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【浜崎洋介】人間のための医療か、 医療のための人間なのか?  ー「過剰医療」批判序説

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

Ⅰ 現代日本における「過剰医療」の構造

 現代日本の「医療システム」の歪みを考えようとしたとき、森田洋之氏(医師・医療ジャーナリスト)の『日本の医療の不都合な真実──コロナ禍で見えた「世界最高レベルの医療の裏側』(幻冬舎新書)は必読だと思う。森田氏は、様々な統計データを示しながら、医療業界が先導したコロナ自粛がいかに不条理なものだったのか、あるいは、世界の医療政策に比べて、日本の医療政策がいかにいびつなものになっているのかを説得的に論じている。

 なかでも私が教えられたのは、日本の「過剰医療」の問題 が、「老人医療費無料化」という福祉政策(政府・公)と、それを担う約七割の「民間病院」(市場・私)との間の接合の悪さ、それゆえの矛盾に起因しているという指摘である。

 「民間病院」が増えていった理由について、森田氏は、次のように説明する。

 「敗戦後の日本では、戦争で荒廃した国土に医療機関を急速に整備することが重要な課題でした。その大部分を担ったのが、迅速な意思決定とスピード感を持った『民間病院』です。1970年代の老人医療費無料化のあと押しもあり、結果として1980~1990年代には日本の病床数は世界でダントツとなり、同時に医療の提供量と医療費も急増することになったのです。」『日本の医療の不都合な真実』幻冬舎新書

 しかし、そうなると、国及び財務省は、高齢化老人医療費無償化によって天井知らずで伸び続ける医療費を放っておくわけにはいかなくなる。とはいえ国に「民間病院」に対して、「病床を減らせ!」と直接に命令を下す権限はない。となれば、残された医療費抑制の手立ては、「診療報酬」(診療一回に対する収益)の引き下げしかないということになる。こうして、「診療報酬改定率」は、一九九七年頃から一貫して下がり続けてきたのだった。

 けれどもその一方で、診療報酬の引き下げに即して、病院の維持管理費や医療従事者の給与を下げられるかというとそうではないし、さらに、病院を建て、高額な医療機材を購入した「民間病院」の借金が消えるわけでもない──実際、日本の病床数は世界一位(米英の約五倍)であり、CT・MRIの保有台数も世界一位なのだ──。そこで病院は、収益維持のためには受診回数で稼ぐしかなくなり、より多くの患者獲得と「満床」を目指して奔走し始めることになる。要するに、医療の「薄利多売」というわけだが、その結果として、日本は世界に類を見ない「過剰医療大国」となってしまったのだった──外来受診者数は世界二位(北欧諸国の三~四倍)であり、入院患者一人当たりの平均入院期間数は世界一位である──。

 そして、その何よりの証拠が、森田氏自身が、「医師を続ける気が失せるほどの衝撃を受けた」というデータ──都道府県別の病床数の増減と、一人当たりの医療費との相関を示す全国の統計データである。それは“病床が増えれば増えるだけ、入院患者が増えている”という事実を、あるいは、“病床数に合わせて病人が作られている”とでもいったような疑惑を示唆している。

 しかし、ここまでくれば、人間のために病院があるのか、病院のために人間が提供されているのかが分からなくなってくる。現代の産業社会批判で有名なイヴァン・イリイチは、「〔産業社会の〕ある企図が〔多元的な人間生活の自然な〕規模の一点を超えて成長すると、まず、もともとそのためにその企図がなされた目的を裏切り、さらには急速に社会自体の脅威と化す」、そして、それが一定の「限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる」(『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二・渡辺梨佐訳)と書いていたが、その点、現代日本の医療とは、先般のコロナ騒動を見ても分かるように、「社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化」の兆候を如実に示していると言っていいだろう。

 かつて医療は、その「自然な規模」の限界内にあって、私たちの人生を支える貴重な手段であった。が、今や病院は、治療のためというよりは延命のために、チューブ管や、人工呼吸器や、人工透析装置などを駆動し続けなければならない場所に、あるいは、およそ八割の日本人にとっての「死に場所」に、私たちの「死」を管理する檻のような場所に変わってしまったかのように見える。

 だが、これは医師個人の問題ではない。それは自動機械と化した医療システム全体の問題であり、最終的には、私たち日本人の「死生観」をめぐる問題である。

 

