今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを三編に分けて全編公開いたします。
公開するのは、小幡敏先生の新連載「自衛官とは何者か」です。
第三回目の連載タイトルは「‟生きたい”と‟死にたくない” 我々の国は、私の国」。
『表現者クライテリオン』では、毎号、様々な連載を掲載しています。
ご興味ありましたら、ぜひ最新号とあわせて、本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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私は前に、戦後の灰燼の中で“生きたい”と願った日本人は、いつの間にか“死にたくない”に転じたと書いた。
同じものと思われるかもしれないが、両者は全くの別物である。すなわち、“生きたい”が或いは死への衝動をも包含し得る思想であるのに対し、“死にたくない”は言ってみればまさに“死にたくない”、ただそれだけの枯れた、哀れな執念に過ぎない。
“生きたい”の隣には“どう生きたいか”との問いが控えているが、“死にたくない”はその他の何ものも許さない。
何故なら、死が個人の生にとって最も旧い親密な友であり、その伴走者であるのに対し、“死にたくない”ものにとっての死とは、単に生の中絶を意味するものでしかないから。
それ故、この呪文に憑かれたものは伴走者を失って生を歩む調子が取れず、一切の価値への憧憬を捨てざるを得ない。その証拠に、現代社会において私は、もはや生きた心地がしないのだ。
それは生が死に曝されているからではない。生が死から隔絶されているが故に、生は背景を失い、この手で生を摑めないのである。
こうしてあるべきところから死を失った生はそのバネを失い、生自体がその在り方を問わない教条的な目的となる。その時一体、生を自ら生きたかったはずの私はどこへ行くのか。
それはまるで、金を稼ぐことが目的となった者が使い道すら見失うように、彼にとって生が何であり、如何なる生を望むかという、古めかしくも不易の生への関わり方自体を手放してしまったように見える。
“死にたくない”という執着はまさしく、ニヒリズムの母である。
かくして盲目の“守生奴”になった国民は、守銭奴が銭で身を滅ぼすように、生を追うが故に生を毀つ。何故なら、銭を生むには身銭を切る必要があるように、生を得るにもまた、生を犠牲にしなければならないが、“死にたくない”ものは決してそれを成し得ないから。
斯様な日本人が今もなお直面しているのは、堀田善衛氏が昭和三十一年、印度の田舎で出会った元国民会議派の老闘士に、
「日露戦争以来、日本はわれわれの独立への夢のなかに位置をもっていた。
しかし、日本は奇妙な国だ。
日露戦争に勝って、われわれを鼓舞したかと思うと、われわれアジアの敵である英国帝国主義と同盟を結び、アジアを裏切った。(中略)
戦後には、アジアで英国支配の肩替りをしようとするアメリカと軍事同盟を結んだ。つくづく不思議な国だ」(『インドで考えたこと』)
と言われた際のばつの悪さである。堀田氏は、
「われわれの国が、アジアの眼から見た場合、つねにそういう二重性を帯びていたことを、われわれも承知している。(中略)
しかし、現在、この歴史的な習性ともなっている二重性からぬけ出さなければならぬと気付き、
そのための努力をしている人がたくさんいる」
と、重たい沈黙の後に返したそうだが、我々は今もなおこの後ろ暗さを感じていやしないか。
いや、どうやらそうでもないらしい。
例えば報道局員の森安豊一氏は、アフガンで出遭ったタリバン兵(彼に言わせれば“まだあどけない青年”)に、
「日本はロシアに戦争で勝った。
そして、アメリカには戦争で負けたが、その廃墟から、アメリカを脅かすほどの経済復興をなしとげた。我々は日本を尊敬している※1」
と言われ、続いて、
「タリバンと組んでアメリカを倒さないか。タリバンの精神力と日本の技術力があればできる。どうだ」
と求められたという。氏は、
「タリバンと組むも組まないも決定する権利はないが、銃を持った相手を目の前に完全否定もできなかった」そうだが、
「日本は憲法で戦争を放棄することが定められている」
とだけ答えたという。嗚呼、きっとその“あどけない”タリバン兵は氏のことを耳なし、もとい、玉なしと思ったに違いない。
