【特集座談会】緊急事態宣言下、街中で人が減っていないのは民衆が愚かだからではない

啓文社(編集用)

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コロナ,緊急事態宣言,自粛

今回は『表現者クライテリオン』2021年3月号の掲載されている特集座談会を特別に一部公開いたします。

前回に引き続き、本誌編集の藤井聡・柴山桂太・浜崎洋介・川端祐一郎の4人の座談会です。

内容は今月号の特集でもある「コロナが導く社会崩壊」

私たちはコロナに対してどう向き合うべきか。

以下が内容です。

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問うべきは自粛をめぐる語り方

川端祐一郎(以下川端)▼

クライテリオンもそうですけど、「自粛するメリットとデメリットのバランス」みたいな話をよくやってきましたよね。「ケースバイケースで対応すべきだ」みたいな。
僕はそういうバランス論、例えば経済被害と健康被害をトータルで最小化しようというようなことは、普通に政策技術として考えなければいけないことなんで、その議論は必要だと思うんです。

 しかしこの一年すごく気になっていたことは、「自粛」側に倒しても「反自粛」側に倒しても、あるいはバランスを取っても、倫理的に後ろめたいところがどうしても残るわけです。だって、どちらに被害を寄せるかは常に変えることができて、例えば最適水準よりも自粛側に寄せれば、それによって余計に助かる高齢者がいるわけだから、そうしてほしいという人は当然いるはずなんです。ですから、「バランスを取ればOK」というのもちょっと違うなと思ったし、もちろん「自粛するのが倫理的に正しい」というのも「経済を回すのが倫理的に正しい」というのも違う。
そこで、これは去年からずっとメルマガでも書いたしクライテリオンの別冊号にも書きましたけど……。

藤井聡(以下藤井)▼

言葉の使い方、の問題ですね。

川端▼そうです。僕は結局、物の言い方が重要だと思うんですよ。去年の春は、要するに「自粛しろ」と言ってくる人たちの「物の言い方」に気に入らないところがあったんです。そしてそれは、恐らく逆も言える。つまり「自粛したくない」と言うにしてもね、やはり言い方の配慮というのは必要なはずです。

 倫理学に「トロッコ問題」というのがあるじゃないですか。自分の意志でトロッコの進行方向を変えて一人を殺すか、そのまま放置して五人を殺すかという問題ですが、これを考えたのはフィリッパ・フットという女性の倫理学者で、徳倫理学(Virtue Ethics)という学派に属している人です。で、その徳倫理学がトロッコ問題にどういう解答を与えるかというと、これはハーストハウスという人が言ったことですが、「どちらを選択しようが我々には後悔が残るのであって、その後悔をしっかりと感じ、表現できることこそが人間にとって大事なんだ」と考えるんです。
だから、経済側に倒せばそれによって死んでしまうご老人がたくさん出るからそれは本当に申し訳ないと思い、自粛側に倒すんだったら若者の活力を押さえつけて申し訳ないというふうに、お互いに思うということが重要なんでしょう。我々は、「死者数が最小化された世界」を生きたいわけでも、「経済力が最大化された世界」を生きたいわけでもない。そのどちらでもなくて、若者が「おじいちゃん、おばあちゃんのために頑張ろう」と言い、老人が「俺たちのことはいいから君たちで楽しんでくれ」と言うような……。

藤井▼儒教の世界ですね。

川端▼そういう会話が自然に交わされる世界を守りたいというのが本当のところでしょう。コロナ禍は、そういうことを考えるなかなか良い材料になったなと思いますね。

「全体」を見ないと被害は最小化できない

柴山桂太(以下柴山)▼

道徳的な正しさを目指す国は、そういう国であるべきですよね。

藤井▼それがなかなか伝わらないから、しょうがないから被害の最小化というレトリックを使っているだけですからね。

川端▼被害最小化の考察自体は、それはそれでエンジニアリング的に必要ですから。

藤井▼しかも被害の最小化という概念はもちろん「工学」上の概念ですが、その言葉をあくまでも倫理的な問題として使っているわけです。つまり、僕はみんなのことを考えながら対策を考えているんですよ、っていう「姿勢」を表現しているだけとも言える。だから本当に数学的に厳密な意味での最小化を実現したいわけでもない。そんな厳密な話は無理なんですから。