Ⅱ 「世界宗教」となった近代医学   ──その過剰な「生権力」について  

 それでは、いつから医療は自動機械と化していったのか? そして、その自動機械が求め続けられている理由とは一体何なのか? あるいは、先進諸国のコロナ対策── ロックダウンや社会のリモート化──を徹底的に批判したイタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンの驥尾に付してこう言ってもいいかもしれない、──いつから、そして、なにゆえ人々は、精神的な生=情感的で文化的な人生(bios ビオス)から、身体的な生=純粋に生物学的な剝き出しの生 (zoê ゾーエー)だけを分割し、その統治を目指そうとしたのかと。

 むろん、その際に真っ先に参照されるべきは、アガンベン自身が、そこから己の思想的主題を見出すことになる ミッシェル・フーコーの思想──特に、その生権力と医学との関係を綴った『臨床医学の誕生──医学的まなざしの考古学』(原著一九六三年)であろう。

 フーコーによれば、近代医学における〈生かす権力〉は、流行病に対する政治意識の変化によって医学の「知」が再編される十八世紀末~十九世紀初頭に現れはじめたものだとされるが、それはコロナ騒動を潜った今こそリアルに問われるべき主題でもある。

 目に見えないウィルス感染を阻止するには、それを集団現象として追跡するための全国規模での監視体制及び国家による社会介入が必要となるが、それが、それまでは主に貧救院や施療院に限定されていた医療行為を社会空間全体へと一気に拡大させていくことになるのだった。

 以降、医学の「知」は、社会構造それ自体と深く結びつきながら、〈病を消滅させれば社会はその健全さを取り戻す〉という神話の下に、人々を「人口」(集団的動物)として効率的に管理するための技術、いわゆる「生権力」として整えられていくのである。そして、そのとき、個別具体的で多様な文脈を担って生きられていた文化的「生」(bios ビオス)は、医学的なまなざしによって一元的に捉えられた生物的な「生」(zoê ゾーエー)へと還元され、その「まなざし」によって生を統治する規範的人間科学が成立したのだった。

 とはいえ、一定の〈規範=権力=抑圧〉のない社会があり得ないことを考えれば、問われるべきは「権力」の有無ではない。むしろ、見定めるべきは、その「権力」が、私たちの生を裏切って暴走するその瞬間であり、さらには「権力」がプラグマティックな意味範囲を超えて肥大化していってしまうその理由である。

 実はフーコーは、それを考える手掛かりも与えている。

 「聞くまなざしと語るまなざし。臨床医学の経験は、ことばと光景との間の一時的平衡状態をあらわす。この平衡は危っかしい。なぜならば、それは一つの恐るべき仮定の上に立っているからである。すなわち、すべての可視的なものは陳述可能なものであり、それは完全に陳述可能だからこそ、完全に可視的なのだ、という仮定である。〔中略〕しかるに、臨床医学の思考の枠ぐみは、この仮定に対して完全な首尾一貫性を持っていない。したがって、可視的なものを、余すところなく陳述可能なものの中に還元しうるという考えは、臨床医学においては、根源的に原理というよりも、むしろ一つの要請、また一つの限界であるにとどまる。完全な被記述性という地平は現前していながら、遠くしりぞいている。それは基本的な概念的構造であるよりは、はるかに多く、ある思考上の夢なのである。」『臨床医学の誕生──医学的まなざしの考古学』神谷美恵子訳、みずす書房、傍点本文

 この近代医学における〈可視的なものは全て記述が可能 である〉という「仮定」、あるいは、その近代主義的な「要請」と、決して記述には還元しきれない現実の身体とのズレ。このズレは、まさしく、コロナ騒動のドタバタを引き起こしたのと同じものだろう。ウィルスを可視的なものと見做し、その感染経路を記述し尽くし、それを完全に管理しようとすればするほど、その「要請」によって排除されたのは、ウィルスそのものではなく、むしろ私たち自身の身体生活だったのではなかったか。要するに、近代医学が目指す「完全な被記述性という地平」とは、文字通りの「思考上の夢」であり、近代のイデオロギーだということである。

 と同時に、ここで決定的に重要なのは、その近代医学のまなざしが、〈屍体空間=病理解剖学〉を媒介として成立したことを指摘するフーコーの言葉である。現実の臨床=目の前で生きている人間の診断においては、諸症状の交差や個人差のために乱されがちな医学的なまなざし(病の記述) は、しかし、屍体においては一定の形と法則を得て可視化され、目に見えるモノとして整序される。つまり、現実に動いている人生(bios ビオス)から、医学的な生(zoê ゾーエー)を分割する作業において、決して動くことのない「屍体」こそが、〈人間科学のモデル=典型的模型〉の役割を果たすことになったのだということである。

