進歩と喪失

山田一郎(46歳、神奈川県、公務員)

 

 我々人類は「進歩してきた」と思っている。特に近現代においては、そうした意識は強いであろう。我々は市民革命を経て民主主義を手に入れた、産業革命を経て高度な産業社会を構築した、科学技術の発展は、我々に便利な生活を提供してくれている、と。
 確かにそれは一面においては事実と言えるだろう。誰しもが政治に参加する資格を得、モノは溢れ、生活は便利になった。まさに「進歩」しているというわけである。
 しかし、この「進歩」には、常に「喪失」が伴っているということを、我々は忘れてはならない。「何かを得る」ということは、「何かを失う」ということにほかならない。
 便利(コンビニエンス)で手軽(インスタント)なことは確かに悪いことではない。しかし、その中で、不便な中で物事を成し遂げた喜びや、時間をかけて何かを得られた感動といったものは失われていく。何度でも再生可能で代替可能なものは確かに便利だが、瞬間の心のふるえ、研ぎ澄まされた感覚といったものは、もう手に入らない。
 モノや権利があることが当たり前となり、いつしかその有り難味も忘れ、何を欲していたのかも分からなくなる。「進歩」とは、常にこうした「喪失」を伴っている。
 進歩自体を必ずしも否定するものではないが、こうした喪失の意識を忘れたまま進歩するとすれば、その進歩は、果たして我々を善き処へと導くものになり得るだろうか。
私にはそうは思えない。得るものと引き換えに失われていくものの淋しさ、といったものを引き受けることなしに、本当の進歩はあり得ない。
 そしてそれは、単に感傷的な気分に浸るということではない。それは我々の「生きる」ということについての根源的な問いであり、宿命的な観念である。