近現代日本の考察

中禅寺明彦(29歳、京都府、会社員)

 

~一.近代化によって生じた歪み~

 日本は明治以来、忠実に西欧の近代化を推進し、物質的繁栄を享受するようになった。開発と工業化が進行するにつれて、日本人の生活は確かに豊かになった。しかし、日本の文化は根こそぎ破壊されていった。近代というものは歴史的に生み出された慣習、共同体、秩序、伝統を徹底的に破壊する運動であったからである。そして、この近代化の病理は今日の日本をも蝕み続けている。というのも、種子法の廃止、水道事業の民営化、東日本大震災後の消費税の増税、TPPの推進、入管法の改正など日本国を他国に切り売りし解体する政策が急速に進行しているからである。さらには、森友事件における公文書改竄、自衛隊の日報隠蔽、裁量労働制のデータ捏造など日本国の秩序破壊も徹底的に行われている。かつてフリードリッヒ・ニーチェ(一八四四~一九〇〇年)は次のように述べている。

 “今日最も深く攻撃されているもの、それは伝統の本能と意志とである。この本能にその起源を負うすべての制度は、現代精神の趣味に反するのである。”(『権力への意志』)

 先人達が後世の日本人を生きながらえさせるためにつくり上げた制度を惜しげもなく捨て去る忘恩的行為こそが現代日本人のメンタリティーを如実に表している。しかも、現代日本人はどの時代の人々よりも最上の存在であるという幻想に陥っているため、いままで先人達が積み重ねてきたものをスポイルする。近代の病により日本はとりかえしのつかない状況に至ってしまった。三島由紀夫(一九二五~一九七〇年)は言う。

“現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ、理性のほうが(誤った理性であろうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。”(『小説家の休暇』)

 三島は近代化がもたらす近代イデオロギー、理性を妄信すれば日本は日本でなくなり崩壊していくことをきわめて正確に理解していた。というのは、理性で人間を統御する政治は、人間というものが常に合理的に行動する世界観を前提にしているからである。つまり、理性では説明困難な感覚や衝動が現実に存在し、そういった肉体や皮膚感覚のようなものこそ、歴史的かつ伝統的に日本人に身についた「文化」なのであるが、この文化を近代は否定し、徹底的に破壊するのである。そのうえ、近代イデオロギーである民主主義の根幹には妄想と言わざるを得ないすべてに広くあてはまる人間性、キリスト教原理である「神の前での人間の平等」という概念が存在する。現実には人間が平等だったためしはない。ニーチェはこの概念について次のように述べている。

“ここでは「神のまえでの人間の価値の平等」という概念がこのうえなく有害である。
 それ自体では強い天性の者たちの特権に属する行為や心術が禁ぜられた、―あたかもそれらはそれ自体で人間の品位にふさわしくないものででもあるかのように。最も弱い者(おのれ自身に対してもまた最も弱い者)の防御手段が価値規範として立てられたことによって、強い人間の全傾向が悪評をこうむった。”(『権力への意志』)

 すぐれた人間を認めない野蛮さ、伝統を軽視する浅薄な思考が現代日本人の内に浸透し、とうとう日本人自ら日本の歴史、文化、伝統を破壊するようになってしまった。かくして近代化によって生じた歪みは、一世紀後になってみじめに露呈されたのである。

~二.近代を理解していない日本~

 理性によって統御されたはずの近代西欧社会は第一次、第二次世界大戦やナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を引き起こし、さらにキリスト教から継承された近代的人間性の否定的な側面は最終的に暴力の連鎖と無秩序をもたらしたのである。人間の理性に自由を許したとき理性は暴走した。そして、近代イデオロギーは理性を拡張し、その先に理想社会を見いだすというものだが、その近代イデオロギーである民主主義の構造的欠陥が全体主義の誕生を許してしまったのである。それゆえに西欧では民主主義は狂気のイデオロギーとして認知されているのだが、日本は近代というものをまったく理解していないため、民主主義を手放しで崇めている。これは、非常に危険な状況である。なぜなら、きわめて民主主義的な平和憲法のなかから、ナチス・ドイツが誕生したからである。ヒトラーはワイマール憲法を改正せずに、大衆を巧みに煽動し、全権委任法を成立させることに成功した。近代の延長上に生じた全体主義はかならず言論統制、秘密警察、強制収容所を随伴し、われわれの文化を致命的に破壊する。よって全体主義を防止する策として議会主義を守る必要がある。三島由紀夫は議会制について次のように述べている。

“いわゆる議会制の普通選挙制の政治形態というのは、政治というものが必要悪、妥協の産物であって、相対的な技術であって、政治に何ら理想はないのだというところから出発しているのだと私は解釈しております。”(『国家革新の原理―学生とのティーチ・イン』)

 現代日本人は議会主義と民主主義を混同している。正確に言えば日本は議会主義であり、間接民主主義を採用している。単純な多数決原理ではなくて知性を介在させ、議会で徹底した議論を行い、合意をはかり、利害の対立を調整する。よって少数者の意見もしっかり考慮されるようになっている。もし、多数決原理だけですべてを決定することになれば常にデマゴーグによって世論が操作され、衆愚政治が横行することになる。選挙によって議員を選び政治を行わせる代議制は、民意の暴走を制御する性質をもっている。すなわち民主化を徹底すれば全体主義に陥るのである。三島はさらに述べる。

“言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを持っていない。この「妥協」を旨とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を欠く欠点を有するが、言論の自由を守るには最適であり、これのみが、言論統制・秘密警察・強制収容所を必然的に随伴する全体主義に対抗しうるからである。”(『反革命宣言』)

 この相対的な技術をなんとしても守らなければならない。しかしながら、現在では議会で多数を占めて押し通すというやり方が横行している。いわば、議会主義の否定である。説明や説得を放棄し、議論を放棄し、強行採決を行うということが当然のようになってしまっている。これはほんとうに危機的状況である。議会主義の否定の先にあるものは国家の滅亡以外にない。どうやら我が国は国家滅亡への道を着々と進んでいるようである。

~三.おわりに~

 現在日本はあらゆる面で危殆に瀕している。特に直近で危機的状況といえるのは日本というものの特質を完全に失ってしまう移民政策の推進である。移民政策により西欧は混乱し、西欧の文化は死に絶えようとしているにもかかわらず、日本は外国人材といって移民政策を推し進めている。このまま進むと、日本は日本でなくなり、日本の歴史、文化、伝統は消失するだろう。また日本は新自由主義を礼讃し吸収した結果、経済もインフラも防衛も危機的状況に陥っている。畢竟、日本は近代の病に蝕まれ、思考停止になり、守るべきものを見失い、現実がなにも見えなくなってしまったようである。三島は言う。

“どうしても西欧化できないものはいったいなんだったろうかと、また西欧化できなかったことはまちがいだったのか、あるいはそれも西欧化できると信じたことはまちがいだったのか、そういう反省の時期にいまきている。”(『対話・日本人論』)

 日本は近代と向き合い、近代を正確に認識する必要がある。近代の病を治すには、日本の中に浸透している西欧化の弊害を革正することによって成就する他はない。近代の病を放置し続ければ、いずれ日本は近代に取り殺され亡国へ至ってしまうに相違ない。