ヨハン・ガルトゥング氏の『日本人のための平和論』について論じた前回の記事に対して「いま日本の近くで戦争が起こるとすれば台湾有事です。具体的現実的平和を語ろうとすれば、これについて語らなければなりません」とのコメントを頂戴しました。
『日本人のための平和論』(ヨハン・ガルトゥング,ダイヤモンド社,2017)
コメントしてくれたBさんは、現在、台湾で盛んに論じられている「平和論」を「民進党的平和論」と「国民党的平和論」とに大別して、次のように要約してくれています。
・民進党的平和論
国防を強化し、米日と連携し、欧州など価値観を共有する国々の支持を強化して中国の台湾侵攻を抑止する。
・国民党的平和論
アメリカは台湾を守らない。自主防衛も無理だ。金がかかりすぎる。反中をやめて中国と仲良くすべきだ。対中融和を図るべきだ。一定の譲歩はやむを得ない。
さらにBさんは、台湾の輿論について「この二つの路線で台湾は揺れており、民進党派は、米軍の台湾駐留を歓迎している。沖縄の米軍駐留についても台湾の近くに米軍が駐留していることが中国の台湾侵攻抑止に役立っていると歓迎しており、冗談混じりに『在日米軍駐留費の一部を台湾政府が負担すべきだ』という人までいます」と述べて、「台湾有事は日本の有事」とは安倍晋三の名言であり、台湾は「薄氷の平和」を維持しながら「中国の民主化=中国共産党政権の崩壊」を待つしかなく、「中国の民主化が達成されればアジアに恒久平和が訪れる」として、台湾民進党の平和論を支持する旨を明らかにしています。
台湾の現状に関するBさんの認識は極めて的確であるように思えます。私自身、「どちらの平和論を支持しますか」と問われれば、基本的には「民進党の平和論を支持する」と答えます。しかしながら、私は国民党の「アメリカは台湾を守らない」との認識をも共有しており、「釈迦に説法である」ことを承知しつつも申し上げると、台湾は日米や欧州諸国など価値観を共有する国々の支持と協力を確保することに努めると同時に、台湾有事の際に「アメリカは助けてくれないかもしれない」ということをも念頭において、自らの防衛力を強化することに、より力を注がなければならないように思います。
その一方、我が国の防衛・安全保障について考えてみると、日米同盟や日米安保の意義と重要性を否定するものではありませんが、日本の周辺で有事が発生した場合にアメリカが「軍事介入をするか否か」は、あくまでも「アメリカの国益に利するか否か」によって決まるのであり、「台湾有事」や「尖閣諸島周辺での不測の事態」など「日本有事」が起こった際に「日米同盟や日米安保に基づき、必ずアメリカが助けに来てくれる」などといった期待は「極めて根拠が薄弱である」と言わざるを得ません。「日本の防衛を担うのは一義的には我が国の軍隊(自衛隊)である」という至極当たり前のことを、いま一度確認しておく必要があるように思います。
路線の対立がありつつも、有事に対する危機感が広く共有されている台湾と比べて、現在の対米従属の「半独立」状態に疑問を持つことさえなく、国民の間で「独立国に相応しい防衛・安全保障体制の確立」に向けた気運が一向に高まらない我が国の「危機感のなさ」に危機感を覚えてしまいます。
前回の記事では、ガルトゥング氏が『日本人のための平和論』で提示した論点のごく一部に焦点を当てて論じることしかできませんでした。
以下では、Bさんからのコメントを踏まえた上で、前回の記事で触れることができなかった「構造的暴力」の概念、ガルトゥング氏が思い描く「理想の世界」のイメージなどについて論じてみたいと思います。
「平和学」では、ただ暴力や戦争がないだけの状態を「消極的平和」」(negative peace)とし、共感に裏づけられた協調と調和がある状態を「積極的平和」(positive peace)としています。
肉体的暴力、精神的暴力、性的暴力などといった「直接的暴力」(direct violence)に加えて、貧困や差別、格差など社会的構造に根差している「構造的暴力」(structural violence)という概念を提起したことで、従来の「平和=戦争のない状態」と捉える「消極的平和」に加えて、戦争の原因ともなる「構造的暴力」がない状態を「積極的平和」とすることが一般的な解釈として確立しました。
