古典について

中禅寺明彦(30歳、京都府、会社員)

 

~ 古典を振り返る~
現代教育では古典文学に親しませ、体に馴染ませるという事が凡そ皆無であります。と云いますのは日本の教育には官僚が干渉しており古典文学を親しませない教育というものを明治官僚から延々と続けてきたからであります。彼等は安全な出世への道が何よりも大切であり、すぐに目前の実益のある対象にしか関心を示しません。従って官僚は言葉が解らない人間であり、文化というものが解らぬ人間だと云えましょう。それが教育に干渉してきたために明治以降古典的蓄積というものが後世に継承されず、今日の日本人の思考の浅薄を助長してしまうという結果を招いてしまったのであります。古典的教養についてフリードリッヒ・ニーチェ(一八四四~一九〇〇年)は次のように云います。
教養とは必ずしも概念的な教養のことではなくて、なかんずく、直観し正しく選択する教育のことである。それは、音楽家が暗がりのなかで正しく演奏するようなものだ。一民族を教育して教養を得させるのは、本質的には、優れた典型に慣れさせ、高度な諸欲求を形成させることだ。(『生成の無垢』)
ニーチェの云う優れた典型とは日本の場合、日本語に立脚する日本人の感性及び日本人の肉体が五感で感得する力を通して長い年月をかけて培われてきた慣習並びに価値観、すなわち日本人が継承してきた古典的教養であります。そしてこれは古典の中にもっとも豊富に現われており、この古典的教養によって我国の文化と伝統は存立していると云えましょう。古典は理性で解釈しようとすると一面的な意味しか理解出来ません。それはほんとうに解るというわけではありません。日本の言葉についての姿の感覚に親しむには暗誦する事が重要なのです。小林秀雄(一九〇二~一九八三年)は云います。
いまの教育は暗誦させないですね。ものごとを姿のほうから教えるということをしない。「万葉集」なら「万葉集」を、解説や周辺の知識を持ちこんでしまって、感覚的に読むことをしない。それから古典の現代訳をひじょうに無神経にやることなんかも間違いの根本ですね。姿があるのは造型美術だけではない、言葉にも姿がある。日本人ならかならず日本の言葉についての姿の感覚があるはずです。その感覚を浮かび上がらせるのが教育ですよ。(『教養ということ』)
昔式な「読書百遍意おのずから通ず」でともかく暗唱する事、そうすればいずれ人により年齢により、言葉のもつあらゆる「姿」を感得するにいたるのであります。理性は認識しているものから順々に認識していないものに作用する事しか出来ず、また認識していないものを飛躍的に認識する事が出来ないものです。
ですから、理性や合理を重んずる現代の教育では古典的教養を得ることは難しく、常識と伝統を軽視する思考はやがて表層的なイデオロギーやデマゴーグにより操作された世論、プロパガンダに流される事になりましょう。
もちろん、理性も適切な場合に利用される限りにおいては素晴らしい人間の機能に相違ありませんが、常識を失う程に妄信する事は恐怖政治やテロル、全体主義につながるという事実を閑却してはいけません。

~ おわりに~
現代日本人は急激な自我の肥大化により驕慢な人間が少なくありません。その上理性や合理的な判断を妄信しており古典をろくすっぽ読んだ事もないため、政府が連日垂れ流している嘘、デマ、プロパガンダによってすっかりbrainwashing されているのが現在日本の状況であります。
これは非常に深刻な事態です。
なぜなら政府の嘘を有権者である国民が許容する事になればどんな国家もたちまち腐敗するのは自明の事だからです。そして常識が失われた国家は全体主義化する危険性が一気に高まり、そうなると言論統制、秘密警察、強制収容所が必然的に随伴され政府により日本の歴史は改ざんされ言葉のもつ本来的な意味は政府の都合の良い様に変更され伝統と文化は致命的に破壊され国民の生命も危殆に瀕するに相違ありません。
古典的規範を認知する事で常識と伝統を擁護し、急進的な改革に反対し、節度ある自由と平等を尊重する事が現代日本人の喫緊の課題と云えましょう。