【読者投稿】「信州でLRTの有効性について考え、地方から声を上げる」/「スマート農業が私をバカにする」/「「進撃の巨人」のブームとは何だったのか?」

啓文社(編集用)

啓文社(編集用)

表現者執筆者 作:たか

 本日は本誌115号より「読者投稿」3通をお届けいたします(Web版のみでの掲載記事はこちらから https://the-criterion.jp/letter/ )

『表現者クライテリオン』では毎号、「読者からの手紙」というコーナーにて、皆さまからの「批評」や「感想」、文字通りの「手紙」などを掲載しており、「表現者賞」の選考対象にも含まれます。

投稿は1200字〜1600字程度で随時募集しております。沢山のご投稿をお待ちしております。

ご投稿は下記メールアドレスまでお送りください(審査を通過したものを掲載し、原則として審査結果の通知はいたしません)。
info@kei-bunsha.co.jp

 

///Webで読む///


信州でLRTの有効性について考え、地方から声を上げる

前田一樹(信州支部、39歳、公務員)

 

 『クライテリオン』三月号の特集は「日本を救うインフラ論――今、真に必要な思想」であり、インフラの重要性について取り上げられています。その号の「座談会①」の中で、元参議院議員の脇雅史氏の言っていた一言に触発されるところがありました。

 脇氏は緊縮財政によってインフラ投資が進まないまま来ている現状の打開策について聞かれ、

 「この国を良くしようと思う気持ちは皆持っているはずなので、とにかく声を上げて、強い意見としてまとめていくことが大事ですが、他力本願ではなくそれぞれができることをやらないといけません。どこかでうまくいった事例を他の地域も真似するような状況になるのが一番です。今生きているそれぞれの人たちが、『俺のところはこうしたい』という発想を大事にするところから始めるしか道はないな、というのが最近の思いですね。」(『クライテリオン』三月号、三〇頁)

と発言されていました。

 財務省が強いてきた緊縮財政は日本に「失われた三十年」という、巨大な害悪をもたらしていますが、それを批判するのと並行して、各地域において自分達が住む地域をどうしたいのか住民が議論し、アイディアを出していくことが必要です。

 予算が付いただけでは、それを有効に活用する方法が明確になりませんし、地域について自ら考える「地域住民の公共心」がインフラ整備において欠かせないという点からもそう言えます。

 つまり、《トップダウン=財務省批判》と《ボトムアップ=地域づくり論》の両方が求められるのではないか、ということです。

 また、「どこかでうまくいった事例」という点で思い出されたのは、最新号の別の箇所でも取り上げられています、昨年、宇都宮に開業した「LRT(ライト・レール・トランジット)」です。バスと違い渋滞に左右されることなく定時に運行し、乗降もスムーズで、車に依存せずに買い物や飲食ができるという、実現すれば地域の人々の暮らしに新しい足を提供する、今後期待の持てる公共交通機関です。

 実際、反対運動などもあり二十年ほど設置までに時間がかかったとのことですが、利用者は多くおり、「開業から一六五日目で累計利用者二〇〇万人」を達成し、平日は、「一万二〇〇〇人。休日は九〇〇〇人」が利用しているようです。

 上記の二点について思いを巡らせたことで、クライテリオンの議論をベースに長野県という地域で活動する「信州支部」にできることとして、長野県にもLRTを導入してはどうかという趣旨で、「LRTの有効性をアピールするシンポジウム」を開催することを考えました。

 まだ構想段階ですが、信州支部に参加しているメンバーとも相談しつつこれから企画を練っていきます。詳細が決まり次第お伝えしていきますので、実現した際は是非足をお運びいただければ幸いです。

 


スマート農業が私をバカにする

北澤孝典(信州支部、50歳、農家)

 

「ロボット技術やICTを活用して超省力・高品質生産を実現する新たな農業を実現」。農林水産省が掲げるスマート農業のウェブサイトには、自動運転トラクターやドローン、圃場を遠隔管理するソフトウェアなど、その時々の最先端機器が次々と紹介され、現れては消えている。

 私は、東日本大震災を首都圏で経験。地獄絵図とまではいかなかったが、都心から放射線状に地方に伸びる街道には夜な夜な革靴とハイヒールが鳴り響き、その後もしばらく店頭から生活必需品が消えたのを鮮明に覚えている。

 ハイレベルな仕事とコンビニエンスな生活に欲を出し、田舎を捨て都会への転職を試みたが、そんなカタカナ生活は諸刃の剣だと思い知らされ、震災一年後には、生まれ育った長野県で農業を始めていた。

 専門は果樹で、りんごを中心とした果物を露地栽培で育てている。世襲農家でないため、土地も設備も無い状態で、家族を抱えての就農は、今になって考えてみれば無謀ではあったが、そこで、痛感したのは、農村の営みの有難さだ。

 当時は、家内と二人、世話の行き届いた果樹園地を探しては、それぞれの園主に声をかけ、一年を通じて、直接農業技術を教えていただくことが出来た。公的な研究所が発刊しているマニュアル本からも知識を得るが、永年に亘って良質な作物を作り続けている先人たちの教えに勝るものはなく、経験に裏付けされた口頭伝承が如何に大切か、身に染みて感じている。十年程経つ今も、定期的に師匠の指導を仰ぎに行く日々が続いている。

 六月の杏以降、桃やぶどう、そして晩秋のりんごまで、様々な果実が収穫できるように植樹しており、十二月に最後のりんごを採り終えた。やはり、農の最大の喜びは、収穫作業である。里山にも雪が降り始める季節の畑仕事は、体力的にも負担だが、早朝から日暮れまで、不思議と気分は高揚を続けた。