とはいえ、氏が特別に情けない態度をとったわけでもない。氏の態度はむしろ日本的応答そのものであり、日本人が如何に生きることを止めていることか。
“生きんとする”青年を前に、氏(=国民)は老醜を晒す。一人の男として若きアフガンの青年に向き合えぬ日本人が言うべきは、
「米国から押戴いた憲法を疑う勇気もない臆病者が米国に逆らうことなど出来ない」
という告白である。然るに、堀田氏の言う“二重性から抜け出すための努力”、私はこの国の戦後史に、そして国民の心中にさえ、その痕跡を認めることは出来ない。
思うに、我々が向き合うべきは、
「自分の生き方を、全体として、ひとつの目的に向けていない人間が、個別の行動を配列することができるはずがない」(セネカ『書簡集』)
ということであって、“死にたくない”の反響の中で一貫性も、理想さえも捨て去った日本人の群れがどれだけ足掻いたところで、
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」
などという日本国憲法前文の宣明には、大東亜共栄圏構想が有したほどの真情さえ宿らないという不都合な事実だ。
これにつき、日本人が示した戦後の姿勢は、
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」(広島平和都市記念碑(通称原爆死没者慰霊碑))
との滑稽な懺悔が示す、不誠実なものであった。
この“過ち”とは一体誰のものなのか。
これが公式見解通り世界人類を主語とすれば、こんな馬鹿げた話はない。殺された者に向かって“過ち”を犯した者が、人類の悪と愚かさを代表して反省しますと言う。
こんな言い草に納得する死者がいるものか。自らの非を認めるのは大変に辛い、家族や仲間の失態を詫びるのはまだ受け入れやすい、国を代表して謝罪することなど快感ですらある。
してみれば、人類として過ちを反省することなど、毛ほどの苦痛も要さないことは請け合いである。
戦後日本人がとってきた態度とは凡そこんなもので、そこに反省はない。
悪は軍部だ、俺たちは被害者だ、騙されていたのだ、それで残る後ろめたさは、軍事にまつわるあらゆるものを遠ざけ、平和のお題目を唱えることだけで贖った気でいる。
もし死者に向き合うのであれば、
「安らかに眠って下さい。この仇はきっと討ちますから」
と言わねばなるまい※2。それが共同性を支える人間同士の常識ではないか。トルーマンに殺されたなら、私は生き残った者に仇討ちを望む。
こうした戦後の慰霊空間に不在なのは当事者である死者である。死者にしてみれば、勝手に人類として反省されてはたまったものではなかろう。
あれほど惨たらしく殺されながら、もういい、こんなことはやめよう、敵を憎むな、そう言えるのは実際に原爆を落とされて死んだ者だけだ。
生き残った者が仇討ちという厄介事から逃げるために聖人面するほど卑怯で見苦しい振る舞いがあるのか。仇討ちをする勇気も覚悟も無いのであれば死者に額づいてそのように言うがよい。
我々はあなたたちの犠牲の上に生命の楼閣を築くのだと。その方が余程誠実であろうし、死者も納得する余地があるのではないか。
然るに、純粋さに生きる者にとって、道理を曲げた謝罪ほどの侮辱はない。そして死者は、清算前で我が身の惜しい生者と違い、常に純粋なのである。
だからこそ我々は死者を前に居住まいを正す。それを思えば他に見当たらないのである、戦後日本人ほどに不道徳な子どもたちというものが。(続く)
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※1 https://www.fnn.jp/articles/-/7261
※2 “恩讐の彼方”を否定はしないが、あっさり彼方に行かれては死んだ者があんまり哀れではないか。少なくとも彼らは、「兵隊さん、わたしたちはどうして、こんな目にあわなければならないんですか……。かたきをとってくださいおねがいします」(江戸家猫八『兵隊ぐらしとピカドン』)、そう言って死んでいった。彼らを前に、あの温厚な著者も、いかりとくやしさに打ち震えたという。
(『表現者クライテリオン』2021年1月号より)
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