私が学んでいる大東流合気柔術という古武術では、「力を抜け」ということを口を酸っぱくして教えられる。例えば敵に腕を掴まれたとき、腕の力でそれに抵抗すると、敵もその力に負けまいと力を入れて膠着してしまう。ところが、適切に力を抜き、全身を協調して動かすと、その方が力を「入れた」ときよりも力が「出て」、(ここが重要なのだが)その力が相手に「伝わり」、技をかけることができるのである。
伝統や秩序が現在進行形で溶解している社会の中で、その溶解に自覚的でかつ危機感を覚えている「我々」は、改めてクライテリオンを構築し、実践し、伝播していかなくてはならない―これが表現者クライテリオン創刊号を読んだ私の「自覚」の要約であるが、その自覚とともに想起したのが上記、合気のコツのようなものだった。つまり、読者であるこの私が「我々」の一員として戦い得るとするならば、社会や思想をめぐる特定の言葉やトピック、事象に囚われてあれこれ考えたり発信したりする(=部分に力を入れる)よりも、まずは生きていることそれ自体が命がけなのだということに気付き、その気付きを忘れぬまま自然に「生きる」(=全身を協調して動かす)こと、そういう戦い方なのではないかと直観したのである。
それは要すれば、日々、生活者として(深い意味での)「常識」に則った振る舞い方をするということ、これに尽きるだろう。常識の意図するところが滅多に伝わらなくなっているのがこの社会なのだとすれば、それはドゴール流のやせ我慢を伴うものであろうし、プラグマティズムの観点からもどかしさを感じることも多いだろう。ただ、それでもなお、そのような日々の生活者としての実践だけが、「保存」ではなく「持続」と呼べるような「生きた」保守につながるのではないか。
そしてそのような実践を通じて生まれてくる「常識」的な言葉こそが、我々がまだ見つけられていない、知識人と生活者とをつなぐ言葉なのではないか。想像するに、それは平易で、当たり前で、しかしそれが「届く」人たちにとっては生きていく上でとても大切な言葉たちであろう。そして、もちろんその言葉はまた次の実践を生むだろう。私は、その言葉と実践の循環の中にいる一人の平凡な常識人でいたいと願う。
これが、私が「表現者クライテリオン 創刊号」(及び編集委員の先生方によるメルマガ)から学んだ、志すべき生き方の仮回答である。
もちろん、生きている「この私」はまさに生きることを通じてこの仮回答を随時修正していくだろう。それをクライテリオンの構築と実践と呼ぶのだとすれば、私にとって最も難しいのは、その伝播ということになる。自分に何ができるのかと自問すると、その答えは甚だ心許ないが、せめてこの春から小学三年生になる一人息子にくらいは、父親の背中を通じて何かを伝えられたら、と思っている。
織部好み(東京支部)
2025.01.21
北澤孝典(農家・信州支部)
2025.01.21
加藤達郎(教師・信州支部)
2025.01.21
鈴木郁子(71歳・主婦・神奈川県)
2025.01.21
田中善積(68歳・社会評論家・東京都)
2025.01.21
髙江啓祐(37歳・公立中学校教諭・岐阜県)
2024.12.02
髙平伸暁(37歳・会社員・大阪府)
2024.12.02
塚本嵐士(22歳・学生・東京都)
2024.12.02
農家のおじさん(29歳・自営業)
2024.11.28
日髙光(41歳・会社員・東京都)
2024.11.28