日本を愛するために山に登れ――知られざる日本人、志賀重昂

小野耕質

 

  • 戦前のベストセラー、『日本風景論』

明治時代、十五刷にまで版を重ねたベストセラーがあった。その名は『日本風景論』。著者は志賀重昂。現代でも岩波文庫や講談社学術文庫で復刊されているが、『日本風景論』の名も志賀重昂の名も、もはやさほど知られていない。

だが、「日本の山」といって富士山を連想するのも、四季の豊かさを日本の特徴と考えるのも、『日本風景論』のヒットを抜きにして考えることはできない。『日本風景論』は、日本人の景観意識を一変させるとともに、日本の近代登山の先駆けとなった本でもあるのだ。本稿では『日本風景論』の内容を紹介するとともに、著者志賀重昂の人生と思想を論じていきたい。

 

  • 三河産まれ、札幌農学校育ち、欧州植民地支配に義憤

志賀重昂は文久三年(一八六三年)、三河の岡崎に生まれた。父重職は岡崎藩の儒者であった。大学予備門に進んだのち、明治十三年(一八八〇年)に札幌農学校に転じる(四期生)。札幌農学校の三学年上には内村鑑三がいる。札幌農学校は、初代教頭クラークの方針により、厳格なキリスト教教育が行われていた。そのため、卒業生には二期生内村鑑三や新渡戸稲造など、日本のキリスト教徒の代表的人物がいるが、志賀においてはキリスト教の影響はあまり見られない。

札幌農学校卒業後は、学校教員を務めていたが、県令とのトラブルにより離職し、上京する。明治十七年(一八八四年)、「筑波」に乗り込み領土問題で緊張していた対馬周辺を視察したことが転機となる。明治十九年(一八八六年)、再び筑波に乗り込み、カロリン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイ諸島などの南太平洋諸島をめぐり、欧米列強の植民地支配の脅威をまざまざとみた。その内容を『南洋時事』にまとめ、世に訴える。

その後、同人らと明治二十一年(一八八八年)に三宅雪嶺、杉浦重剛らと政教社を結成。雑誌『日本人』を発行した。国粋主義を標榜し、文明開化などと西洋のまねごとをしようとする当時の日本社会を鋭く批判し、西洋の優れた面は受け入れつつも、日本の伝統を尊重すべきであることを主張した。政教社の初期の論調は志賀がリードしていた感がある。

この時期の志賀の議論を見てみよう。

志賀は「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」で、「西洋の開化を悉く是れ根抜して日本国土に移植せんとするも、此植物は能く日本国土の囲外物と化学的反応とに風化して、太だ成長発達し得べき乎」という疑問をぶつけたうえで、「日本の国粋を能ふ丈け成長発育せしむるの太だ経済的なるに若かざるなり」と主張した。

西洋のものをそのまま日本に移植してもうまくいくだろうか。それよりも日本のよいところを伸ばしていくのが効率的ではないか、という意味である。海外の事例を参考にしつつ日本の良いところを伸ばすべきだというのが国粋主義者の主張なのである。

同論文で志賀は、「予輩は「国粋保存」の至理至義なるを確信す。故に日本の宗教、徳教、教育、美術、政治、生産の制度を撰択せんにも、亦「国粋保存」の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非ず、只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也」と述べている。

西洋文明をただ移植するのではなく、日本文化を鑑み、日本の良いところをより伸ばしていく視点で受け入れなくてはならないと説いている。西洋文明を良く消化しなくてはならないと説く志賀の議論は、各国の文化が独立していることを前提にし、文化の優劣を認めない発想と言えるだろう。

このように志賀は、日本列島を囲む地理、風土、気候、動植物といった外的な感化と、日本民族の習慣、歴史によって国粋が形成されてきたと論じている。志賀のこうした考えが、後の『日本風景論』に結実するのである。

 

