【藤井聡】追悼:山崎“八紘一宇”剛史 ~音楽こそが日本を救うと、心の底から納得できた一夜~

藤井 聡

藤井 聡 (表現者クライテリオン編集長・京都大学大学院教授)

こんにちは。京都大学の藤井聡です。

当方、三沢カヅチカこと藤井聡がボーカルとギターを務めるバンド「三沢カヅチカ with friends」のベーシスト、山崎“八紘一宇”剛史さん、通称YAMA chang(ここではこの通称で呼ばせていただきます)が、旅先にてくも膜下出血で急逝されて四十九日の昨日5月12日の夜、東京·六本木のライブハウス、unravel tokyoで「山崎剛史/YAMA-changを偲ぶ会」が行われました。

当方、大阪でのTVの生放送の都合で、第一部が参加できず、第二部の「YAMA-changありがとうの会」の最後の30分だけ参加。

会場には生前のYAMA changを偲ぶ写真や、ベースを務めた”好色人種”や“英霊来世”のCD、山崎さんが弾いていたベースや好きだったたばこ、献花台が置かれ、四十九日にしてようやく献花させて頂くことができました。

当方が会場に到着してまず耳にはいってきたのが、YAMA changが好きだったクイーンの一曲「somebody to love」。僕はクイーンの中で一番この曲が好きなのですが、YAMA changもこの曲が一番好きだったとのこと。彼の仲間のバンドの一つが、YAMA changに捧げる一曲として、追悼演奏していたのでした。

3ピースのドラム、ギター、ベースのバンドサウンドの厚みに圧倒され、会場到着直後から僕のテンションはマックスになったのは言うまでもありません。

その後、アコギとベースとドラムの3ピースバンドの「sacra」、そして最後に、アコギとドラムの2ピースバンドの「ウラニーノ」がそれぞれYAMA changを偲ぶ追悼演奏。

最後の一曲はウラニーノの「ロックンロールで殺して」。アコギとドラムの2ピースでここまでドライブ感だせんのか!?っていう凄い様なライブで、マジで度肝を抜かれました。今でもあのドラムのすんごいビートが体に残っている程、です。

会場にはYAMA-Changゆかりの皆が集い、あれこれ「はじめまして」と言いながら会話したり、電話番号を交換したり。

当方が普段お付き合いのある大学や学会、官僚や政界、TV界、そして各種の関連業界の方々とは全く違う音楽が好きなミュージシャン達との交流は、YAMA-Changが遺してくれた大切なプレゼントです。

追悼会の後は、三沢カヅチカ with friendsのメンバーでいっていたお店で、YAMA-Changのための水割りグラスを一つおいて、メンバー「全員」で献杯。

改めてYAMA-Changのことを偲びつつ、音楽についてあれこれ話しが盛り上がりました。

音楽が無かったら、このメンバーでこんなに色んなことを深く語り合うことなんて無かったよなぁ、なぞと言いながら、そして、今日のあの会場にいた皆と集まることもまた、絶対無かったよなぁ、なぞと言いながら音楽のパワーをしみじみと皆で感じた時間となりました。

特にYAMA-Changは、いろんなものを「つなげる」ことができる、凄い才能を持った人でした。

そもそも、音楽界と思想界というのは全然違う世界で、双方の世界で人が交流するなんて事は万に一つも無かったのですが、YAMA-Changはそれを軽々とやってのけたのです。

僕よりも10歳若いYAMA-Changは西部邁や小林よしのりが好きで、彼らの本をよく読んでいたとのこと。

そんな影響もあって、「保守」や「愛国」に目覚め、靖国にまつられた戦前の特攻隊の皆さんの心を歌い上げたり、今の日本の対米従属ぶりを嘆く歌を歌い上げたりするヒップホップバンド「英霊来世」を作ります。

このヒップホップバンドが「左翼連中」に注目され、今の若者の中にはこんな戦前の軍国主義を美化する様な「ヤバい」愛国極右連中がいる…ということで、筑紫哲也のニュース23に取り上げられたりしていく内に、どんどん巷で有名になっていきます。

そんな中、YAMA-Changが愛読していた――我が師匠である――西部邁とも巡り会う機会が得られ、当方が今、編集長を務める言論誌の前身の「表現者」にて登場したりします。

