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非武装中立論の理想と公明党に見る残酷な現実

多田乃等(39歳、会社員、大阪府)

 

●住民投票における公明党の立ち居振る舞い
 政治的なある種の闘争、特に無様にも公共を志さない者が仕掛ける類の場合、それは愚劣な形で現れた醜いパワーゲームにしか過ぎず、政治における最も闘争的なパワーゲームである選挙は選挙”戦”とも言われるように、政治的闘争は(暴力の出番こそないものの)ある種の「戦争」的様相を帯びる事は言を俟たないでしょう。

 令和2年11月1日、二度目の「大阪市廃止構想」の住民投票が行われ、首の皮一枚でなんとか勝利することができました。反対の最前線で戦われた政治家や言論人の方々、草の根で活動された心ある方々には、僭越ながら心から敬意と感謝を申し上げます。

 その中で今般、前回とは大きく異なる、随分な「政治的」立ち回りを見せたのは公明党です。あれだけ反対されていたのが、今回は非常に積極的な推進に転じました。その裏には、報道されているように周知の事実ですので改めて仔細述べることは省きますが、維新と公明党の間でとある「密約」があった、と維新側の当事者から公然と暴露されています。また、公明党の確保する国会議員の選挙区に維新から対抗馬を立てるぞと脅して、賛成へと彼らを翻意させたのだと当事者にごく近しい人物が公然と語っています。

 選挙が戦争であるなら、公明党はその彼らの守るべき領土である議席を脅かす相手に、実力をもって対峙しようとしたのではなく、その脅迫に屈し、無様にもただ従順に従う事で維持しようとしたわけです。しかも維新が対立候補擁立しようとする事それ自体は(あくまで「それ自体」は)、決して不法ではなく、むしろ民主主義下での真っ当な政治行為であり、それに屈する公明党こそあまりに情けない。オルテガはこう言います。

『貴族の特権は、もともと委譲や恩寵によって与えられたものではなく、それどころか、力で手に入れたものである。そして、貴族の地位を保持するには、その特権を有する者は、もし必要があり、他人がかれと特権を争う場合には、いつでも、もう一度力ずくでとりかえす能力があることが、まず前提とされる』(オルテガ, 大衆の反逆, 中公クラシックス, p.73)

 ここでオルテガのいう貴族とは単なる血筋を意味せず、「自己への、要求と義務によって定義される」(p.73)と、その矜持と名誉の義務を己に課す者としています。

 公明党は、その自身の特権を力で奪いに来た相手に対し、「もう一度力ずくでとりかえす能力」を示そうとしませんでした。前回の住民投票時に見せた反対運動とはうって変わって、2019年に行われた賛成へ転換したときの維新との共同会見で見せた、随分な笑顔の彼らの表情は、銘記し語り継ぐべきものでしょう。

 そして結果「大阪市廃止構想」は否決されました。公明党からすれば、維新という大阪における勝ち馬にのり、また菅総理と随分に昵懇でもある松井市長に与することで、自らの選挙区も守り、大阪でも、国政でも、そのプレゼンスを発揮できるという、一挙両得の選択肢だったのでしょうが、その目論見は完全に外れる結果となります。

 逆にその怒りが伝えられているのは大阪の自民党で、次の選挙では公明党の選挙区に対抗馬を立てるつもりだ、という趣旨の報道もありました。あるいは支持母体である筈の創価学会員からの批判も激しく、出口調査によれば毎度の選挙で見られるあの一枚岩の投票行動が、今回は賛否が大きく真っ二つに分かれており、今後その組織力や集票力にも疑問が持たれることになるかもしれません。

●「非武装中立」的動態
 公明党のこの極めて「政治的」な動態は、まるで軍事力を否定し外交的努力や経済協力や平和協定などによる国防を主張する、いわゆる「非武装中立論者」を見ているかのようです。衆議院議員と社会党幹部を務め、軍事力による国防を否定した石橋政嗣の書いた、「非武装中立論」(1980年)という著書にはこうあります。

 (非武装中立では)『不安だ。もし攻めてくる国があったら「降伏」せよというのかと、さらに執拗に迫ってくる人たちがいることも事実です。このような人たちは、「攻めるとか、攻められるとかいうような、トゲトゲしい関係にならないように、あらゆる国、とくに近隣の国々との間に友好的な関係を確立して、その中で国の安全を図るのだ」といくらいっても聞こうとはしないものです。私は、こういう人たちには誤解を恐れず、思いきって「降伏した方がよい場合だってあるのではないか」ということにしています。』(石橋 政嗣, 非武装中立論, 日本社会党中央本部機関紙局, p.69)

