【藤原昌樹】「お笑いの島」沖縄について考える(3)-「共感」を醸成する沖縄の「お笑い」の力-

藤原昌樹

藤原昌樹

『「お笑いの島」沖縄について考える(2)』はコチラからお読みいただけます。

 

「沖縄コンプレックス」を笑いに-笑築過激団(注1

 

 笑いの大統領「てるりん」こと照屋林助の精神を受け継ぎ、1980年代~1990年代にかけて沖縄のお笑い界を牽引したのがお笑い集団「笑築過激団」(注2です。

笑築過激団座長、玉城満

 座長の玉城満は、1958年に米軍統治下のコザで生まれます。林助がデビューし、一人デモをした地です。玉城の子ども時代にあたる1960年代の沖縄の学校では、戦前に逆戻りしたかのように、徹底した「方言撲滅運動」が行われ、戦前に「見せしめ」として使われていた「方言札」も復活していました。玉城は「どうしても忘れられない子ども時代の記憶」として「方言札」を挙げて「(ウチナーグチを使うと)『汚い言葉を使うな』と言われたのですよね」「要するに『本土に追いつけ、追い越せ』で、『日本人になりたい』という気持ちが強くて、沖縄には素晴らしい文化が沢山あったのだけれども、それには蓋をして、ウチナーンチュ(沖縄人)が自分たちの地元の文化をどんどん手放していった時代と言えるのでしょうね」と語っています。

「差別される」恐怖心が奪った誇り 方言札が語る祖国復帰の思い | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 前々回及び前回の記事(注3でも言及していますが、当時の沖縄では「沖縄の精神や文化は時代遅れ」と看做され、「沖縄は経済的にも文化的にも(他の都道府県よりも)遅れている」「ウチナーグチなど沖縄の文化は恥ずかしい」とする「沖縄コンプレックス」が蔓延していました。

 玉城は「沖縄の文化から逃れ、ひたすら本土の人間になり切ろうと努力していた」と自らの過去を振り返ります。当時、本土への集団就職ブームが起こり、多くの若者が東京や大阪を目指しましたが、相変わらずウチナーンチュへの差別は激しく、低賃金で過酷な労働を強いられるといったこともあり、絶望して自殺してしまう若者も少なくありませんでした。玉城は、全国区の俳優になることを目指して沖縄を離れて東京の劇団で役者修行をしますが、東京での暮らしに生きづらさを感じていました。沖縄芝居の東京公演に巡り会い、舞台を飛び交うウチナーグチに魂を揺さぶられ、長い間抑えつけていた「自分はウチナーンチュである」との思いが堰を切ってあふれ出し、そのことをきっかけに沖縄に帰ることを決意します。

 沖縄に戻った玉城は、照屋林助に師事し、林助の導きで沖縄の「笑い」に目覚め、1983年にお笑い劇団「笑築過激団」を旗揚げします。

 笑築過激団は、ウチナーグチ(沖縄の方言)やウチナーヤマトグチ(沖縄の方言と標準語がチャンプルー(ごちゃ混ぜ)になった言葉)を使いこなす個性豊かな芸人たちの持ち味を活かした舞台で絶大な人気を獲得し、1991年にはテレビに進出して伝説のお笑い番組と言われる『お笑いポーポー』(RBC琉球放送)をスタートさせ、空前の「お笑いブーム」を巻き起こしました

 沖縄の言葉(ウチナーグチやウチナーヤマトグチ)を見事に使いこなす笑築過激団の舞台に魅せられ、長く取材を続けてきた沖縄タイムスの上間正敦記者(当時)は「僕らの中にある沖縄的なマイナスだと思っていたことについて『これは個性だよ』『これはプラスになるのだよ』『堂々とみんなに胸を張っていいことなのだよ』と表現してくれたのが、舞台上の笑築過激団であった」「まずは『お笑い』で気持ちをつかんで、よく考えてみると『これは沖縄のこういう部分を訴えているのだよね』ということがじんわりと出てくるという芝居だという気がします」と語っています。

