「高貴」や「気高さ」といった美しい言葉が、世上の人々から忘れられて久しい。中河與一の『天の夕顔』は、このような時代だからこそ読み返されるべき作品ではなかろうか。これまで浪漫主義文学の名作と評されてきたが、別の視点からも読まれる必要があると私は考える。
「頑丈な体格」を持ち「軍人のような規律と厳重さとを好」む「わたくし」が両想いになった、七歳年上の「あの人」は、人妻であった。しかし二人は、作中で触れられる『アンナ・カレーニナ』や『ボヴァリー夫人』のような、「頽廃」の関係に陥らない。「あの人」は「わたくし」を恋うる心と葛藤しながらも、貞淑を貫こうと「堅い決意」を持って「わたくし」を拒み続ける。この威厳に満ちた態度こそが、「わたくし」のなかで「あの人」を神格化させ、二十年以上に渡り恋を持続させるという逆説を生むのである。
妻とは別に愛する女からの追跡に苦しみ、外国に逃れていた「あの人」の夫と、意にそぐわぬ結婚をしたものの、肋膜になった妻の介抱に疲れはて、実家に連れていき別れる「わたくし」。二人は関係を持った女性から逃げるという点において、表裏一体の存在である。私はここに、切ない運命のかけ違いを見る。後段で触れる場面において「わたくし」は「あの人」に「前世の宿縁のようなものを感じ」、また別の場面では、俊成の「夢さめむ後の世までの思ひ出に語るばかりも澄める月かな」の一首が引かれる。「あの人」と「わたくし」は、何度も生まれ変わっては惹かれ合い、はるか遠い「後の世」にて結ばれているのかもしれない。
私が最も感銘を受けたのは第四章、「あの人」と再会した「わたくし」が毎度のごとく想いを伝えたところ、「あの人」から次のような剛毅な返事を聞く場面である。「たとえ、わたくしは、この首が飛んでも、もうこの決心を動かそうとは存じません」。すると「あの人」へ抱いていた恨めしい気持ちは深い哀しみへと変換され、「お互いの心が、ありありと互いに読まれていること」に気づく。「あの人」は「わたくし」の怒りを感じ取りながらも、己の内に秘めたる苦悶にじっと耐えていたのだった。岡潔が「情緒」という言葉を用いて論じた、この瞑想的な心持ちにあっては、余計な言葉は無粋である。岡は、情的な理解が知的な理解に先立っており、後者の前提になると考えた。「対象」といった精神における自他の分断のない、自分と自然の「情緒」の一体化を経てはじめて、自分は自然を認識できる。喜怒哀楽の淀みを退け、関心を一箇所に集中させる三昧の境地を介して、ようやく自然のもつ「情緒」の姿がありありと見えてくるのだという。この思想は、「あの人」の葛藤を察するまでの「わたくし」の心の機微を見事に説明している。紙幅の都合上ここでは詳述できないが、ベルクソンのいう「直観」やハイデガーの「先了解」、西田幾多郎の「純粋経験」に類似した発想である。また、この場面の以心伝心のありようは、杉本鉞子『武士の娘』に描かれていた心の通じ合う武士の一家の姿とも通ずる。これらのような日本的な心性は、『天の夕顔』が書かれた当時、すでに危機に瀕していたのかもしれない。
二人が緊張を保ちながら向かい合う始終は、能楽のシテとワキの構図を思わせる。「あの人」が主役のシテ、「わたくし」はワキである。能楽の持つ形而上への志向と、キリスト教的な精神が結びついている。トルストイの書いた『アンナ・カレーニナ』の名が挙げられるのだから、キリスト教の影響は確実であろう。ただしゲーテへの言及があるのを考えると、正統の教義よりも女性性への信仰の側面が色濃い。「わたくし」は後に、もう若くない「あの人」の容姿について触れ、「すべて見えるものは、見えないものの崇高を証明するための存在でしかなかったのです」と述べる。この表現は、「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず」(『ファウスト』高橋義孝訳)の言い換えとしか考えられない。「あの人」は「永遠に女性的なるもの」の象徴なのである。ただしこれまで見てきたような美意識は、精神の化粧にすぎないという、政治からの謗りをまぬがれないだろう。
読みとるべき要素はそれだけではない。「今となっては運命の摂理に任せることだけを考えておりますの」。「わたくし」を拒む、「あの人」の台詞である。私は摂理という言葉から、二人の思想家を思い浮かべた。一人は民主主義を神の摂理とし、左右両翼の調停を図ったアレクシ・ド・トクヴィル。もう一人は、フランス革命に神の摂理を見たジョゼフ・ド・メーストルである。メーストルは革命を、無神論に傾いた人間の原罪への裁断と解釈し、王党派による共和政への反乱を、神の意思に反して秩序をみだす、さらなる革命として批判した。秩序という政治は、非政治としての神学によって支えられるのである。
「あの人」の貞淑を重んじる価値観は、予め pre の判断 judice としての偏見 prejudice に他ならない。この小説が書かれてから約九十年後の未来を生きる我々は、性のみならず恋愛「そのもの」の商品化(マッチングアプリなど)という、自由恋愛の畏怖すべき「崇高」な成果を知っている——近代美学の古典『崇高と美の観念の起源』においてエドマンド・バークは、崇高を権力の変形として論じた。大衆社会という、もはや制御不可能な化け物と対峙する時、人は過去に蓄積された経験を参照せずにはいられない。未来に希望をたくすことはできても、何かを学びとることはできないのだから。