 むろん、「模型」に頼るのは医学に限った話ではない。科学において一定のモデルを使うことは、時間的持続(無限 性=複雑性)を分割された空間(有限の数字=分析可能性)に還元するのに必須の手続きである。だが、「模型」への過剰な依存は、まさにエーリッヒ・フロムの言う「ネクロフィリア」(『悪について』)──動かぬ屍体に魅惑されること=透明になり切らない「生」への憎しみ・ルサンチマン──を呼び起こさないとも限らない。不透明な現実を数量化し、抽象化し、物象化し、合理化し、機械化し、官僚化すること。そのシステムへの意志によってあらゆるリスクを計算可能性のなかに囲い込み、現実を見透そうとすること、そんな管理主義の過剰と、その野蛮を誘発しかねないのである。

 しかし、それなら、近代医学が「要請」する「完全な被記述性という地平」(管理への意志)の背後には、宗教的共同体と伝統とを失い、人生の形=型を見失い、どうやって「死」を受け入れればいいのかが分からなくなってしまった近代個人の不安が潜んでいると言うべきではなかろうか。

 たとえば、『脱病院化社会──医療の限界』(原著一九七六年)のなかでイヴァン・イリイチが描き出していたのは、 宗教改革以降、不気味なものと化してしまった「死」に、改めてその方向性を見出し、「異常な死」(病死や事故死)から「自然死」(正常な望ましい死)を区別し、その権利を皆に平等に分け与えることのできる近代医学の宗教性だった。イリイチは言う、「工業の優位は、最も伝統的な団結の絆を分裂させ、しばしばばらばらにしてしまう。〔その一方で〕工業化された医療の非個人的な儀式は人類一体の代替物をつくり出す」、「死の医療化によって、健康ケアは一体化した世界宗教になり、その教義は義務教育で教えられ、その倫理的ルールは環境の官僚主義的再編成に適応される」(金子嗣郎訳、〔 〕内引用者)だろうと。

 こうして、十八世紀末に登場し、十九世紀にその基盤を整え、二十世紀に全盛を迎えた〈近代医学=世界宗教〉は、 二十一世紀の冒頭、あのコロナ対策において、そのカルト性を遺憾なく発揮することになったのだった。コロナ死は「自然死」の権利を奪われた「異常な死」として処理され、それと闘う医療関係者は聖人のごとく称えられ、医者の言うこと──三密の回避、マスク着用、ワクチン接種、新しい生活様式──に従うことは、あたかも善良な信者の義務のように語られ、コロナウィルスと闘うためなら、鬱になろうと神経症になろうと、それも必要な犠牲だと見做されたのである。人々は、家族と共に生きる権利を捨てても、病院に収容されることを望み、結果、自動機械の「家畜」となり果ててしまったかのようだった。

 コロナが猛威を振るっていた二〇二〇年四月十九日、ジョルジョ・アガンベンは、スウェーデンの公共ラジオのインタビューに対して、こう答えていた、「イヴァン・イリイチはこの〔文化的ビオスと、生物的ゾーエーとの〕分割に対する近代医学の責任を示しました。〔…〕この抽象が近代科学によって、身体を純然たる植物的生命状態に維持できる蘇生諸装置を通じて実現されたものだということが、私にはよくわかっています。人間が純然たる植物的生命状態で維持された場はこれ以外にかつてひとつしかなく、それがナチの収容所だと指摘しておく必要があるでしょうか?」(『私たちはどこにいるのか?』高桑和巳訳)と。

 

Ⅲ 「自分の死」を守ること  ──自動機械化するシステムに抗して

 ところで、「闇を払うこと」は、本当に寿ぐべき「進歩」だと言えるのだろうか。なるほど、Enlightenment が「啓蒙」(蒙を啓く)と訳されるように、それは確かに、私たちの心から「闇」のなかを手探りで歩かねばならない怯えや恐怖を一部取り去ってくれたのは事実である。

 が、それでも「闇を払うこと」と「闇を払いきれると信じること」とは違う …

〈続きは本誌でお読みいただけます〉

 


〈編集部より〉

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