 この「笑築過激団」や漫才コンピ「ファニーズ」が、沖縄の「お笑いブーム」の立役者であり、彼らをはじめとする沖縄の芸能やエンターテイメントが戦後沖縄の精神史に大転換を起こしたことは、この連載の(1)で述べた通りです。

 玉城は、沖縄の「笑い」について「悲しんだ島(である沖縄)にこれだけ豊かな音楽や踊りやお笑いがあるというのは、やっぱり必然として僕は受けとめます。当たり前なのかなという気がしますけどね。辛かったからこそ、その逆の『笑い』というものを、大衆のみなさんが笑いたいと(求めたのだと思う)」とインタビューに答えています。

 舞台「お笑い米軍基地」を主宰する小波津正光は、笑築過激団について「そこで使われている言葉とかキャラクターが衝撃でしたね。いままで自分たちが『ちょっと恥ずかしいなぁ』と思っていた沖縄の文化や言葉が堂々と使われている。(笑築過激団の舞台を観て)沖縄の人間として自信を持てた」と語っており、ウチナーンチュのコンプレックスを笑い飛ばした笑築過激団のDNAは、『お笑いポーポー』を通して「お笑い米軍基地」へと引き継がれています。

 

「沖縄の矛盾」を笑いに-舞台「お笑い米軍基地」(注4

 

 現在、FEC(ファニーズが立ち上げた芸能事務所)所属の芸人・まーちゃんこと小波津正光が企画・脚本・演出を担う舞台「お笑い米軍基地」が人気を博しており、毎年開催されている新作公演ではチケットが売り切れて入手困難になるほどの盛況ぶりです。沖縄の日常風景に存在する「米軍基地」を題材にした舞台であり、これまで東京や大阪、福岡など県外でも公演を行ったことがあり、沖縄の米軍基地問題に関連して全国的な報道番組(注5などで取り上げられたこともあるので、沖縄県以外にお住まいでもご存知の方が多くいらっしゃるのではないかと思われます。

 「お笑い米軍基地」主宰の小波津は、1990年代に芸人コンビとして沖縄で活動した後、2000年に活動の拠点を東京に移します。当時は全国的な沖縄ブームの絶頂期であり、「癒しの島」というイメージが広がり、沖縄を訪れる観光客は年間500万人を超えますが、東京へとやってきた小波津は、そのブームが表面的なものであることに落胆します。東京をはじめとする日本全国では、多くの人にとって沖縄はリゾート地であり、沖縄が抱える基地問題は他人事でしかありませんでした。

 「お笑い米軍基地」は、沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落した事故をきっかけに作り上げられました。

 2004年8月13日に沖縄国際大学のキャンパスに米軍のヘリコプターが墜落する事故(注6が起こります。事故直後、消火作業後に米軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察、消防、行政、大学関係者は一切現場に立ち入ることを許されませんでした。米軍に対する怒りは言うまでもなく、日本政府(当時は小泉内閣)の対応や全国のマスメディアの反応も、ウチナーンチュを憤らせ、落胆させるものでしかありませんでした

「米軍ヘリ墜落事故」の検索結果 – Yahoo!検索(画像)

 ヘリ墜落事故を受けて、地元の琉球新報・沖縄タイムス両紙は号外を出し、翌日の朝刊も当然のこととして一面トップで扱い、社会面でも大きく報道していましたが、事故当日のNHKニュースや翌日の全国紙がトップで報じたのは、ちょうど同じ日に開会式を迎えたアテネオリンピックと巨人軍の渡辺オーナーの電撃辞任のニュースであり、ヘリ墜落事故の取り扱いは小さく「その他のニュース」扱いでしかありませんでした(注7。当時東京にいた小波津は「事故への認識を巡る本土と沖縄のギャップに怒りを覚えた」と振り返ります。

「笑築歌劇団」の検索結果 – Yahoo!検索(画像)