  • 水蒸気と火山の国、日本――『日本風景論』

明治二十七年(一八九四年)、日清戦争勃発から三か月後、志賀は政教社から一冊の冊子を刊行する。それが『日本風景論』だ。『日本風景論』は後に文武堂に版を移し、ナショナリズム勃興の時代を背景にベストセラーとなった。

志賀は『日本風景論』で日本風景の特色を水蒸気や火山が豊富なことにおいた。水蒸気と火山がもたらす豊富なミネラル分は豊かな海を作り、海産物を発達させた。そしてそうした自然の恵みに感謝する信仰が生み出されたのである。そのうえで、志賀は日本がいかに自然がすばらしい国であるかを、和歌などを豊富に引用しながら論じた。曰く、日本は春や秋が美しく欧米や中国・朝鮮に引けを取らない、多様な気候の元で多様な生物や昆虫・鳥が育っている、松を愛し逆境に屈しない国民精神を表している…。そして日本列島のそれぞれの山々を北から南まで紹介し、日本の自然の豊かさを全身で感じるため登山をすべきだと論じる。その議論はまとまりがあるとは言いがたいが、とにかく日本の自然はすばらしく、日本人はそれを全身で感じるべきであるという情熱が全編にわたってみなぎっている。

志賀は日本の風土がいかに優れているかを証明しようとした。志賀が特に強調した日本の自然美の一つに富士山がある。志賀は富士を「名山中の名山」と評し、日本ばかりでなく海外からも賞賛されていることを紹介している。「竹取物語」を引くまでもなく富士山は無論古来より霊峰であったのだが、「日本の山」として認知されるに至るのは志賀の功績も大きいといえよう。

そんな『日本風景論』には以下のような一節がある。

 

神社、仏閣の樹木は、古来伐採を禁止せるを以て、いよいよますます暢茂し、自ら山林保護法を実際に励行し来る。

 

明治時代の人物でも山林の重要性がわかっていたのだ。それはいわゆる環境問題にとどまるのではなく、「水蒸気多量」なることが日本のナショナリティを作るとしていた側面とも森林は積極的に絡んでくることも自覚されていた。さらに志賀は以下のように結論する。

 

近年人情醨薄、ひたすら目前の小利小功に汲々とし、竟に遥遠の大事宏図を遺却し、あるいは森林を伐採し、あるいは「名木」、「神木」を斬り、あるいは花竹を薪となし、あるいは古城断礎を毀し、あるいは「道祖神」の石碣を橋梁に用ひ、あるいは湖水を涸乾し、あるいは鶴類を捕獲しつくし、以て日本の風景を残賊する若干ぞ、かつや名所旧跡の破壊は歴史観念の聯合を破壊し、国を挙げて赤裸々たらしめんとす。

 

志賀は自然と信仰とが結びつく世界観を持っていた人物であった。

 

浅羽道明は『ナショナリズム』で、志賀重昂『日本風景論』を使って国土、国民が運命共同体であるという物語が作り上げられたことを論じた。浅羽が言うように、志賀は確かに日本の風景を「夜郎自大」に誇っていたが、それは国籍のない客観的分析として誇っていたのではなく、一人の日本人として日本の風景に誇りを感じるという自己表現でもあった。ただし、志賀のほうも、「日本人が日本江山の洵美をいふは、何ぞ啻にそのわが郷にあるを以てならんや、実に絶対上、日本江山の洵美なるものあるを以てのみ。外邦の客、皆日本を以て宛然現世界における極楽土となし、低徊措く能はず、自ら 花より明くる三芳野の春の曙みわたせば もろこし人も高麗人も大和心になりぬべし 頼山陽 の所あらしむ」と、「日本人だから日本の風景に美を感じる」という側面を自ら拒否して、「日本の風景は、日本人でなくとも世界的に素晴らしいものだ」と言いたがるところがあった。明治の国粋主義は、日本を国際的に位置付けなければどうしても気が済まない側面があった。それは日本の独立、存亡すら危うかった時代の不安、危機感の裏返しでもある。日本の美は「絶対的」に美であるはずなのに、外国人の評価を気にしないではいられない心情が隠されている。和歌などの文学作品を豊富に引用し、日本にはすばらしい自然があり、日本人はその自然を愛好してきたのだと強調する。