『日本人のための平和論』では、1965年に南ローデシア(現在のジンバブエ)を訪れた際のエピソードを例に挙げて「構造的暴力」について論じています。
当時、圧倒的に黒人が多数を占める南ローデシアをわずかな数の白人が支配する体制が確立しており、現地の白人が「1923年以来、白人による黒人の殺害は1件もない。この国は平和だ」と語ったことに対して「人口の4%しかない白人が96%の黒人を支配し、良い土地は全て白人のもので黒人は全てを奪われている。平均寿命も黒人は白人の半分しかない」と反論したことを明かし、「この状況を『平和』と呼ぶのなら私は『平和』に反対しなくてはならない」と述べています。確かに、言葉の通常の意味での「暴力」(=直接的暴力)はなかったのかもしれませんが、当時の南ローデシアにおける96%の人々の苦境は社会的構造に組み込まれた「構造的差別」によってもたらされたものです。
意図的な作為である「直接的暴力」に対して、「構造的暴力」は無数の意図しない不作為―主体なき行為―の結果であり、問題の予防や解消のためにできることがあるにもかかわらず、それを行なわないことで「構造的暴力」が生まれます。予防とか解消とかを語る以前に、そもそも他者の苦しみにも、問題の存在にも気づいてさえいないのが「構造的暴力」なのであると論じています。
私たちは「消極的平和=戦争がない状態」が実現していることをもって満足するのではなく、「構造的暴力」がない「積極的平和」の実現を目指すべく努めなければならないということは否定すべくもありません。
「構造的暴力」(structural violence)という概念を提示したことが、「平和学」の大きな功績の1つであると言えるように思えます。
ガルトゥング氏は「国家間の軋轢や対立の原因は『主権国家システム』という現在の世界の構造にある」として「国境を開けば、世界は『主権国家システム』から『地域共同体システム』へと進路を変えることができる」と語ります。
「『主権国家システム』が続く限り、システムの中枢の座を巡って、あるいはシステム内の適所(ニッチ)を巡って、多面的な競争が絶えず続けられる。ある国がある面で他をリードすれば均衡と調和が崩れ、他国は別の面でリードを取り返そうとする。そこには常に戦争のリスクが存在する」と論じて「『地域共同体』によって構成される世界が紛争を終わらせ、協調と調和を獲得する方法だと考える」「私の世界地図の上にはいくつかの共同体が存在している」として、現在の「主権国家システム」を超克した「地域共同体システム」を「理想の世界」のイメージとして思い描いていることを明らかにしています。
ガルトゥング氏が「主権国家システム」を超克した「地域共同体システム」を「理想の世界」と位置づけていることを確認することで、『日本人のための平和論』で中国の「中華思想」や「拡張主義」について論じてはいるものの、「台湾」については「中国の世界観(注1)において『台湾』は『中国のポケット』の中にある」と述べるにとどまり、ほとんど言及していないことが腑に落ちるような気がします。
同書において明示的に論じられている訳ではありませんが、「地域共同体システム」の確立と台湾が主張する「二つの中国」論-台湾が大陸中国から距離を取り、「独立国家」としての体制を維持すること-は逆方向、少なくとも異なる方向を向いたベクトルであると看做さざるを得ません。その一方で、中国が主張する「一つの中国」論―正統性を持った「中国」の国家は一つしか存在せず、中国と台湾は一つの国家が不可分に統治しなければならない―は、「地域共同体システム」の一つである「東北アジア共同体(North East Asia Community)」の確立へと向かう途中経過である、あるいは少なくとも同じ方向を向いたベクトルであると位置づけることが可能となります(注2)。
ガルトゥング氏が思い描く「理想の世界」のイメージに「東北アジア共同体」が明確に位置づけられ、将来的に「台湾」が「一つの中国」の一地域として「東北アジア共同体」に包含されるべきであると考えているのであれば、彼が「台湾有事」や独立国家「中華民国台湾」の将来像について論ずる必要性を感じることがなかったとしても何ら不思議なことではありません。