 小波津は言及していませんが、稲嶺沖縄県知事(当時)が事故直後の8月16日に緊急に面会を求めたのに対して、小泉首相は夏休みを理由に断ります。当時の『朝日新聞』の「首相動静」欄によると8月13日夕方に高輪プリンスホテルに入ってから、8月23日夜に仮公邸に戻るまでの間、知人の通夜や党・政府関係者との食事以外は「終日、滞在先の東京・高輪プリンスホテルで過ごす」となっています。アテネオリンピックで金メダルを獲得した選手に直接電話して祝意を表して激励したのに対して、ヘリ墜落事故について、沖縄県知事に電話をして見舞ったり、政府の関係部署から報告を受けたり、指示を出すような目立った行動は一切記録されていません。

 小泉首相が稲嶺知事に会うのは墜落事故から12日も経過した8月25日のことでした。しかもかなり短時間の面談でしかなかったとのことであり、稲嶺知事が「早い時期に沖縄に来て基地の現状をつぶさに見ていただきたい」と要請したことに対して首相は返答することを避けています(注8。稲嶺知事と会った翌日の小泉首相のメールマガジン[らいおんはーと~小泉総理のメッセージ]は、「夏休みを終えて」とのタイトルで「高校野球とオリンピックをテレビで観て応援して感動した」という主旨の記述が大部分を占めており、稲嶺知事との面談については「昨日、沖縄県の稲嶺知事にお会いして、13日に米軍の輸送用ヘリコプターが沖縄国際大学構内に墜落した事故について、意見交換しました。
幸い死傷者は出ませんでしたが、大惨事になってもおかしくなかった事故でした。沖縄県の皆さんの憤り、心配は当然のことであり、政府はアメリカに対して、事故原因の調査と再発防止に全力を尽くすよう求めていきたいと思います」という、まるで他人事であるかのような短い文章を記すにとどまっています(注9

 ヘリ墜落事故から数日後、新宿でのお笑いライブに出演した小波津は、急遽ネタを変更してアドリブを始めて「沖縄の新聞ネタを持ち出して東京の人を説教する」というネタを披露します。観客の反応に手応えを感じた小波津は「米軍基地問題だけをネタにしたライブができるのではないか」と閃き、2005年に沖縄に戻り、「お笑い米軍基地」を旗揚げして基地問題や沖縄の矛盾をコントで表現します。

「お笑い米軍基地」の検索結果 – Yahoo!検索(画像)

 「お笑い米軍基地」では、戦闘機の騒音、普天間基地の移設計画といった沖縄の悩みの種をネタにして「笑い」に転じています。ネタの対象も、米軍や日本政府といった権力側だけではなく、普天間飛行場の移設予定地である名護市辺野古や県民大会で反対運動をしている人たちをはじめとして、ウチナーンチュ自身をもネタにして笑いを誘います。小波津は「県民が笑うことで『米軍基地問題はギャグにしていい』『笑っていい』と確信した。沖縄に転がっている問題はコントそのもの、ギャグだと改めて思った」と語っており、本来であれば笑ってはいけない(と思われている)基地の問題をあえてネタにすることによって、ウチナーンチュ自身が抱える違和感や矛盾そのものを浮き彫りにしようとしています。

 ウチナーンチュは「基地反対!」と言いながら、基地内で働いて生計を立てている人たちが大勢いて、米軍人・軍属を相手とするビジネスや米軍基地に関連する事業に従事している人々の数も決して少なくありません。また、基地の返還を求めながら(返還されないことを前提に)資産として軍用地が売買されていたり、基地周辺の米軍人・軍属向けの住宅が―「思いやり予算」(在日米軍経費の日本側負担)によって日本人向けの住宅よりも高額な家賃設定が可能となるので―将来にわたって高額かつ安定的な収入を得ることが期待できる収益・投資物件として取引されたりしています。
さらには、事件や事故を起こす米軍人・軍属に対する抗議集会の場などで「沖縄から出ていけ!」と叫びながら、日常的には「良き隣人」として彼らと仲良く近所づきあいをしていたり、嘉手納基地や普天間基地などで行われるカーニバル(お祭り)(注9を楽しんだりしています。