 今更この非武装中立論の是非を指摘するのは控えます。今回公明党は、まさに非武装中立論の帰結を教えてくれる、非常に興味深い事例となるように思えます。嘘・詭弁・脅迫・情報操作・言論弾圧・レッテル貼り・メディア圧力、ありとあらゆる手段を用いてでも覇権を目指す維新に対して、その漏れ聞こえる内情も、報道される実情も、示される現情はすべて公明党が屈服していたという事実です。

 きっと公明党の首脳陣からは、我々だって色々と抵抗したんだ、と反論はあることでしょう。水面下では様々な駆け引きがあったのかも知れません。石橋は「専守防衛に徹する」なら「一億玉砕の決意なしに、軍事力による防衛などなりたたない」為に、「軍事力による防衛などなりたたない」と言い、戦闘を行わない抵抗を「軍事力によらない、種々の抵抗」として「デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネストに至る広範なもの」(p.70)を行うべきとし、そしてその非武装の抵抗の帰結として、東大名誉教授小林直樹の言葉をこう引用します。

『小林直樹教授のいうように、「非武装を貫けば、どんなに悪くても、日本列島が軍事占領を受ける位が極限で、民族みな殺しや、再起不能の大損害を蒙る最悪の事態は防げるはずであり、仮りに軍事占領が行われたと仮定しても、民族のせん滅は勿論、その文化や精神まで奪い去ることは、少なくとも自由と自立を欲する勇気ある人々のいる国では不可能だ」(法律時報「憲法九条の政策論」)と思うからであります。』(p.71)

ありえない仮定ですが、もし仮に、侵略者たちにそんな善意が期待でき、かつ他に何も手立てが残されておらず、更には再び独立できる十分な算段があるのなら、もしかしたら非武装全面降伏が最適解になる事も、世の中にはありうるのかもしれません。(ありえませんが。)

 此度の住民投票での公明党の現実を見てみれば、そんな種々の抵抗があったのだとしても、結局「大阪市廃止構想」という共同体を破壊する愚行に「5年前の住民投票で示されたものとは異なるより良い協定書」と太鼓判を押し、それを笑顔で受け入れて推進する事になります。非武装中立論者の理想とは全く異なり、戦わずして屈服した公明党は、「文化や精神」そのものといえる共同体の破壊に積極的に加担するのです。斯様にして、今回の件から我々が得るべき教訓は、なかなかお目にかかれない非武装中立無抵抗の残酷な現実こそかも知れません。

 維新と交わしたのが「密約」である為に我々はその舞台裏を知りようもなく、八方塞がりで手詰まりで他に手の打ちようがなかったというなら、せめて見事に散ってみせる心意気を、特権とその責務を負う者として見せていただきたい。その散り様こそ「ノーブレスオブリージュ」、日本語で言うなら「死ぬことと見つけたり」と呼ぶのでしょう。選挙区に対抗馬を立てるぞ!という明確な宣戦布告に対して、「いつでも、もう一度力ずくでとりかえす」力を示さずして、その権威は決して保ちえません。

 加えて言うなら、現代ならその責務への対価として求められるのは、ただその選挙区から退場するに過ぎず、断頭台に首を乗せる事も、見事に腹を掻っ捌いて見せる必要もなく、なんなら次の選挙で奪還することすら可能であり、むしろ「筋」を通し続けた公明党の威光は、その時こそきっと今より輝いていた事でしょう。

●敗者は誰か
 民主主義がどれ程くだらない制度であろうとも、それに基づく特権の与えられた「政治家」にとって、選挙に表れる民意こそが、彼らのその権威を権威たらしめるものでありながら、公明党はその力を自ら貶めるに至りました。

 大阪での維新は盤石の支持基盤を築いており、元来からの支持者たちのほぼ全員がこの大阪市廃止条例に賛成のため、例え今回敗北したとしても大きく影響しないでしょう。一方公明党は、国政では自公連立し、都政では都民ファーストと組み、そして大阪では維新と結託し、あちらこちらと政界を器用に渡り歩く算段だったのでしょうが、今回その目測も着地点も誤りました。

 これからの近い将来、一体彼らがどのような帰結を迎えるのかはわかりません。もしかしたら……維新からは都合よく弾除けや緩衝材のように使われ、支持母体からの突き上げとの板挟みになり、反対派の大阪市民から「大阪市を破壊しようとした政党」としての冷たい目線に晒され、国政と大阪での自公間の摩擦や軋轢にあい、そしてもしかしたらここ大阪を起点としてより大きく政界全体が揺らぐ事態が待ち受ける……、そんな事もあるやもしれません。これからどうなるのか、彼ら自身の振る舞いと、それを我々がどう評価するかに懸かるのでしょう。

 特権を有する者の矜持か、はたまた非武装中立無抵抗の帰結か。

※あくまで政治的動態を批判するものであり、特定の団体等の揶揄を意図するものではありません。