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身体を張って

吉田真澄(東京都、63歳、会社員)

 

今回の新型コロナウイルス禍。やはり!というか、またもや!というべきか、マスメディアを通じた報道では、事の本質について一向に見えてこないのである。

「初期封じ込めができなかった場合、人は身体を張ってウイルスを受け入れ、共存への道を探さなければならない。」

ワクチンの開発と投与・普及までの一年半ほどの時間ではあるが、これが今、ウイルスと私たちとの間に横たわっている厳然たる事実なのである。この三ヶ月間にわたり、大衆心理を慮ってか、彼らの知見が平板すぎるのか、専門家や政治家やコメンテイターたちは、こぞってウイルスからの逃避とその遮断を語り、「覚悟」について言及してこなかった。60パーセントほどが感染しなければ感染終息できない、という集団免疫に関する基本原理さえ、ほとんど語られてこなかったのである。

確かにアンチ・ヒューマンな言説につながりかねない難問である。一般人なら、感染(うつ)りたくない、関わりたくない、逃げ出したい、という心理に追い込まれるのも無理はない。しかし、このウイルスの不条理さを踏まえた認識が国民の多くに共有されていなければ、『誰が前に出てウイルスと付き合い、誰が後ろに下がって見守るべきかを振り分ける。そして、前者と後者の間のコミュニケーション・リスクを最小化する。そこで最小化された発症者に重点的に医療資源を傾注する。といった基本戦略(『京都大学レジリエンス実践ユニット提言(表現者クライテリオンメールマガジン)』2020年3月30日 参照。文字どおり研究組織や言論誌としての生存リスクをかけたこの提言に敬意を払いたい。私は、身体を張ってウイルスを食らう自然免疫・マクロファージの姿をイメージした…。)への合意を得ることなど到底、不可能なのではないだろうか。

健常な若年層は、心身の健康を保ちながら身体を張ってウイルスと向き合いましょう。高齢者や基礎疾患のある方々は、それを後衛として見守り、事態が安定化してから緩やかに受け取りましょう。そして、待ちに待った日には、他者の存在に感謝し、ともに献杯と祝杯を。こうした意識下に「死」を据えたメッセージと行動こそが、その後の私たちの「生」を輝かせるのではないだろうか。

今回のウイルスが私たちに問いかけているのは、ヒューマニズムの成熟度ではない。世代を超えた法の下での平等でもない。個々人の確固たる生存権でもない。ゼロか100かの衛生観念でもない。
ウイルスが問いかけているのは、種としてどれだけ「死」に向き合っているか。そして、(世界の主要都市を五目チャーハンのように均一な人種構成にする、浅薄なダイバーシティ政策とはまったく次元の違う)地域社会や各国の風土と歴史の延長線上にのみ立ち現われる、真のダイバーシティ(生物多様性)の姿なのである。