 沖縄の米軍基地を巡って、ウチナーンチュ自身が矛盾に満ち溢れているのです

 小波津は、ウチナーンチュの矛盾や自ら制作する「お笑い米軍基地」について、次のように語っています。

「相反する矛盾があるのが沖縄であり、私たちウチナーンチュなのです。客観的に見れば明らかにおかしなことなのに、当たり前すぎてツッコミするのを忘れて違和感すら覚えなくなってしまっていることが沢山あります」

「ウチナーンチュは、(米軍基地問題を巡る)自らが抱える矛盾を矛盾だとは思っていない。本土の人には理解し難いかもしれないけれど、それがウチナーンチュなのです。そこが面白さであり、悲しさでもある」

「沖縄の人には自分たちの姿や現状を客観視し、本土の人には沖縄の現実に興味を持ち、知ってほしい」

「基地受け入れに容認だの反対だのと考えを伝えるために舞台をしているのではない」「沖縄の人間としては、米軍基地はないほうがいい。でも、お笑い芸人としては、いつまでもあってほしいと思っていますよ。これも相反する矛盾ですね」

「芸人としては『お笑い米軍基地』を続けたいのだけれども、ウチナーンチュとしては、この舞台ができなくなることを願っているのも事実なのです」

 

本土と沖縄との間で「共感」することは可能なのか 「共感」を醸成する沖縄の「お笑い」の力に期待すること-

 

「沖縄のお笑い芸人は、いつの時代も悲しみを笑いに変えて人々を励ましてきた」(注11

 沖縄の幅広い世代に受け入れられて人気を博している「お笑い米軍基地」は、ウチナーンチュの「日常」―この場合、ウチナーンチュにとって身近な「日常」となってしまっている米軍基地を巡る問題―の中に笑いのネタを見出し、「悲しみ」や「憤り」を笑いに変えて「共感」を得るという点において、小那覇舞天から照屋林助、笑築過激団へと引き継がれてきた系譜に連なるものとして位置づけられています。

 現在、「お笑い米軍基地」がネタの素材としている米軍普天間飛行場の辺野古移設を巡って沖縄県と日本政府との対立が泥沼化しており、しかもその対立は沖縄県と日本政府との間にとどまることなく、沖縄県民やこの問題に関心を寄せる国民の間にも広まってしまっています。
その背景にあるのは、事件や事故を繰り返す米軍人・軍属に対するウチナーンチュの「怒り」であり、米国に依存する「半独立」の状態を変えることができない前提条件として思考停止に陥り、「丁寧な説明」という空虚な言葉をオウムのように繰り返して現状を恥じることがない日本政府に対する「憤り」です。そして、自ら当事者であるにもかかわらず、あたかも他人事であるかのようにしか問題を捉えることができない「シニシズム」に囚われた日本国民に対する「諦め」であり、沖縄が「地政学的に戦争及び軍事の問題から自由になれない場所」であるという自らの宿命に対する「悲しみ」なのです。

 沖縄と日本政府との間の対立を解消し、ウチナーンチュとヤマトンチュウ(沖縄県民以外の日本国民)との間に生じてしまった断絶を埋めるためには、沖縄を含む日本を取り巻く現実に対する認識を共有し、お互いのことを理解するように努め、「共感」を醸成することを解決に向けた第一歩とする以外に途はないように思えます

