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改題第15号(通巻第93号) 読者からの手紙

なぜ「軽い人」が増えたのか

言葉を軽々しく発する人々
この文章が読者の目に触れるということは、この文章が何らかの審査を通過したということである。仮に酒の勢いで下劣な暴言を書き殴って投稿したとしても、それが公になることはあるまい。
ところが、最近この「審査」という過程を経ていない軽薄な言葉が、勝手気ままに世を走り回っていると感じる。

 私の学生時代は、まだ今のようにSNS全盛ではなく、一般人が社会に対して何か訴えたい場合、雑誌や新聞などに投稿するのが有効な手段の一つであった。
私の投稿が初めて世に出たのは、高校二年の冬であった。金原ひとみ氏と綿矢りさ氏の芥川賞作品が掲載された「文藝春秋」に、二氏より若い私の投稿が載った。それ以来、私は雑誌や新聞に投稿を続け、自分の考えを発表してきた。無論、不採用となった投稿も少なくない。未熟な内容であったり、言い過ぎであったり、根拠が不明瞭であったりすれば、当然弾かれる。せっかく書いた自分の考えが日の目を浴びないのは悔しいものだが、失敗作が世に出ずに済むのは、ある意味ありがたいことでもある。
 自分の投稿が採用されるのも簡単ではないが、反響を受けるのはさらに難しい。一生懸命考えて書き、それが採用されるわけだから、それを読んだ人はどう感じたのだろうといつも気になるものだが、残念なことに身近な人から「読んだよ」と言われるぐらいで、そう簡単に高評価が得られるものではない。
 近年、きちんとした審査を経ていないと思われる言葉や映像などが瞬く間に世界中に広まる時代になった。ツイッター、インスタグラム、ユーチューブ等々がそれである。投稿そのものはある程度の選別がなされるようになってきのたかもしれないが、それに対するコメントに関しては、最近クローズアップされるまで無法地帯であったと言っても過言ではかろう。
簡単に投稿できて、あっという間に「イイネ!」だなんて褒めてもらえるのだから、SNSの類に夢中の人々はさぞかし楽しいにちがいない。だが、そこにあふれる言葉たちは、じっくりと推敲された「考え」未満の単なる「思い」に過ぎない。パッと思いついた独り言レベルの思いが、その場限りの花火で終わらず、世界中の人々の目に触れるのだから、トラブルが多発するのは自明である。
 若いプロレスラーの自殺があった。SNSに浴びせられた誹謗中傷が、自殺の原因だと言われている。彼女のテレビ番組内での言動に憤りを覚えた人々が、こぞって厳しい言葉を浴びせたとのことである。著名人である以上、確かに批判は避けられない。しかし、昔ならブラウン管に浴びせるだけで終わったヤジが、今や即座に本人に届いてしまうのだから、著名人への批判を熟考もせずにぶつける連中は、一体どういうつもりなのだろう。

なぜ言葉を軽々しく発するのか
元来、言葉を発することはそんなに軽々しいことではなかった。『万葉集』には、大伴家持の次のような歌が収められている。
わが欲りし 雨は降りきぬ かくしあらば 言挙せずとも 年は栄えむ
 私が願っていた雨が降ってきた。これならば、口に出して言わなくても年は栄えるだろう、というのである。心中を言葉に表すことは「言挙」と呼ばれ、口に出さずに済むならそうしたいというのが古代の人々の願いであったことが窺い知れる。
人との会話がもっと勇気を必要とした時代を、一定の年齢以上の人間はよく覚えている。例えば、朝、教室に入ると、担任が来るまでの間は何とかして周りに声をかけ、誰かと会話しようと努力したものだ。
ところが今は、手持無沙汰になればすぐスマホである。校内での使用を禁止している学校が多いだろうけれども、教員が見ていないところで本当に使用していないかどうかは疑問である。最近では生徒にiPadを持たせている学校もあり、そういった学校ではiPadがスマホの代わりだ。
自宅にいる友達に用がある場合も、昔は固定電話に電話を掛けたから、果たして誰が出るのか、ドキドキしたものである。友達の親が出てしまって緊張、という経験も、若い世代ほど少なくなっているにちがいない。
今や意思表示はスマホであっという間だ。本人以外と話す可能性もなければ、話し相手の声を聞く必要もない。簡単に発言できてしまうから、つい余計なことを言ってしまうのもある意味必然だ。
手紙、電話、そして目と目を合わせての直接の会話。頭と気を使うコミュニケーション手段が、もう少し再評価されて然るべきだ。誰もがあまりにも安易に本音を言い過ぎている。人間社会、時には建前も必要だ。

情報を鵜呑みにする人々
 視点を変えると、そのプロレスラーに汚い言葉を浴びせた連中は、まず彼女の出演番組を視聴したか、あるいはその番組を視聴した人間の言葉を聞いた側でもある。
私はその番組を見たことがないので、はっきりとした番組内容はわからない。だが、なぜその番組を本気にした人がそんなに多くいたのか、そこが非常に奇怪である。この番組に演出があったかどうかを問題にする向きもあるようだが、テレビに演出はあって当然ではないか。何の演出もなしに視聴率を稼げる番組はそう簡単に作れまい。演出があるのだろうという前提で視聴し、安易に鵜呑みにしないのが、テレビ番組を見るときの当然の姿勢ではないのか。
ちなみに、問題の番組は「リアリティ番組」を名乗っているらしいが、バラエティだろうがリアリティだろうが、別にどちらでもよい。「リアリティ」と言われても、本当はリアルではないのだろう、と鼻で笑いながら見るべきものがテレビだと私は思う。

