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デジタル教科書について

髙江啓祐(34歳、岐阜県、中学校教員)

 

 三月号の「読者からの手紙」に、「繰り返される急進的教育改革と学校現場の混乱」という題の投稿が掲載され、その通りだと思いながら拝読した。どうも昨今の教育改革は現場感覚が欠けている。机上の空論レベルの発想が本当に実行されようとするから驚きの連続だ。「とりあえず変えてしまえ」という安易な改革は、とりわけ教育の世界においてはただ有害なだけだ。
 首をかしげたくなる改革の極致が、「デジタル教科書」である。私が三月まで勤務していた私立学校では、公立学校に先んじてICT教育が取り入れられ、全校生徒がタブレット端末を所有していた。だからこそ、デジタル教科書のメリットとデメリットはよく理解しているつもりだ。結論から言えば、教員用のデジタル教科書は結構だが、児童生徒用のデジタル教科書は副作用のほうが強いと考える。
 私は、前任校で積極的にタブレット端末を利用していた。全教職員にタブレット端末は貸与されていたのだが、うまく使いこなせない教員も多く、黒板とチョークの昔ながらの授業に終始する教員も多かった。ただ、私としては、全生徒にタブレット端末を持たせている以上、活用しなければ生徒・保護者に対する裏切りだ、というスタンスで、どんどんタブレット端末を利用していた。例えば、教科書のPDFデータをプロジェクタで投影して説明すると、生徒は教員が教科書のどこについて話しているかを視覚的に理解することができる。「何ページの何行目に線を引いて」と従来は口頭でのみ指示を出していたが、今や教員自身がデジタル教科書に線を引いて生徒全員に示せるから、生徒にとって有益だ。
 タブレット端末をあまり使わない教員が多い理由は大きく分けて2つである。1つは、教員自身がタブレット端末をうまく操作できないから。これは、長年の従来型の授業が染みついている先生や、タブレット端末の使い方をうまく習わないまま授業をやらされてしまいがちな非常勤講師に多い。そしてもう1つが大事なのだが、教員自身はタブレット端末をそこそこ操れても、生徒がタブレット端末を余計なことに使わないよう指導するのが面倒だから。これは昨今のデジタル教科書をめぐる議論においてあまり出てきていない。
 要するに、デジタル教科書推進派は、性善説なのだ。児童生徒がタブレット端末を持てば、デジタル教科書をきちんと正しく上手に使ってくれるだろうという前提なのだ。
 スマートフォンと同様に、タブレット端末は、勉強道具にも遊び道具にもなりうるというのが最大の特徴だ。紙の教科書が勉強道具にしかなりえず、おもちゃにするとしても落書きをするくらいしかないのとは大違いだ。
 タブレット端末は何でもできてしまう。アプリを入れればゲームやSNSも可能。Wi-Fiが飛んでいればどんなサイトも見ることができる。そして、教室の様子だろうが友達の顔だろうが、ふざけて写真を撮ることもできてしまう。使ってよい時間とそうでない時間を決めるなど、きちんとしたルールを設けないと、朝の教室はクラスメイトと会話もせずにタブレットとにらめっこする生徒たちで静まり返り、休み時間はものすごい無法地帯となり、授業中もこっそり動画サイトを見るような生徒が続出する。また、タブレット端末という物体そのものも子供はおもちゃにしてしまうから、破損するケースも案外多い。紙の教科書と違い、一台の端末に全てが入っているから、自宅に端末を忘れてしまった場合も含め、全教科の学習に影響が出てしまう。
 問題はそれだけではない。充電は家庭でするのか、学校でするのか。家庭だとすれば、電気料金の負担が発生する。児童生徒が充電を忘れれば、一日中授業に支障をきたす。学校で充電するなら、それなりのスペースが必要だし、放課後に充電するなら端末をを自宅に持ち帰れず、家庭学習に影響が出る。
 折しも今年は東日本大震災から十年である。私たちは原発事故に直面し、地域によっては計画停電を経験した。明かりの消えた街を見た私たちは、電気の大切さを痛感し、電気があるのは当たり前ではないということを学んだはずだ。それなのに、デジタル化に前のめりな今の状況は、まさに「ほとぼりが冷める」という言葉がぴったりである。実際、平成三十(二〇一八)年の台風二十四号のときには大規模停電が発生し、端末を充電できない生徒が多数発生した。
予想外の行動をするのが子供というものだ。タブレット端末を学校で子供に持たせたらどういう状況になるのか、今一度きちんと議論してほしいものである。