正せばキリスト教の神の権威が揺らいだところから始まった。だから人間中心、個人中心なのだ。それらに普遍的な価値があるわけではない。

 世の中の変化の著しい昨今であればこそ、日本文化の優劣などをただ気にするのではではなくあくまで価値中立的に、日本人としての己れを知るために、あらためて縄文以来の自らの底堅い精神性、われわれにしか見えない固有の現実世界に虚心に目を向けていきたいところである。