そんな頃、僕は西部塾の一介の塾生だったのですが、そんな塾にもYAMA-Changは顔を出すようになります。

今から確か15,6年前の事だったと思いますがその頃、塾が終わってからよく朝まで新宿の安い居酒屋で一緒に飲み明かしていました。

昨日初めて耳にしたのですが、YAMA-Changはそんな塾や本の話を、音楽界のいろんな人にしていたそうです。だから、昨日の会場でも、当方が日々配信しているいろいろな「保守思想」的言説に馴染んでいるミュージシャン連中がおられるとのこと。

おかげで僕も、YAMA-Changの周りのミュージシャン達とも交流する機会が得られたわけで、そう考えるとYAMA-Changは、日本の音楽界と思想界との橋渡しという、普通なら考えられないあり得ない仕事をやってくれたんだということに、昨日の夜、メンバーの皆と改めて感慨深く認識した次第です。

そんな話の中で、当方から「実は、僕が一番好きな哲学書のプラトンの『国家』の中に、子供を育てる時に、一番最初に教えなければならないものは、読み書きでも学問でも無く、音楽なのだ、って書いてあるんですよ」なんて話を紹介。

なぜプラトンはそう言ったのかといえば「我々の魂が正しく神とつながる上で、最も効果的な方法が音楽だからだ」というもの。

こう言って通じないミュージシャンなど一人もいません。

あの会場にいた皆で共有したものも、その後の二次会の場でメンバー皆で共有しているものも、それはそこに音楽があったから共有できたものばかり。

というか、その共感は、「音楽」が無ければ全くあり得なかったものであって、しかも、そうであることを、我々全員が直感的、本能的に理解しているのです。

これを言葉にすることはとても難しいのですが、そこに音楽があるからこそ、心と心でふれあって、溶け合って、溶け合った心がまた新しいモノを作り上げ、その新しいモノがまた我々一人一人の心にフィードバックして…そんな無限ループを延々と続けることができるのです。

そしてそんな風にして人と人とが交流すれば、そしてそんな風にして政治を展開することができれば、どんなに素晴らしい交流や、どんなに素晴らしい政治を展開することができるのだろう…だけど、ミュージシャン以外でそれができる人は限られている。

ましてや永田町や霞ヶ関にはそんな風にして心と心をふれあわせ重ね合わせ溶け合わせながら政治や行政を展開している人なんて本当にいない…というよりも、そういう営みができる人種から最も遠い種類の人たちばかりが集まって、日本の政治を動かしている…。

プラトンが言う様に、彼らが皆、幼少の頃から音楽に触れ、音楽に心を震わせ、そんな心を重ね合わせる時間をもっともっともっともっと持っていたら、きっと日本の政治は今の政治とは似ても似つかない、本当に素晴らしいものになっていたに違いない…。

夜中1時過ぎまで飲んだメンバーと共にたどり着いたこの結論に、メンバー一同、心からしみじみと納得いたした次第です。

僕が、そして我々がこの結論にたどり着くことができたのは偏に、YAMA-Changがいたからであり、YAMA-Changと酒をのみ、YAMA-Changと語り合い、YAMA-Changと歌い、そしてYAMA-Changとライブで音楽を共に作り上げていたからなのだと思います。というか、それ以外に考えられません。

YAMA-Chang、本当にありがとう。

絶望することばかりの毎日ですが、音楽を通して神様達といろんな形でつながり合っていく時間を繰り返せば、ホントのホントに絶望する暇なんてどこにもありません。

YAMA-Changが遺してくれた、いろんな「化学反応の種」を、遺された我々でしっかりと一つ一つ展開させ、育て上げ、いろんなところにいき、いろんなものを動かしていきたいと思います。

それが、44歳で死んでしまったYAMA-Changに対する本当の意味での追悼になるのだと思います。

YAMA-Chang、さようなら。

昨日は最後の最後のお別れができて、そんな機会を最高の場で持つことができて、本当に良かったです。最高の夜でした。

本当にありがとう。

安らかに、お眠りください。

追伸:本追悼文は「藤井聡·クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~」https://foomii.com/00178)からの抜粋です。ここに「思想界」のクライテリオン・メルマガにて公開・配信いたします。

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