中国の側から見ると、ガルトゥング氏の「東北アジア共同体」構想は「中華思想」という自らの世界観や「一つの中国」論と親和性があり歓迎すべき構想であると捉えることができるのかもしれません。しかしながら、中国の「世界観」において台湾と同じく「中国のポケット」に属する香港で民主化運動が弾圧され、チベットや新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区などで中国共産党による少数民族に対する民族浄化や強制的同化政策が行われるなど地域の人々が苛酷な状況に追いやられているという事実を鑑みると、「東北アジア共同体」構想に基づいて台湾が「一つの中国」に組み込まれてしまうことが台湾の人々にとって「望ましい将来像」であると考えることはできません。
私には、台湾が、中国が掲げる「一つの中国」を拒否して「二つの中国」を維持し、将来的に独立国家「中華民国台湾」の実現を目指すことは至極当然のことであるように思えます。
「主権国家システム」を超克した「地域共同体システム」を構築することは、現在の「主権国家システム」が抱える課題を解決するための選択肢の一つであると言えるのかもしれませんが、それを最適なシステムであると位置づけることには無理があります。
「地域共同体システム」が最適であるためには、少なくとも「積極的平和」の実現に寄与することが必要条件になるものと思われますが、その保証など何処にもありません。それどころか、現在の「主権国家システム」から「地域共同体システム」への転換が「直接的暴力」や「構造的暴力」を固定化することや拍車をかけることに繋がり、かえって「積極的平和」の実現の妨げとなり、「消極的平和」を崩壊させる可能性さえ否定することができません。
「地域共同体システム」の構築と「積極的平和」の実現との間には、かなり大きな距離があることは間違いなく、「地域共同体システムの構築」=「積極的平和の実現」=「理想的な世界の実現」とする「平和学」は、あまりにも「楽観的に過ぎる」と看做さざるを得ないように思えます。
ガルトゥング氏は「いま日本は、近隣諸国との領土問題、歴史認識問題、沖縄の基地問題、集団的自衛権の問題、自衛隊の海外派遣問題など、さまざまな問題を抱えている。それら全ての背景に、米国の世界戦略と日本の対米追従がある」として、日本に対して「①領土の共同所有、②東北アジア共同体、③専守防衛、④対米従属からの決別」といった4つの政策を提案しています。
「我が国が抱える様々な問題の背景に米国の世界戦略と日本の対米追従がある」との認識と「対米従属からの決別」を目指すべきであるということについては「まさにその通りである」と首肯できますが、その他の提案については、それぞれ慎重に検討しなければならない要素を孕んでいるように思えます。
「領土の共同所有」については、前回の記事で論じたように、当事者双方の間で「領土問題はゼロサム・ゲームではない」との共通認識が成立し、信頼関係が構築されていることが必要不可欠な前提となりますが、その共通認識や信頼関係を成り立たせること自体が極めて難しい課題であると言わざるを得ません。
「平和学」では「東北アジア共同体」(を含む「地域共同体システム」)を構築することによって「戦争に繋がる国家間での多面的な競争」を克服することができると想定しています。しかしながら、たとえ「地域共同体システム」が構築できたとしても、多面的な競争の主体が「主権国家」から「地域共同体」に置き換わるだけであり、それだけで必ず「戦争のリスク」が低減すると想定するのは楽観的に過ぎるように思えてなりません。
また、「地域共同体システム」構想は、既存の欧州連合(EU)をモデルケースとして想定しているものと思われますが、曲がりなりにも「民主主義とキリスト教」という共通の基盤を有するヨーロッパ諸国と比較して、そのような共通基盤がないアジア地域における「地域共同体」の構築は、より困難な道程であると想定しなければなりません。
さらには、多様な価値観と異なる歴史を有する複数の「主権国家」を、単に「空間的に近接している」という理由だけで一つの「地域共同体」にまとめてしまうことが、それぞれの「主権国家」にとって目指すべき「望ましい将来像」であるのかについて、各々の事情に応じて慎重に検討をする必要があるように思えます。
