岸田政権がPB黒字化をめざし国債償還を優先する限り、
デフレ脱却は期待できない。
歴代の政権は、一見するともっともらしい政策を唱えるが、惨憺たる結果を招くケースが少なくない。典型的なのは一九九六年発足の橋本龍太郎政権で、財政健全化と経済活性化をめざしながら財政収支の悪化と慢性デフレ不況をもたらした。平成バブル崩壊後の需要不振にもかかわらず増税と緊縮財政に踏み切ったからだが、以降、各政権はかのアベノミクスの安倍晋三政権を含め増税と緊縮財政で財政収支均衡を図る財務省路線に縛られ、実質賃金の減少を招いてきた。
その点、岸田文雄首相が掲げる「成長と分配の好循環」は賃金上昇を重視しているように見えるのだが、達成の見通しは暗い。やはり緊縮財政を前提にする間違いを犯しているからだ。
まず、「成長」を供給、つまり生産量と販売価格を乗じる事業者の売り上げの増加に、「分配」を労働人口に平均賃金を乗じる雇用者報酬の増加に因数分解すると、価格の上昇と賃金の上昇の条件ははっきりする。何よりも重要なのは需要である。国内需要が縮むと物価が下がりやすく、売上高は増えないので、企業収益は圧迫され、賃金は下がりやすくなる。内需は低迷していても、円安局面で外需が増えて生産量の拡大が見込まれると、企業は賃金水準を抑えたまま雇用を増やすようになるが、円安が止まれば元の木阿弥だ。
国内需要は政府部門と民間部門に大別される。需要不振が続いているのに、政府が民間から徴収する税を民間に十分戻さず、国債償還に回す緊縮財政を行うと、需要はますます萎縮し、物価も賃金も抑圧される。従って、日本のように慢性デフレの状況にある場合、生産、物価及び賃金の上昇を同時並行で循環させるうえで鍵になるのは、政府が緊縮財政をやめ、民間需要を奪わないことだ。だが、岸田政権の関心はそこにはなく、増える税収を国債償還に回し、財政支出削減を継続させようとする。そして「好循環」の実現手段は画餠同然の「労働市場改革」メニューと「少子化対策」に頼る。
こうした「キシノミクス」の空疎さはあとで詳述することにして、まず緊縮財政と異次元の金融緩和政策が大半の期間実行されたアベノミクスではなぜ、物価と賃金上昇が起きなかったかを考えてみよう。
アベノミクスの成果は雇用者報酬の増加に表われている。二〇一九年度の雇用者報酬は一二年度に比べて 三六・五兆円増で、国内総生産(GDP)の増加分五七・四兆円の六四%を占めた。一二年度には、慢性デフレが始まった九七年度に比べそれぞれ二七兆円減、四二兆円減になっていた状況とは雲泥の差がある。だが、脱デフレは達成できなかった。九七年度以降の実質賃金の低下は、物価下落以上に名目賃金が下がることが特徴で、まさに真正デフレの産物だったが、アベノミクスでは物価が上昇しても名目賃金が追いつかなかった。二度にわたる大型消費税増税によって物価が人為的に引き上げられたので、低迷が続く内需は萎縮させられ、賃金上昇が抑制された。従って九七年度以降の実質賃金下落トレンドからは抜け出せなかった (グラフ1参照)。
そして二〇二〇年度初めの新型コロナウイルス禍で、安倍政権は国民一人当たり一律一〇万円の支給、さらに中小零細企業への給付など大々的な財政出動に踏み切り、需要や雇用面での打撃を最小限に抑えた。 そして、菅義偉政権(二〇年九月~二一年十月)を経て岸田政権が二一年十月に発足した。二〇二二年二月下旬のロシアによるウクライナ侵略戦争後のエネルギー価格の高騰、さらに円安の高進に伴う輸入コストの上昇の結果、消費者物価が上昇して行く。実質賃金の低下はますますひどくなった。だが、二二年後半から新型コロナ感染の波は収束に向かい始め、消費者の足は戻り始め、企業心理も前向きに転じ始めた。日銀が六月に実施した全国企業短期経済観測調査(短観)では、7四半期ぶりに景況感が改善し、二〇二三年度の設備投資計画は、前年度比一一・八%増と大きく上方修正された。
安倍政権の末期のコロナ危機時の超大型財政出動で家計収入への打撃や飲食、宿泊業など中小零細企業の雇用減は最小限に抑えられた結果、コロナ後のV字型反転の道が開けた。植田和男日銀総裁が異次元金融緩和政策を続けているために円安基調が維持され、企業収益も株価も堅調に推移している。
岸田氏の考え方は経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)二〇二三年版に反映している。冒頭では、「四半世紀にわたり(中略)常にデフレとの闘いがその中心にあった(中略)。国内ではデフレによる需要停滞と新興国とのコスト競争を背景に企業はコスト削減を優先せざるを得ず、国内市場よりも海外市場を求めて海外生産比率を高め、国内投資を抑制し、労働者の賃金も抑制された。結果として、イノベーションの停滞、不安定な非正規雇用の増加や格差の固定化懸念、中間層の減少などの新たな課題に直面してき た」とある。その通りだが、なぜ四半世紀ものデフレが続いてきたのかは一切、触れない。緊縮財政や増税がデフレの元凶とは、財務官僚に頼る岸田政権は口が裂けても言わないだろう。
骨太冒頭の「新たな課題」に対する解答は、「高い賃金上昇を持続的なものとするべく、リ・スキリングによる能力向上の支援など三位一体の労働市場改革を実行し、構造的賃上げの実現を通じた賃金と物価の好循環へとつなげる」とある。その三つは、「リ・スキリングによる能力向上支援」、「個々の企業の実態に応じた職務給の導入」、「成長分野への労働移動の円滑化」のことだという。そして、この労働市場改革が「構造的な賃上げ」をもたらすとうたう。だが、民間需要を財政で奪えば、いくら学び直しても雇用機会は限られる。職務給は、終身雇用の給与体系を突き崩す。それは個々の企業が競争力を高めるためにすでに取り組んでいるのだが、若い頃はこき使われてサービス残業ばかりさせられた古参社員が四十歳、五十歳以上になって給料を下げられる口実になっている。今の新入社員がそのまま四十歳代になって手にする給与は、今の四十歳代社員の給与よりもはるかに低くなるという現実を省みない。「成長分野」とはデジタル関連が念頭にあるだろうが、対応できるのは情報技術(IT)関係では三十歳代までというのが業界の常識だ。
厚生労働省の雇用動向調査が示す男性の年齢階層別にみた離職率をみると、若ければ若いほど離職率、つまり労働移動は活発であり、四十歳代以降六十歳未満までは離職率は低い。そんな中年層を長年勤めた職場から離そうとする退職金税制を岸田政権はもくろむ。結果は共同体としての 国家の分断であり、中高年層の賃下げである。全体の雇用報酬増は抑えられ、とどのつまりは消費税増税や社会保険料の引き上げとなって若い世代にしわ寄せするだろう。
岸田政権がもう一つ、大きく掲げているのは「次元の異なる少子化対策」だ。「こども未来戦略方針」では、「若者・ 子育て世代の所得を伸ばさない限り、少子化を反転させることはできない」と断じているが、若者・子育て世代全体の賃上げ効果が疑わしい「三位一体の労働市場改革」とは矛盾しかねない。
厚生労働省統計などで一九九〇年から二〇二二年までの実質賃金と、婚姻率、出生率の推移をみると、実質賃金は時を経るに従って下がっている。これでは、結婚することも、子供をつくることも経済的に難しくなる・・・<本誌に続く>
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