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文化の息づくところ

小幡敏也(沖縄県・26歳・公務員)

 

 諸外国の映像などを眺めていると思うのだが、そこに生きる人間というものが実に生き生きとしていて、例えば普段莞爾として笑っていても、押っ取り刀で銃をとってゲリラにでもなんでもなれる様な、人間の生き物としての逞しさが垣間見えることがある。これは私が実際に幾つかの国々、とりわけ南アジアや中近東において肌で感じたものとよく符号する。そしてそこには、これこそが人間の本来の在り方に近いのだなと有無を言わさず理会させる力がある。

 然るに、現代文明に覆い隠されているとはいえ、人というものは大地に小屋を建て、食べ物を採り、水を汲んで命をつなぐものであり、そういう牧歌的な性格はいかに文明機構で希釈したところでどこかに残るものであり、それが上で述べたような地域では比較的露わな形で表出しているのだと思う。

 であるからして、そういう汗と脂の鼻をつくにおい、ナマモノの悪臭が鼻腔を図々しく、そして親しげに満たしている生活の様式、即ち文化というものは、人々の暮らしの中に浸潤として息づいていなければ絶対に嘘である。何故ならば、その性格を押し殺したところに人は虚偽の生活しか築けず、自己否定の力は我々の生自体を圧殺してしまうからである。

 これにつき、真面目で優しい父が集落の中である種の犯罪的集団に繋がる係累を持っている、というのは文化である。村の外れに子供の近づけない場所がある、川に橋がかからぬ場所があるというのは、これらもまたすべて文化である。文化とはかように猥雑で俗悪で、目をそむけたくなるようなものだ。それ故に人は乱れを愛すると同時に、これを憎むことも出来る。正しい社会というのはこの理解が前提に無ければ決して望めないのである。

 ところで、人はどこまでいっても孤独なもので、家族や仲間を得てその日々の頼りなさを遠ざけ、不安を減ずることはなし得ても、我々は常にその頼りなさに脅かされていることを忘れてはならない。であるからこそ、人はその周りに生活の様式としての文化を育むのである。それは我々にとって心安く生きる方便であるとともに、自己の尊厳を支えるものでもある。であるからして、文化とは生活の中に自然と満ち満ちるものであって、その性格からして外部から眺めたり、違う文化に生きる人間が是非を判断したりするものではないのである。それが文化に対する現代人の礼儀として反映されなければならない。

 しかしながら、ここでいう文化と生活との“馴染み”を軽々に飛び越え、これをあわよくば改良して見栄え良くしてしまうというところに現代文明の最も野蛮な性格が潜み、その大なる害を成しているのではないか。文明自体の巨大さは人間の当然の感情さえ人民投票にかけてしまう。多数者支持が即ち善であるというのは当代の文明を支える最も安易で強力な、そして唯一の遁辞である。

 そして、その軽薄な妄信が見落とすものはあまりにも大きい。こんなはずではなかった、と人は思い続けてここまで来てしまったのである。今の社会を提示されて人類の進歩と調和を夢見た人々は果たしてこれを選び取るのか。決してこれを採らないであろう。しかし、生き方としての文化をその都度蚕食されてきた我々はこれを採らざるを得ないのである。そして苦し紛れに、「これはこれで良い。必然である。」と言い始める。

 だが、人も人の世も変われど、変わらぬ、否、変われぬものはある。その両者の乖離が人間の生活を決定的に成り立たなくさせてしまうのも時間の問題であろうかと思う。そして、それに気づけぬ我々に、望む未来など訪れないのではないか。