「専守防衛」について、前回の記事では、「対米従属」を無批判に受け入れる議論や「絶対平和主義」に基づく「平和論」などと対比して、「平和学」が「極めて現実的な戦略」を提起しようとしていると肯定的に論じました。我が国の「防衛・安全保障体制」の目指すべき方向として「専守防衛」が検討すべき選択肢の一つであることは間違いありません。
我が国の「防衛・安全保障体制」のあり方に関しては、国際社会からの度重なる警告や制裁を物ともせずに核実験や弾道ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮が、核兵器とICBМの技術を完成させて実戦配備をするのがもはや時間の問題であり、アメリカによる「核の傘」が機能することも期待できないという厳しい現実を踏まえた上で考察する必要があります。
国民の間でコンセンサスを得ることが必要であり、被爆国であるということもあって国民の間に「核に対するアレルギー」が広く存在していることをはじめとして、実現するためにはかなり高いハードルがあることは承知しておりますが、私自身は「専守防衛」と「核保有」という「攻撃的防衛」(但し、予防的先制は否定し、あくまでも報復目的に限定する)の組み合わせが、我が国にとって最も効果的な「防衛・安全保障体制」であると考えており、詳細については、また機会を改めて論じてみたいと思います。
その他、ガルトゥング氏は同書において「移民・難民」の問題と関連づけて「共同体の再構築」と「地域社会の活性化」について、E・F・シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』を参照しながら、次のように論じています。
「日本では、難民や移民の問題が人口減少や高齢化に伴う労働力不足対策という文脈で議論されることが多いが、労働力不足問題は移民に頼るのではなく自国でできる解決策に着手すべきだ」「移民に頼る方向に舵を切る前に、産業分野ではハイテク技術の更なる活用や高齢者の活用、農業分野では高齢者の活用による農業再建を考えるべきだ」「農業再建は安全保障の基本である食糧自給にも繋がり、そのためには衰退の一途をたどる農村の活性化が急務である」「その方策として、若者と高齢者をつなぎ、高等教育を受けた人々とそうでない人びとをつなぎ、農業と小規模な製造業をつなぐための協同組合を推奨する」「そこに教育的要素を加味することで、若者たちは農村での暮らしを体験し、農村の人々は若者たちを通して都市の文化に触れることができる」「社会が、過疎化した時代遅れの農村集落と、様々な機会や創造性を謳歌する都市に二分されたような時代はもう終わりに来ており、両者をミックスすることでより良い未来が開ける」「かつての日本には豊かな共同体主義が根づいており、地方を旅すると、アイデンティティ、帰属意識、近隣の人々との良好な関係、交流、交換、多彩なアイデア、平等といったものを内包する伝統的な村落の佇まいがあったが、それはいま急速に姿を消しつつある」「日本という国家がそれを容認しているように見える」
長年にわたって新自由主義に席巻されてしまった我が国において、「共同体の再構築」と「地域社会の活性化」に向けた道程が極めて厳しいものであることは否定できません。
しかしながら、例えば、能登半島地震の被災地に対して「復興より移住を選択するべき」などと宣う我が国の政治家や言論人の言葉などよりも、よほど有益で傾聴に値する提言であるように思えます。
前回の記事では、ガルトゥング氏の「平和学」が「人間の可謬性」を前提にして「保守思想」と高い親和性を有していると看做し、我が国に根づいてしまった「対米従属」を無批判に受け入れる議論や沖縄に蔓延る非現実的な「夢物語」と対比して、極めて現実的な選択肢を提示しようとする「現実的な平和論」であるとして肯定的に論じました。
しかしながら、その一方で「平和学」が、例えば、ガルトゥング氏が提案する「領土の共同所有」や彼が理想とする「地域共同体システム」構想に典型的に見られるように、「性善説」に基づく人間観や非現実的な「楽観的」に過ぎる世界観を想定していると看做さざるを得ない側面があることもまた否定することはできません。
前回の記事で、ガルトゥング氏の「平和学」について「現実的な平和論」であるとの断定的な表現を用いたことは「いささかミスリーディングな論じ方であった」と反省し、訂正しなければならないと思慮しているところです。
