「正常」が全面化した 「異常」とは
[書評]木村 敏 著 『異常の構造』 講談社/2022年8月刊
「あとがき」でも述べられているように、著者はかつて「精神異常者」と呼ばれていた人々を、治療すべき「精神病者」と呼びかえて合法的に隔離した近代以降の医学観を問い直す、「反精神医学」の潮流に棹を差している。だが、ある種の「異常」を必要以上に容認することは、人間の生を破壊する結果にもなり得るだろう。その点で、異常者への差別にただ反対することもまた、生の事実を無視していると言わなければならない。本書は正常と異常をめぐるこの微妙な関係を自覚した上で、両者の構造をそれぞれ解き明かしていく。
〈異常=狂気〉に常識の欠落という意味があるのなら、そもそも常識とは一体何だろうか。本書によれば、それは共通感覚、すなわち誰か(何か)との関わりのなかで生まれる相互理解から発するものだという。たとえば私たちが甘いや白いという言葉に味覚や視覚以外の形容を与えるように、論理以前にある相互的な感覚を規範化したとき、常識は形成される。重要なのは、本書がそれを「証明不可能な」「経験知の基礎」として、アプリオリなものと捉えていることである。〈1=1〉と表記されるような日常世界の公式は、「私は私である」といった同一性の意識によって成立しているのだが、しかし常識の解体した異常者は、まさにアプリオリな「自明性」をなくしているがゆえに、精神分裂の様相を呈することになるのだ。ここから本書は、統合失調症者の症例を紹介しながら論を進めていく。
ただし、こうした異常は必ずしも「劣等」を意味しないはずだ。にもかかわらず、私たちはしばしば「合理性」を盾に〈非合理なもの=異常〉を排除する傾向がある。そして、前述した常識の感覚をもとに成立する合理性の根拠を問えば、そこには「生への欲求」という端的な事実が見出されるのである。なるほど、たしかに近代科学に代表される過度な合理主義は、「生そのものの実相」を覆い隠す恐れもあるだろう。しかし、単純に生きる意志があれば、「合理性の虛構」は私たちにとって必要なものでもある。それは共同体の維持のために不可避的に要請された「仮構機能」(ベルクソン)にほかならない。このような現実を無視してナイーブに虛構=制度を攻撃する「偽善的自己満足」を、本書は厳しく退ける。
しかし、だとすれば問題なのは、こうして形成された規範や常識が、ある時イデオロギーと化して理念にまで高められる、その瞬間ではないだろうか。興味深いことに、本書は“正しさ”に拘束される時代にはかえって異常を求める声が表面化されるというが、それは建前としての「政治的正しさ」が暴走した結果、逆に露悪的な本音が幅をきかす現代の混乱した状況をほとんど言い当てている。正常/異常という対立自体が固定的なものではないとすれば、「異常への不安」からひとつの理念を拵えて全体を統制する、自称「正常者」が跋扈する現状のほうこそ、まさに「異常の時代」だと言えるだろう。少なくとも私たちは一度立ち止まって、この病をしっかり見つめる態度を持たなければならない。
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