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「子供部屋おじさん」の話

城前佑樹(書店員、26歳、東京都)

 

 先日、ネットニュースを見ていて「子供部屋おじさん」と呼ばれる者が増えていることを知った。「子供部屋おじさん」とは、成人の時期を経て社会人となり中年に到っても実家を出ず、その実家にある自身の子供部屋で生活をする者のことである。
 そして実社会で仕事をしているか、していないかに関係なく、「大人の年齢になっても子供部屋に居ついている」自身の立場に対してあまり後ろめたく思っていないように報道されていた。昔流行りのファミコンのゲームソフトやアニメ作品等を、嬉々として一人語りし、子供部屋に陳列する。彼らは好きなものに囲まれ、小学生男子であるかのように「今」この時を過ごす。さらには、家族とも意思疎通をしようとしない。報道されたうちの一人は、取材が親にばれることを恐れ、親が家にいない時間帯に取材を受けたと語った。
 このような今の日本の現状は、堕落のきわみのようだ。作家・坂口安吾は敗戦直後、「人間は生き、人間は堕ちる。」と喝破した。しかし、結局人間は自身の自堕落さに完全に耐えうることはできはしない。その上で安吾は「生」という一事を始めなければならないと語る。敗戦直後はまだそうした気勢があったのだろう。だが、敗戦から七十年あまりが経ち、この「子供部屋おじさん」のように堕落している実感にすら不感症になってしまうとは誰が想像しただろうか。
 私から見て彼ら(この極東の国では「彼女ら」も付け足してみようか)の問題点は少なくとも二つある。 ⑴自身と他なるものごととの意思疎通の気がない ⑵自身の中の感情・欲望・他者との関係性に対する内省力が足らなさすぎる の二点である。これは言わずもがなだが、「実際的な生活の重みが懸かっている」ならば上記した問題は解決せざるを得なくなる。恋人や友達と実のある時間を過ごすためには、人は自身を整理し、金銭面や人格面等あわせて自立しなくてはならない。さもないと、甘えだけがはびこる依存関係となる。
 だがしかし、「子供部屋おじさん」には「親」に依存している自覚すらない。それを可能にしているのは紛れもなく「親」の甘い意識であろう。ただ(可愛さのあまりなのか、保護しておきたい責任感からかは不明だが)その子に対する思いは逆に痛々しい。
 以上記した話題は、家庭の中での社会問題の一つに過ぎない。ただ世間をみわたすと似たようなことはそこかしこで起こっている。社会が停滞しようと利益追求にしか目がない企業、教員の立場のみに躍起となり学生を見ない教育機関、そしてアメリカという「親」の下「子供部屋」で遊び呆けようとするわが国日本……「堕落」という実感すら薄れつつあるこの世の中で、私たちはどのように手応えのある関係を紡げるだろうか。