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改題第15号(通巻第93号) 読者からの手紙

合理主義と思考停止

イギリスの思想家、M.オークショットによれば、合理主義とは次のような行動をとろうとすることだといいます。

まず第一に、一つの命題を確立すること、つまり追及されるべき目的を決定することであり、第二にその目的(それ以外の目的ではない)を達成するために用いられるべき手段を決定することであり、第三に行為することであろう。1)

まず目的と手段を考え、それを実行に移す。これが合理的行動というものであり、そのため合理主義者にとって思考とは、行動の目的や手段を決めることだと言って良いでしょう。
けれども、オークショット曰く、人間がそのような仕方で行動をとることは望ましくないどころか、実際には起こり得ないといいます。
なぜなら、人間というのは、思考にしたがって行動しているわけではなく、習慣にしたがっているものだからです。料理をする習慣のない人間に、料理の目的や手段を考えてそれを実行に移すことは不可能です。おいしく作るという目的やおいしい作り方といった手段は、料理という行為習慣の中から派生して生まれた概念であり、習慣の外からは発生してこないのです。

換言すれば、彼の行動の根源と支配は、彼の技能に、彼の仕事の仕方に関する知識に、そして彼の独自の仕事がそれに関する一つの抽象であるところの具体的な活動への彼の参与に存する、ということに彼は気づくだろう。2)

コックの習慣というのは、料理の道を志すことでしか得られませんし、科学者の習慣というのも、ずっと科学に携わることでしか得られません。各習慣における最初の一歩は、人を模倣するところからはじまるのであり、各行動の目的や手段を考えるところから出発するのではないのです。
したがって、はじめに目的や手段を考えるというタイプの思考から、私たちの行動が指揮されるのだという見解は、退けなければなりません。かつ、思考というのがおよそ意味を有するものだとすれば、それは私たちの習慣に関わる場合であることが示唆されます。
アメリカの哲学者、C.パースによると、思考とは、疑念から信念に至る営みであり、それによって習慣を確立させることだと定義しています。
例えば食材を調達するときに、どの卵を買おうか思い悩んだとします。このどっち付かずの状態が疑念です。このとき私たちは、安い卵にするか、地元産の卵にするか、茶色の卵にするか、あれこれ思案するわけですが、ある基準をもってどの卵を選ぶべきか決意したとしましょう。そして、その後も同じ基準にしたがって、同じ卵を買い続けるのであれば、それは信念に至ったといえます。この一連の過程が思考だというのです。
ここで大事なのは、一時の思い付きでは信念になり得ないということです。習慣化していない意志決定など、信念なのか恣意なのか、誰にも判別できません。したがって、信念の形成と習慣の確立は表裏一体なのであり、それ以外に思考の存在意義もないということです。

思考の全機能は行為習慣を作り出すということ、そして、思考に関連はあっても思考目的に無関係であるものは何であれ、思考の付随物であって、思考に不可欠な要素ではまったくない(中略)それゆえ、思考の意味を明らかにしようとするには、その思考がいかなる習慣を作り出すのかを明らかにしさえすればよい。3)

パースにしたがえば、私たちの行動様式つまり習慣に何ら影響を及ぼさないような思考というのは、実際の思考ではないのです。
またこの見解から明らかになることは、思考とはあくまで疑念発生から信念確定までのプロセスにあるため、信念が既に定まっている状態、つまり疑念のない状態から、人間の思考は成立し得ないということです。
ゆえに、合理主義の思考は、疑念の生じていないところから目的(信念)を定めようとしている点で思考として成立しておらず、またその思考が私たちの行為習慣に何ら影響を及ぼさないという点においても思考として成り立っていません。
それにも関わらず、合理的行動に邁進しようとするのは、わざわざ不可能を実行しようとして、私たちの習慣を形成する道を自ら閉ざすことに等しく、それは本来の思考の妨げにしかならないのです。
つまり、合理主義は思考停止を招くのです。

1) M.オークショット「合理的行動」
2) 同上
3) C.パース「我々の観念を明晰にする方法」

投稿者 : 

  • 佐々木広(23歳、会社員、群馬県)

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