 現在のように、抗議のための県民集会を開いて「基地反対!」と声高に叫んだり、基地建設予定地で抗議の座り込みをしたり、平和の実現を訴えて行進するなどといった直接的な行動を通してウチナーンチュの「憤り」や「悲しみ」を表現するということだけでは―「全く効果がない」とまで断言することはできませんが―沖縄から遠く離れた本土で「我関せず」と生きる日本国民の大多数からの理解を得ることはできないのではないでしょうか。
「共感」を得るどころか、その意図することとは逆に「なぜ沖縄の人は、いつも怒っているの?」という疑問や「なぜ沖縄の人は、(地政学的な位置づけなど)自らの宿命を理解しようとしないのか」などと反発したり非難したりする気持ちを生じさせることに繋がってしまう危うさがあり、実際、ネット空間などで散見される「沖縄を誹謗中傷する言説」が、その証左であるように思えてなりません。

 沖縄から発信される「沖縄の基地問題」を巡る言説の中には、例えば、いわゆる「平和主義」に基づく非現実的な「夢物語」のような、とても「共感」できない-「共感」すべきではない-言説が数多く含まれているということも事実であり、そのような言説が蔓延してしまっていることがウチナーンチュと本土に住む日本国民との間で「共感」を醸成することの妨げになっているように思えます。

 本土にいる大多数の日本国民にとって「沖縄の基地問題」は他人事でしかない―という認識である―のかもしれませんが、戦争が終結してから既に78年(日本の主権回復からは71年、沖縄の本土復帰からは51年)という長い年月が経過しているにもかかわらず、たとえアメリカが我が国にとって重要な同盟国であるのだとしても、紛れもない日本の領土である沖縄の地に他国の軍隊である米軍の基地が大規模に存在し続けているという状況が、沖縄で暮らすウチナーンチュにとっての「悲しい現実」であるというのみならず、日本国民全てにとっての「悲劇」でもあるということは、改めて言うまでもない自明のことだと思います。

 本来であれば、ウチナーンチュと日本国民との間で、沖縄が(すなわち日本が)置かれている現実についての認識を「共有」することは、決して難しいことではないはずです。そして、我が国が防衛・安全保障の面において米国に従属している「半独立」の状態にある結果としての沖縄の現状が、「独立国としての日本の『あるべき姿』からはかけ離れた状態である」という認識を「共有」することさえできれば、そこからは、日本が「半独立」の状態であることの帰結として生じてしまっている沖縄の「悲しみ」と「憤り」に「共感」することまでの距離はさほど遠くはないと言えるのではないでしょうか。

 当然のこととして、沖縄と日本政府との間の対立を解消するためには、政治の場において徹底的に議論を尽くすしか途はありません。真摯に対話することを放棄して司法に判断を委ねることは「政治の堕落」であり、その点だけをとっても現在の政府の姿勢は非難するに値すると言えましょう。しかしながら、沖縄と政府との間の対話は必要不可欠なことではありますが、それだけでは不十分であることも紛れもない事実であり、現在の沖縄と本土との間に生じてしまった断絶を修復するために両者の間での「共感」を醸成することが求められるのではないでしょうか。
「沖縄の基地問題」に関して(ウチナーンチュを含む)日本国民の間で「共感」を醸成するためには、できるだけ多くの日本国民に、現在の「沖縄の実像」を「知ってもらう」というところから始めなければなりません。それには沖縄の「お笑い」によるカリカチュア(誇張的表現による社会風刺)を共に楽しむというところから始めてみるということも有効な手立ての1つであるように思えます。「お笑い」を含む沖縄発の芸能・エンターテイメントが果たしうる役割は大きいと言ってしまうのは、過度な期待をかけることになってしまうでしょうか。

 戦後の沖縄では、「沖縄のチャップリン」と称された小那覇舞天が悲しみに暮れる人々の家々を訪ねて「ヌチヌグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」と語り、共に歌い踊ることで人々を励まし、笑いの大統領「てるりん」こと照屋林助が「ワタブーショー」でウチナーンチュの「ヌチヂューサ(命の強さ)」を称え、日本とアメリカという大国の間で翻弄され続ける沖縄の世情を歌にして風刺しました。そして、「悲しんだ島に豊かな音楽や踊りやお笑いがあるというのは必然である」と語り、『お笑いポーポー』で沖縄の「お笑いブーム」を巻き起こした玉城満(笑築過激団)や「沖縄の漫才」をつくったファニーズが「沖縄コンプレックス」を笑い飛ばし、「ウチナーンチュの辛い思いや悔しい思いを引きずりながらも、笑うことで前に進めるというのが、沖縄の『笑い』の本質である」と語る小波津正光が「お笑い米軍基地」でウチナーンチュ自身が抱える「矛盾」をも含めて「沖縄の基地問題」を風刺することによって、ウチナーンチュの「悲しみ」と「憤り」を笑いへと変えて「共感」を得てきました。

