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「オンライン」に安住してしまった惨めな学生たち

平澤孝太(19歳、東京都、学生)

 

 私は昨年度大学に入学し、オンラインばかりの授業の中、1年以上を過ごしてきた学生の一人である。すでに一年半近くの時間が、かかる条件の中で過ぎ去ったのであるが、新型コロナウイルスの若者に対する危険性の度合いと、サークルをはじめとする学生同士の交流への大学当局による甚だしい制約とその損失とを引き比べてみれば、この事態の無惨な光景は、もはや狂態といっても良いだろう。コロナの感染によって社会的評判が落ちるのを避けるために、学生の行動を簡単にスケープゴートにしてきた大学の体たらくは言うまでもないが、それと同じくらい私が歪だと感ずるものは、我々大学生自身がある程度の安住をこの惨状に見出しつつあるということである。
 文部科学省実施の「新型コロナウイルス感染症の影響による学生等の学生生活に関する調査」によると、大学、大学院、専門学校の学生へのオンライン授業の満足度についてのアンケートで、「満足」と「ある程度満足」と回答したのが56.9%であるのに対して、「満足していない」と「あまり満足していない」が20.6%であり、肯定的な評価が大幅に上回っている。ちなみにその理由として高いポイントをとっているものは、「自分のペースで学習できた」(66.1%)、「自分の選んだ場所で授業を受けられた」(79.3%)などである。
 もちろん肝胆相照らす仲間を得られず、自室の中でひとり講義を受ける不満自体は、多くの学生の共有するところであろう。しかしながら、意外なことに非カリキュラムとしての学友との交流を犠牲にしても、正規のカリキュラムにおける容易さをとることに、学生自身がやぶさかでないということだ。こうした態度の原因は、必ずしも学生の性格が怯懦になったからということではなく、むしろ、対人関係の欠損から生ずる孤独感を紛らわしてくれる娯楽が、文明によって安価に提供されていることにあるように思われる。人恋しくなればSNSをひらけば良いし、退屈ならばゲームをするか、アニメや映画をでも見ればいい。まして社会全体で若者の交流を非難しているのだ。何より人間関係は本質的に面倒なものだから、わざわざこうした風潮に逆らってまで人と関わることもないと考えるのも自然なことである。こうした娯楽に容易にアクセスできるおかげで、若者に課される一方的な理不尽に黙して耐えていられる。
 しかしながら、大学のオンライン授業にせよ、デジタルの娯楽にせよ、そこにあるのはしょせん光の戯れにすぎない。一方的な情報伝達や身体性を欠いたやりとりである限り、そこにはなんの人間的関わりも、相手に対する信頼もありえない。あるとすればせいぜい知識の伝達に役立つというだけだ。いや、ことによると知識の伝達においても、その根底には相手に対する信頼があって初めて受け手の姿勢が作られると言うこともあるから、あまり有効なものではないのかもしれない。ともかく、もとより人間の本質の一つが、言語である以上、他者との会話−すなわち社交であり、ここには友愛、敵対、恋などの萌芽があるのだろうが−これが人間の生きている証であるとするならば、私たちの現在の生は、なんという惨めなものであろうか!
 そしてまた、SNSや動画サイトなど現代のデジタルな娯楽の多くは、それを享受するものを囲い込み、偏頗な視座の虜にしてしまうことが多いと言われる。だからこそ、多様なバックグラウンドと考え方をもつ人と交流することの意義が、これまで以上にあるのである。こうした他者、すなわち異質なものと関わりを通して、己の至らなさ、独善的な思い込みを反省することで、人間は広い視野を獲得していくのだろう。
 しかるに、現在のコロナ禍における自粛ムードの中で、直接的な対人関係を感染リスクが高いということで不要不急のものとされ、大学もこうした風潮に足踏みをそろえている。かくして我々の世代は、人と関係を取り結ぶことの価値の卑小さを教えられたわけだが、そのことによってこうした対話の場、己を他者とすり合わせていく場が失われるのは、あまりにも悲惨である。