 実りを得るという行為に対し、身体が内側から喜んでいるためだろう。スマート農業の一例として、果実をセンサーカメラで探し出し、伸びたロボットアームが一つずつ籠に収めていく最新機器が話題になっていたが、「収穫の喜びを機械なんかに取られてたまるか」と、隣で作業をしていた家内と同意し、子供達と喜びを分かち合った。

 弥生時代から始まる水稲農業と違い、我が国の果樹栽培の歴史はごく浅く、新しい技術や設備を必要とし、私自身もその恩恵を多分に受けていることは事実だ。しかしながら、スマート農業に象徴されるような一瞬の技術革新競争には、どうも抗いたくなる。

 先述したように、大切な技術は、地元の先人から教わることが多く、その言葉には、マニュアルで記されるような机上の浅はかさも無責任さもない。複雑極まりない自然環境の中で、神経を研ぎ澄まし、人間としての叡智を結集して導き出しているからだと思われる。

 ただ便利なだけの技術を盲信し、人類全てがバカになることを描いたアメリカのブラックコメディ映画『26世紀青年(Idiocracy)』。この映画でも、農業が人類の白痴化を救うカギとして、重要な役割を担っている。

 一秒ごとに新しいモノを競うのもけっこうだが、歴史の中で磨かれ、文字通り培われてきた先人たちの教えに、今後も私は耳を傾けたい。

 


「進撃の巨人」のブームとは何だったのか?

たか(千葉県、41歳、イラストレーター)

 

「進撃の巨人」は大きな壁に囲まれ巨人の恐怖を忘れ安穏と暮らす人たちの平和が壊れることから始まる。

 私は「進撃の巨人」をほぼ初期の頃から見始めた。ちょうどその頃に東日本大震災があり、にわかにTPPが可決されるのではという危惧もあり、また中国、ロシアがたびたび領域侵犯を起こし、日本の安全神話、壁が壊れ崩れていったことと時期がシンクロして起きた話でそのことが少なからず読者の共感を呼ぶものだったのではないかと思う。

 まず「進撃の巨人」の魅力といえばその激しく暴力的な世界観にある。それまで死とかけ離れた世界だったのが一気に死が身近になりまたその死がどうしようもなく残虐で、巨人に生きたまま食われたり、引きちぎられたり、押しつぶされたり、巨人が言語を介さないのでどんなに泣こうが喚こうが非情で残酷に殺されてしまう、そのような世界が衝撃的で読者の心に刺さるものがあったように思う。

 巨人という圧倒的絶望な存在、どんなに備えようと身構えようと奥の手を尽くしても太刀打ちできない、どうすることもできない絶望、恐怖、無力感、これは東日本大震災の時に起きた津波のように感じた人も少なくないのではないかと思う。そういった残酷で非情な世界が当時の日本の置かれた状況、現実とシンクロするところがあり話題や共感を呼んだ一因だったのではないかと思う。

 そしてそのどうしようもない圧倒的な存在に母親を目の前で食われてしまう主人公エレン。ここでエレンに起こった感情が絶望でも悲しみでも恐怖でも諦めでもなく、どうしようもないほど抑えきれない怒り。トラウマになるような情景に普通であれば絶望して塞ぎ込む、引きこもる、誰とも口をきかなくなる、そういった生き方になってしまうものだが、しかしエレンはそのすべてを怒りに変えてしまう。この主人公の姿勢に引き込まれていく人が多かったのではないかと思う。

 新兵になって初任務で宿敵の超大型巨人と相対することに。だがエレンは恐怖することも屈することもない。チャンスだとばかりに立ち向かう。色々あってエレンは瀕死に追い込まれる。それでも心は絶対に折れない。怒りをもって自らの命を呈して友を助ける。狂ったような怒りによってありとあらゆるものを飛び越えていってしまう。その情景に誰しもが憧れ共感してしまったのではないか。

 そしてミカサのピンチに巨人となって現れ絶望を叩き潰す。圧倒的力でぐうの音も出ないくらいにねじ伏せる。ここにどうしようもないくらいのカタルシスを感じ「進撃の巨人」という作品にのめりこんでしまったのではないかと思う。

 思えば私たち日本人は怒りを中に溜め込み発することなく終わってしまいがちなのではないか。子供であれば親に、学校、部活や塾の先生に、いじめっこ、教育、受験。大人であれば会社の同僚や上司、取引先やお客さん、家族、ご近所さん、社会、政治。どんなに不満や怒りがあっても、色々な理由で起きたそのストレスを自分のうちに留めるしかない。それが今の私たちのリアルな現実。そのうちに溜まったストレスを怒りによって、全く臆することも恐怖することもなく飛び越えてしまう。ここが「進撃の巨人」の最大の魅力だったのではないかと思う。

 思えば過去の名作もそういったものが少なくないように思う。例えば「ドラゴンボール」。色々な名シーンがあるがもっとも読者に心に残ったのは親友のクリリンを目の前で殺され圧倒的怒りによってフリーザをねじ伏せる悟空の姿なのではないか。

 日本人だけではないが特に日本人は溜め込んでしまう性質だ。そして中に溜め込むからそれを発散したい欲求が強く下剋上、ジャイアントキリングがとても好きだ。だからこそ圧倒的怒りで全てのものを超克する姿勢に憧れ魅力を感じ空前のブームを起こしたのではないかと思う。

表現者執筆者 作:たか

 


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