川端▼そうですし、「その最小化政策によって死ぬ人」だって往々にして存在するわけだから。

藤井▼そして数学で「最小化」を目指すときに重要なのは、一部ではなくて「全体」を見る、っていう点なんですよ。自粛だけしてればいいっていう議論は経済を見てないし、コロナなんて何にも恐くない、普通にしてればいい、っていう議論も感染症被害を見てない。でも「最小化」や「最適化」っていう概念を使ってさえいれば、ひとまずはもうそれだけで、全体を見ながらそういう極端な議論は避けられるわけです。

「一匹」と「九十九匹」と

川端▼それと同時にもう一つ、これを言うと話をひっくり返すようですけど(笑)、「社会的に正しくなかろうが、俺はこう生きたいんだ」というのを貫くことに、何か美徳を感じるところもありますよね。もちろん程度によりますが、「社会に対して害を為すのは申し訳ないが、このスタイルはどうしても守りたいんだ」というのはあってもよい。だから「人として正しい道を歩まねばならない」ということをあんまり言われると、ちょっと違和感もある。

柴山▼僕はこういう危機時には、我々が本来持っているはずの柔軟な知を信じたいですね。もちろん、緊急事態宣言が必要なら出してもいい。だけど、外出すべきかどうかは、個々人が判断すればいいわけですね。現に、僕はこの半年で外食が増えている。できる限りお店を助けたいと思うから。おかげで太りましたけどね(笑)。もちろんマスクもするし、感染対策も守った上でのことです。日本人の大多数はそうしているんだと思います。現に、今回の宣言では街中で人はそんなに減っていない。それは民衆が愚かだからではなくて、柔軟に判断しているからでしょう。そうやって少しずつ、コロナとの付き合い方を学んでいる。

浜崎洋介(以下浜崎)▼

ちょっと、さっきの「被害の最小化」の問題に拘ってしまうようですが、藤井先生が、あえて工学的にされている「被害の最小化」の議論は、僕は実はとても大事だと思っているんです。というのも「最小化」の議論が徹底できたときに初めて、それでも死んでしまう人の悔しさや、その「魂」の問題が、政治とは違う場所に見えてくるからです。

藤井▼そうそうそう、そうなんですよ。

浜崎▼つまり、福田(福田恆存)が言う「一匹」の議論というのは、手前勝手なエゴの主張とは関係がなくて、それは「九十九匹」には還元できないギリギリのものとして見出されるわけです。だから、「九十九匹」の論理は「九十九匹」の論理として、まずは徹底されるべきなんですよ。そのとき、ようやく、そこでは掬えない「一匹」の存在が見えてくる。と同時に、それを癒す「文化」の問題も見えてくる。そうでなければ「俺も一匹で、お前も一匹で……」ということになるだけで、くだらない水掛け論に終わるだけです。

川端▼確かに。経済学者とかが書いているコロナの論文を読むと、やっぱり経済的利益と健康的利益のトレードオフみたいな議論は一応あるんですよ。でも、そもそもまずトレードオフが成立するためには、双方がある程度効率的な水準まで改善されてなきゃいけないんですよね。

柴山▼そうですね。今は、経済学的にいうと両方の最適解から外れてしまっているんですよね。現実には、どちらも高めることができるはずなのに。(続く)

(『表現者クライテリオン』2021年3月号より)

 

続きは『表現者クライテリオン』にて

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『表現者クライテリオン』2020年3月号
「抗中論 超大国へのレジスタンス」
https://the-criterion.jp/backnumber/95_202103/

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