内村鑑三はそんな志賀の議論を受けて、日本の風景は「園芸的」「公園的」美に過ぎないではないかと批判し、外国の「偉大な美」には及ばないと論じている。その内村は『地人論』で地理と文化の関連を論じているが、それは、日本に引き付けたものというよりは第三者的分析に終始した博物趣味的なところがあった。むしろ日本に引き付けたのは志賀重昂の『日本風景論』であった。志賀は『日本風景論』で、古典文学からさまざまな引用をしつつ、それを地理的特徴と結びつけることで日本的なものとして論じた。さきほども述べた通り、『日本風景論』は、日本の山々の特徴を述べたかと思えば登山を奨励し、日本の風景保護を訴えるようなまとまりのなさを抱えた本である。だが、『日本風景論』からは統一的な主張はよくわからないがとにかく志賀が日本の風景を大事にしていることは伝わってくる。志賀は理知的に語っているつもりなのだろうが、結局は理知よりも人の情に訴えるところが強い。内村の『地人論』の方が実証的かもしれないが、『日本風景論』ほど読者をひきつけるものをもたない。日本に暮らす日本人だからこそ当然のものとしてあえて意識してこなかった自然。それを意識していくんだ、日本はすばらしいのだという、いままでになかった愛国的自意識が表明されている。志賀を批判している内村も、「批評家の任として(志賀への批判に)触れざるを得ないが、志賀の愛国の情は高く評価する」という調子であった。

 

  • 『日本風景論』後の志賀

『日本風景論』がヒットした後の志賀は、政教社等の言論活動からは一線を引き、実際の政治活動に参画していった。明治三十一年(一八九八年)、志賀は第一次大隈重信内閣の外務省勅任参与官となり、南鳥島の日本領土化に尽力した。また、明治三十五年(一九〇二年)には、政友会から立候補して衆議院議員になった。その後、明治三十七年(一九〇四年)には落選し、日本各地や世界を周遊し、知見を深めた。

志賀重昂の最後の著書は、大正十五年(一九二六年)に著した『知られざる国々』である。同書中では南アフリカについても言及されているが、そこでは白人による人種差別に憤り、これからは白人主義を打破し、民族の無差別、人種平等を実現する世界改造が急務であると説いた。志賀は、若き日の「筑波」便乗によって体験した欧米植民地支配への憤りを最後まで持っていたのである。

 

  • まとめ

志賀は日本人は自らの国土の美しさを知り、誇り高き日本の風土を守るために尽力しなければならないと考えた。日本における高温多湿の風土、そして台風に代表される自然災害の多さは、日本人に自然と共生する世界観をもたらした。雨の多さは水の清潔さと多さをもたらした。そうした日本の自然を感得する最良の手段は登山であり、山に登ることで日本の風景を全身で感じることが必要だと考えた。

 志賀をはじめとする明治国粋主義者たちはナショナリストであると同時にアジア主義者であった。なぜなら日本人の信仰も美意識も、アジアと無縁に存在しないからである。西洋植民地支配に対抗するために、日本精神を自覚する。そうすると日本精神の源流にアジア文明があることに気づく。国粋主義はナショナリズムで、アジア主義はブロック化やグローバリズムに近いというのは大きな誤解である。日本精神を追求した先にアジア主義があるのだ。

昭和二年(一九二七年)、志賀は六十三歳で没した。墓は杉並区下高井戸の宗源寺にあるが、現岡崎市の東公園内にも墓が作られている。岡崎市の志賀の墓は、純インド様式の「スツーパ」によって作られた珍しいものとなっており、志賀のアジアへの情熱が感じられる。