「お店」に感謝の花束を

七里正昭(34歳、団体職員、福岡県)

 

 以前、地元の駅前のパチンコ店が廃業し、やがて更地となった光景を目にしたとき、一抹のさびしさを感じたのはなぜだろうか。
 私はギャンブルは一切しない。そのパチンコ店も好きではなかった。そばを通ると、偶然開いた自動ドアから大音量の店内音楽が襲いかかる。時には客が外へ飛び出してきて、携帯電話で「今、会社」などと話している。いつも私は足早に通り過ぎた。では、なぜ。
 「棲慣れのうらぶれ町も 熱くなほ愛さん 願ひ/日々かくて旅ゆくこころ かなしみつ われ住ふなり」(小高根二郎「通天閣にて―旅せざる日の旅の歌」)
 そのパチンコ店は、私にとって、いつしか住み慣れた街の情景の一部となっていたのだ。ある日、それが急に消えてしまったので、欠落感を禁じえなかったのだろう。
 飲食店、衣料品店、書店、花屋、菓子屋、病院や歯科医院、銭湯、カラオケ店、ライブハウス、パチンコ店、ナイトクラブなど。様々な商品やサービスを扱う「お店」(病院や歯科医院も患者さんが来院しなければ経営破綻する点では「お店」である)。一生懸命に経営されている「店長さん」は素敵だ。
 「お店」による社会貢献は多大である。納税。雇用の創出。「こども110番の店」のような安全地帯機能。「お店」の明かりは道行く人の心も照らす。何より「お店」では人と人とが出会い、対話する。お客さん同士が結婚して、家族となる場合もある。
 だが「店長さん」の悩みは深く、尽きないだろう。売上の減少、膨大な経理、複雑な各種届出、人を雇い、研修する難しさなど。「お金のため」だけでは到底やっていけない重荷のような営為だ。なぜ「お店」を続けていけるのだろうか。「お客さんに喜んでほしい」という熱情のみが「店長さん」の胸のうちで燃えさかるからではないか。
 「ガイドラインを守らないお店は避けていただきたい」(小池百合子)、「勇気を持って休むってこともかなり重要」(玉川徹)、「行動制限にたいするアンチテーゼが、釣りにライブにコンパ」(佐藤健志)。
 コロナ騒動によってあふれ出したもの。それは「お店」や中小企業の「営業する喜び」を徹底的に愚弄する言説であった。こうした言説が、さして社交が多いわけでもない、賃金労働者である私の胸中にさえも、激怒のマグマをたぎらせるのである。
 とりわけ、「店長さん」が「このお店がこの地域の人たちの暮らしと心に根づいていきますように」と切なる願いをこめてつけた、魂とも言うべき「店名」を、「社会の敵」であるかのごとく、自治体の首長たちが公表した全体主義的暴政は、同時代を生きる者として、断じて許すわけにはいかない。
 「お店」を守るためには、MMT(現代貨幣理論)を駆動させてでも、政府による徹底補償をせねばならない。しかし。経済は繊細な生態系であり、「お店」はそのなかで呼吸する「生命」である。実際の取引がなければ、信頼関係や技術は失われ、生態系は破壊されて、蘇生できなくなる。これこそ、本誌編集委員たちが提起し、「自粛派」の者たちが一切応答しない重大な論点である。
 「経営」とは、1人1人のお客さんと日々誠実に向き合い、「常連さん」を地道に増やしていく営みであろう。だから、感染対策、医療崩壊阻止は大切だが、自粛は必要最低限にとどめ、営業活動は最大限緩和せねばならない。「最大補償―最大緩和」こそ、我々が歩むべき唯一の活路であると考える。
 そして「お店」には感謝の花束を。何も本物の花束でなくてもよいだろう。久々に好きな「お店」に足を運んでみるだけでもいい。商品の素晴らしさを言葉で伝えるのもいい。「店長さん」や「店員さん」に、御礼の手紙を添えて、ちょっとした差し入れをするのもいいかもしれない。まず、私は、すべての「お店」に、心からの言葉の花束を捧ぐ。