『天の夕顔』の美意識と表裏一体になり、支え合っている精神は、単なるキリスト教ではなく、摂理主義という、経験に基くプラグマティックな思考だった。この場面においては確かに、「わたくし」の叶わぬ想いは、神に祝福されていたのである。二人の忍ぶ恋は、否定することのできぬ経験された事実であった。
「わたくし」は四章で「あの人」に拒まれた後、己の孤独な運命を甘受しようと考え、山籠りの生活を始める。とある冬の日、彼は「天の音楽」のような小鳥たちの鳴き声を聞く。しばらく見上げて観察した後、何を考えたのか、銃を手に取り上に向けて発砲すると、足もとに「三羽ほど落ちてきた」。キリスト教圏において、鳥は聖霊の象徴とされる。三の数字は三位一体を表していると見ていいだろう。
降り積もる新雪のなか、「話しかける人もなく、見るものもない」「わたくし」は、次第に心の奥底にある「あの人」への思いを反芻するばかりになる。その憧れは、「あの人」の死への恐怖と表裏一体である。ここにおける死の観念は決して唐突ではない、「わたくし」はまだ、自分が何を撃ち殺したのか気づかずにいる。
やがて冬を越えた「わたくし」は待ちきれなくなり、下山し「あの人」とのつかの間の幸福な再会を果たす。「あの人」の背後の「見えないものの崇高」への言及はこの場面である。「五年たったら、おいでになっても、ようございますわ」。「あの人」のこの言葉は果たしてどのような意味なのか。彼女の家の壁には短冊がかかっており、前段で触れた俊成の和歌が記されている。彼女の心はもはや、「後の世」にあるようだ。
再び「北アルプスの峰々」に登る「わたくし」は、「無縁鳥」のか細く「ピーピーピー……と陰にこもった断腸の思い」を聞く。「心には何か明るいものがあ」ったと語られるが、この挿話は彼の行く末に不穏な影を落としている。「あの人」を待ち続けるなか「自分の運命など決して不幸どころではない」、「むしろわたくしは今までの神の意志に対して感謝しなければならない」と、摂理主義に接近するが、あまりにも遅すぎる気づきであった。
「無縁鳥」の正体が明らかになるのは、約束から五年が経とうとするまさにその前日のことだった。山を降りていた「わたくし」は、「あの人」からの「末期の思いで書いた悲しい手紙を受取った」のだ。老いの片鱗を見せ母親の容姿に近づいていた「あの人」は、自らの死によって物語の円環を閉じる(二人の出逢うきっかけは「あの人」の母の葬式であった)。「わたくし」は若き日の「あの人」が夕顔の花を摘んでいたことを思い返し、花火を打ち上げることで夜空に「天の夕顔」を咲かせるのだった。
「差異」を大胆に肯定するフランス現代思想による既存の「正しさ」の解体と、インターネットの構造が人々に強いる他人の揚げ足取り。大衆の「差異」化ゲームは加速し、「相対主義の泥沼」(福田恆存)は悪化の一途を辿っている。しかし我々が生きるのは、個性のためでも、快楽のためでもない。幸福のためでさえもない。岡潔は文化勲章を受賞した時、天皇に数学とはどのような学問かと尋ねられ、「生命の燃焼であります」と答えたという。
このような時代において精神の均衡を保つためには、プラグマティックな思考のみならず、絶対への志向をも死守せねばならない。摂理主義はこの両者の条件を満たしている。天上の理想を追い続ける『天の夕顔』の精神は、大衆社会への華麗なる反逆と言えよう。さて、では我々現代人の生活になじんだ美徳とは、摂理とは、果たして何なのであろうか。
林 文寿(岐阜支部・NPO法人職員)
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清水 一雄(東京支部)
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長谷川 正之(信州支部・経営コンサルタント)
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富加見絹子(45歳、ギリシア、翻訳家)
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前田健太郎(50歳・東京都)
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小野耕質()
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髙江啓祐(中学校教諭・38歳・岐阜県)
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火野佑亮(奈良県、26歳、フリーター)
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織部好み(東京支部)
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北澤孝典(農家・信州支部)
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