近年、インターネットの普及により、「炎上」と呼ばれる事態があちらこちらで発生するようになった。こういった問題が起こるたびにいつも思うのだが、果たして騒ぎ立てる人々はきちんと一次情報を確かめているのか。
あまり具体例を挙げれば話が横道に逸れそうだが、例えば法案に反対した人々はその法案を一読したのか。雑誌の記事を批判した人々はその記事の全文を読んだのか。政治家の問題発言をあげつらう人々は、講演なり談話なりの全体を確認したのか。今回、亡くなったプロレスラーに辛辣な言葉を浴びせた人々も、そもそもその番組を見たのか。もともとの番組を見ず、二次情報や三次情報を鵜呑みにして騒いだのだとしたら、あまりに罪深い。
私は、大学で東洋哲学を専攻し、四年間、漢文とにらめっこをする毎日であった。恩師から繰り返し言われたのは、「本(もと)に返れ」というアドバイスであった。漢文を読んでいると、何らかの出典に基づく記述によく出会う。そのたびに、きちんと原典に当たり、もともとはどう書かれているのか、きちんと確認せよと教えられたのである。それによって、時に原典と引用の細かな差異に気が付くことがあるわけだ。この「本に返る」ということが、今まさに、情報化社会を生きる我々に求められることだと強く感じる。

なぜ「軽い人」が増えたのか
 言葉を発する側も軽ければ、言葉を受け取る側も軽い。そういった「軽い人」が、なぜ増えてしまったのか。
行間を読めない。きつめの言葉を真に受けてすねる。言われたことを額面通りに受け取って融通が利かない。学校で働く私は、日々生徒と接していて、そう感じる。
例えば「叱咤激励」という言葉がある。言うまでもなく、厳しく叱りつつ応援する、といった意味である。ところが、叱咤を本当にただの叱咤としか感じられない生徒が意外に多い。ましてや、その叱咤激励を「侮辱」と捉える者もいる。何で彼らはそんなにプライドが高いのだろう。
何事にも表と裏がある。そんなことは常識だと思っていたのだが、裏表を考えずに言葉や情報を鵜呑みにする人が増えている。なぜか。簡単に言うと、「考えなくなっている」という一言に尽きると感じる。ではなぜ考えないのか。それは、あまりにも簡単に情報が手に入るからではないだろうか。
口コミ、新聞、ラジオ、テレビ、ガラケー、スマホ。我々が情報を得る手段は時代とともに進化し、瞬時により具体的な情報を得られるようになった。しかしその副作用として、人は考えること、想像すること、察することが減ったように思われる。最初からあからさまであればあるほど、何も想像する必要がなく、「ああ、そうなのか」で終わってしまう。いつの日か、スマホからにおいが感じられるようになれば、画面の向こうのグルメのいいにおいを想像することもなくなるだろう。

生徒を見ていると、「彼らに純然たる私的時間(プライベート)はあるのか?」とも感じる。彼らは24時間、365日、スマホに縛り付けられ、自分の部屋という私的空間にいながら、遠く離れた場所の人間とやりとりしている。これでは「公」と「私」の意識も薄れてしまうだろう。もっとも、それは必ずしも学生に限ったことではなかろう。タレントを見ても、かつてはプライベートを伏せてミステリアスさを出していた人が多く、またそれが人々の支持を集めたように思うが、最近は積極的に情報公開をして一般人との距離を縮めるタレントが多い。これはある意味やむを得ないことであって、「隠さない」というよりは「隠せない」と言ったほうが適切なのかもしれない。

ここまで見てきたように、スマホの普及を中心とした社会の急速な変化によって、「表」と「裏」、「公」と「私」、「建前」と「本音」といった両面性が世の中から薄れてきている。そしてその結果、思ったことをストレートに言ってしまう人や、言われたことをストレートに受け取ってしまう人が増えてしまったと考えられる。考える力、想像する力、察する力を、我々はもう少し養っていく必要があろう。
 ちなみに、昨今のハラスメントに対する厳しい風潮も、皮肉な結果を招いていないだろうか。厳しく言い過ぎるとパワハラと言われかねない。だから先輩は遠回しに優しめに忠告する。ところが本人は察してくれない。そんなエピソードを持っている人も案外多いのではないか。
 「バカ」とか「死ね」とか、教師が児童生徒に暴言を吐いたというニュースを時折耳にする。もちろん、汚い言葉である。他に言い方はないのかとも確かに思う。しかし、その教師はどういう気持ちでその言葉を発したか、と察するのはもはやタブーなのか。本当に生徒に死んでもらいたくて言ったのか、それとも発破をかけるためにきつい言葉を発したのか、そこを考慮してくれよという愚痴は、今や禁句なのだろうか。
 以前、すでに高校を定年退職した、当時60代後半の先生と話す機会があった。その先生が担任をしていた頃、生徒のノートを集めてチェックしていたら、ある生徒のノートに「死にたい」と書かれていた。するとその先生は、「死になさい」と書いたそうだ。
今の世の中、ちょっと不寛容すぎないか。

投稿者 : 

  • 髙江啓祐(33歳、愛知県、私立学校教諭)

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