再読「坊っちゃん」

岩澤邦明(85歳、元高校教師、神奈川県)

 

いわゆる近代精神は科学的合理主義への強い志向を有し、過去や伝統を否定する側面において進歩的である。技術の発達による産業の発展と制度・文物の刷新によって明治日本が近代国家への歩みを進めるにあたり、近代精神の果たした役割は大きい。しかし、このことによって日本人の信条も頭脳も目に見えて向上したとは思えない。小説「坊っちゃん」に登場する赤シャツに見られるように、道徳性においては旧幕時代よりも罪の部分が大きい。

 近代教養人を育てるために設立された中学校(旧制)という教育システムもまた、習俗や慣習の形で市井の人々の間で生き続けていた道徳観念を封建意識として軽視し、これから独立して純粋に合理的な道徳をイデオロギーとして子供たちに教え込むことを教学の理想としたのだろう。そして、この理想の体現者たるべき教師像が打ち出されたのである。

 だから、校長の狸は新米教師の坊っちゃんに「教育の精神についてながい御談義を聞かし…生徒の範疇になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんのと学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの」と注文をつけるのである。

 まことに「法外な注文」である。なぜなら、実際に世俗道徳で有効なものは、我々日本人の伝統の中で日常普段に教え込まれ、血肉化した生活感覚以上のものではないからである。教師もまた生活者であるならば、この感覚から逃れることはできないはずだ。坊っちゃんに言わせれば「そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つ位はだれでもするだろうと思っていたが、この様子じゃ滅多に口も聞けない、散歩もできない」ということになる。
 
 坊っちゃんは「情」の人で、「物のあはれ」を知り、素直に感動できる人であり、直感で道徳的判断をくだす力を備えている。だから、「野だは大嫌い」で「赤シャツは声が気に食わない」のであり、「うらなり君とはどう云う宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない」のである。

 近代教育、それも、より高度の専門教育を受けた人々ほど、素直に物事を感じとる力を失いやすい。言わく言い難い「情」の動きよりも、理性的に判断してキチンと説明のつく知識のほうが価値が高いと錯覚しているからである。そしてこれらの知識や物欲が出世欲、名誉欲と結びついたとき、「情」の働きが曇らされてしまうのである。知識人を以て任ずる狸や赤シャツ一派はその典型である。

 さて、校長の狸は偽善者である。ただ彼の場合は自分が偽善者であることに気付いていない。教育はかくあるべし、教育者はこうでなければならないという理想論に骨絡みにされてしまったのである。彼の教養の内実は借り物に過ぎない。その理想を金科玉条のように振りかざし、自らをその論理で律しようとすれば、現実の生活感覚との狭間で苦しまなければいけない筈だが、幸か不幸か、彼には悩むほどのリテラシーが備わっていない。

 狸は偽善者というより愚か者というべきであろう。愚か者は自分を疑うことをしないゆえに愚か者なのである。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。彼のしたり顔は自分自身の愚鈍さの中に腰を下ろして安住することから生まれてくる。

 赤シャツのように積極的に阿諛追従する者もいるが、多くは「タテマエはタテマエ」としての分別を弁えて、意義を挟もうとはしない。しかし、彼らの末裔はいっそう喜劇的、しばしば悲劇的に、現代社会にも棲息しているである。

 バッタ事件と道徳教育は無縁である。日常生活から遊離し、イデオロギーとして教えられた道徳は単なる知識に過ぎない。生徒は教師の偽善性を見透かして反抗を繰り広げるだけでなく、自らも似たような人間に仕立て上げていく。坊っちゃんが生徒を捕まえて詰問し、謝罪させようとしても、彼らはのらりくらりと返答をはぐらかしたり、へ理屈をこねまわして決して白状しない。

 校長は「生徒の言い草を一寸聞いた」とある。子供にも意見を述べる権利があるだの、子供のいうことをよく聞いて、子供が何を考えているのか理解しなければならないというのが現代に通ずる教育論である。しかし、子供に悪いことをした理由を聞く必要はない。自分たちに都合の悪いことを言うはずがないし、たやすく嘘をついたり合理化したりというような言葉のサイクルに陥りやすいからである。罰を与えることで恨みを買うことを恐れる校長も、都合よく納得してしまうことになるであろう。これで味をしめた子供は、なおいっそう嘘と合理化が上手になるのである。

 坊っちゃんの目に、こういう生徒は「憐れな奴等だ。・・・学校へ這入って、嘘を吐いて、誤魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いいたずらをしてそうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと感違いしていやがる。話せない雑兵だ」ということになる。

 相棒の山嵐は坊っちゃんと同じ心の波長を持つ男である。どこから見ても先生らしくない。「逞しい毬栗坊主で叡山の悪僧と云うべき面構」で、ぶっきらぼう、物事に頓着しない。しかし、根っこの部分ではとても情が深く、お節介と言われようが、親切で人が困っている
のを見過ごすことができない。それに、形式張ったことが偽善にすぎないことを感覚的に見抜いている。この二人が辞表を叩きつけた後、赤シャツの野だを退治る件りはだれもが快哉を叫ぶのであるけれども、学校には何の変哲も改善もない。相変わらず赤シャツの天下である。所詮、直情径行で計算も策もない坊っちゃんたちは、裏の裏まで計算し尽くし、術策を巡らす赤シャツの敵ではなかったのである。

漱石は「坊っちゃん」の舞台を旧制中学に設定し、伝統に培われた日本人の倫理を体現する坊っちゃんを、狸や赤シャツと対峙させることで、近代教育の欺瞞性を抉り出して余すところがない。しかし、江戸っ子の坊っちゃんと会津っぽの山嵐が近代的知識人である赤シャツに敗れることで、明治日本の近代化に伴う精神の危機を象徴的に表現していることも見逃せない。

この精神の危機は1945年の敗戦をもってしても超克されることはなかった。むしろ一層拡大したとみるべきであろう。戦後の日本は上下を挙げてアメリカに追随することで、この国が歴史的・伝統的に保持してきた規範や習俗あるいは生活の知恵を弊履のごとく捨て去ることを進歩と錯覚してしまったからである。かくして家族は崩壊し、学校の秩序は破壊され、この社会から子供を教育する機能すら喪失させようとしているのである。