 沖縄のお笑い芸人たちを含む芸能やエンターテイメントの世界で生きる人々は―恐らく、本人たちにその自覚はないであろうと想像しますが―「共感」を醸成するという力を発揮して沖縄と本土とを繋ぐ架け橋の役割を担うポテンシャルを有しているように思えてなりません。彼らがその力を存分に発揮する機会が訪れることを期待してエールを送りたいと思います。

 

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(注1)NHK制作『笑う沖縄 百年の物語』(2011年)

笑う沖縄 百年の物語  | NHKティーチャーズ・ライブラリー

笑う沖縄 100年の物語 お笑い米軍基地 – 動画 Dailymotion

(注2)笑築過激団

 1983年に玉城満を座長として結成された喜劇・コントを主とした劇団。沖縄コンプレックスを笑い飛ばしたその表現は1990年代に一世を風靡し、メンバーが出演するテレビ番組「お笑いポーポー」は一大ブームを巻き起こし伝説のお笑い番組として語り継がれている。メンバーの藤木勇人、新垣正弘、普久原明、川満聡、津波信一、ゆうりきやー、泉&やよいの面々は現在も活躍しており、年代的には中堅に位置していて沖縄芸能において欠かせない存在となっている(現在はみなさんフリーとして活動)。主宰の玉城満さんは、現在は国立劇場おきなわの理事に就任しており沖縄芸能の発展に努めている(映画『ファニーズ』パンフレットより)。

(注3)【藤原昌樹】「お笑いの島」沖縄について考える(1)ー映画『ファニーズ』を手がかりにして | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)及び【藤原昌樹】「お笑いの島」沖縄について考える(2) -ウチナーンチュの「悲しみ」と「憤り」の歴史- | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)

(注4)「お笑い米軍基地」小波津正光 (kohatsumasamitsu.com)

NHK制作『笑う沖縄 百年の物語』(2011年)

沖縄の〝笑っちゃう〟戦後史 風刺と郷土愛にあふれる芸人たちの系譜 (withnews.jp)

お笑いのネタは「米軍基地問題」、沖縄の芸人が探し求めていた答え (buzzfeed.com)

「基地を笑え!」――戦争の爪痕も負の歴史も特産品、お笑い芸人が問いかける「沖縄」 – Yahoo!ニュース

【新作コント収録DVD付ムック本】お笑い米軍基地2020 | お笑い米軍基地SHOP (stores.jp)

(注5)【全編】「沖縄で起きてることはコメディですよ」、舞台「お笑い米軍基地」が伝える 沖縄の感情と基地問題の実像【報道特集】|TBS NEWS DIG – YouTube

(注6)沖国大米軍ヘリ墜落事件 – Wikipedia

(注7)前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社、2013年

書籍詳細 – 本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 – 創元社 (sogensha.co.jp)

(注8)水島朝穂「沖縄ヘリ墜落事件から見えるもの 2004年9月13日 (asaho.com)

(注9)小泉内閣メールマガジン第152号(2004年8月26日)

asaho.com/jpn/bkno/2004/koizumimailmaga20040826.html

(注10)嘉手納基地アメリカフェスト(KADENA AMERICA FEST / Kadena Flight Line) | Okinawa Move (okinawa-move.com)及びFutenma (marines.mil)

(注11)『笑う沖縄 百年の物語』

(藤原昌樹)

 


〈編集部より〉

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