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まちづくりと「風」「土」論

川村浩毅(22歳、京都、学生)

 

 人が住むところに価値のないところはありません。価値があると信じ、価値を認められたからこそ人が住みつくからです。したがって、より便利で、より人間らしく生活する共同の場をつくる「まちづくり」という営みは、まずはその地域の価値を見つけ、正しく評価することがその第一歩となります。そして、地域の価値を発見し認めれば、住民には地域への誇りも愛情も湧いてくるでしょう。また、住んでいるところが好きになり、愛情が湧くなら、そこをもっとよりよくしていきたいと思うでしょう。それが次の行動へと移らせ、いっそうよい「まち」をつくっていくことにつながります。
 
しかし、慣れてしまうとあんがいに自分の住むところの価値には気づかないものです。良い点も悪い点も、その地域に住む人々にとっては当たり前のことになっているからです。したがって、内部からの価値の発見はもちろん必要でしょうが、やはり、外部から価値を認められるということも、持続的なまちづくりには必要となってきます。
外部と地元の人の関係と役割を示すのに、風土をもじって、「風」「土」論というものがあります。「風」は外部から訪れる人たちで、「土」はその地に根を下ろし息長く実践していく人々を指します。普段の まちづくりは「土」の人によって地道に行われるものですが、ときおり「風」が訪れ、外部の視点や知恵を新鮮な空気としてまちに運ぶことで、「土」の人は気持ちを新たにし、実践を続けていくことができます。
 しかし、ここ20年余りで、こうした動きや流れの関係は大きく変容したように思われます。この間、声高に叫ばれたのは地方分権、つまり、「土」の自主性でした。逆に、かつて「風」として大きな役割を担っていた政府は、地域住民を社会投資や福祉によって怠惰にし、自主性を阻害するとして、縮小が余儀なくされました。その代わりを任されたのが、企業誘致やインバウンドといった民間活力です。
企業や海外の観光客という不確実な主体と運命を共にすることがどういう結末を迎えるか、そんなことはわかりきっています。地域社会は再生されるどころか、ますます弱体化に向かいました。策を講じても、まちの衰退や人の流出は止められず、残したいまちや受け継がせたい未来の世代も、かたちがぼやけていきます。それでも、結果が伴わないのは自主的な努力が足らないからだとして、努力不足の烙印を押されることとなりました。その結果、地域住民たちは、自信を失い、希望を失っていきました。こうした状況の中で、政府が地方創生を謳いながら、東京圏ばかりに公的投資を集中させ、地方交付金を削減していることは、地方でまちづくりに携わる人々に、どういったメッセージとして受け取られるでしょうか。

 「まちづくり」は、「まち」がそこにある限り続けられていく作業です。大災害で壊滅したあとでも、多くのまちは再び、その上に再興されてきました。東京も、関東大震災や第二次世界大戦の戦災の上に築かれ、広島や長崎は原爆の破壊の上に再建されました。どんなに破壊されても、そこに住みたいという人々がいる限り、まちは再建され、「まちづくり」は続けられてゆくでしょう。
そして、それは今も変わっていません。まちを愛し、まちをつくっていくという情熱を持っている人々は、どんなまちにもいるはずです。彼らの火を絶やしてはいけません。そのためには、少なくとも政府は彼らの味方でなければならないでしょう。まちの価値を認める「風」の存在として、技術やノウハウ、資金的な援助はもちろん、ときには、「土」の人たちの思いだけが空回りしないように、理性的な諫言を呈することが求められることもあるでしょう。

 まちづくりはすぐに結果がでるものではありません。欧米では50年、100年先のためにやっていると平気で言います。まちづくりには、まだ見ぬ未来を夢想し、現実にはひとつひとつのレンガを積んでいくような気持ちが必要です。