「平和学」には、現実主義的な「政策論」と非現実的な「夢物語」が混在しており、両者の間で上手くバランスを取っているというよりも、どちらかと言えば、現実主義的な側面よりも非現実的な「理想論」に傾きがちであると看做さざるを得ないように思えます。
現実世界において「平和」を実現するために「理想」を掲げること自体は否定すべきことではありませんが、その「理想」が「『平和』の実現に寄与するのか、それとも妨げになってしまうのか」を厳しく見極めなければなりません。
ガルトゥング氏は、同書において北朝鮮についても論じており、「北朝鮮のチュチェ思想(主体思想)について好意的に受けとめており、健全に進化発展することを願っている」とした上で、北朝鮮が核を持つ理由を「①抑止力のため、②攻撃されたときの反撃のため、③核のない朝鮮半島を望んでおり、そのための交渉材料として、④『北朝鮮は崩壊しかけている』という欧米のメディアや政府の主張を否定するため、⑤北朝鮮に対する外からの制裁や脅威が限度を超えたときに使用するため」と整理して、北朝鮮による核保有を肯定してはいないものの、彼らが核保有を望む理由については理解を示しています。
国際社会による北朝鮮に対する経済制裁について「この制裁はまったく逆効果である」と否定的な評価を下し、「日本のどこかの非政府組織(NGО)に、北朝鮮と直接コンタクトを取って対話し、将来の関係のあり方を探り、制裁に代わる方法を模索して欲しい」として、可能なところから平和構築に向けた取り組みを始めることを求めています。
私自身が具体的な「北朝鮮政策」の腹案を持っている訳ではありませんが、ガルトゥング氏が提案する「北朝鮮政策」に接して、第二次世界大戦の際に、イギリスが宥和政策でドイツに対して譲歩し続けた結果、ヒトラーのナチス・ドイツの台頭を許してしまった歴史的事実を想起せざるを得ませんでした(注3)。
北朝鮮をはじめとする独裁国家に対して「宥和主義」に基づき対処することが最適解であるか否かは極めて難しい政策判断であることは間違いありません。しかしながら、少なくとも「宥和政策」が「積極的平和」の実現につながるどころか、「消極的平和」を崩壊させてしまうことに繋がり、独裁国家の国内における「直接的暴力」と「構造的暴力」の永続化に寄与してしまい、独裁国家の国民の悲惨な境遇を放置することに繋がってしまう可能性があるということも視野に入れて対処する必要があるように思います。
「平和学」が「理想」を掲げて「積極的平和」の実現を目指しているということ自体に疑義を挟むものではありませんが、その楽観的な「理想主義」が、目指すところとは裏腹に「平和」を破壊し、「直接的暴力」と「構造的暴力」を助長してしまう危険性を孕んでいるのだということは認識しておかなければなりません。
「平和学」について否定的な見解を書き連ねてきましたが、「平和学」が、現実世界において「平和=積極的平和」を実現するために私たちが学ばなければならない多くの知見を提供してくれていることは間違いありません。
改めて「平和学」を学ぶ決意を新たにしたところです。
—————–
(注1) 中国の「世界観」に関するガルトゥング氏の観察によると、かつての「中華思想(世界の中心である中国と、中国を取り囲む4つの野蛮な世界―北狄、西戎、南蛮、東夷―であるとする世界観)」は変化しており、いま彼ら(中国)は世界を3つに分けて見ています。
・第1の世界-中国
世界最高の文明国である。自分たち以外は野蛮な世界であるという暗黙の了解もセットになっている。中国人の意識の中にはつねに「中華思想」がある。
・第2の世界-中国のポケット
中国の外にあって、彼らが「中国のポケット」と呼ぶ世界である。欧米では「勢力圏」と呼んでいるが、地理的には、ヒマラヤ山脈、ゴビ砂漠、ツンドラ地帯、そして海で囲まれた世界(但し、中国にとっての「海」はかなり遠海までをも含んでいる)である。ポケットの中にあるのは、台湾、香港-マカオ、チベット、ウイグル、内モンゴル、コリア(北朝鮮と韓国)、ベトナムという構成要素である。中国は、自分たちはこのポケットにおいて特定の権利と義務を有していると考えている。
・第3の世界-ポケットの外の世界
この第3の世界では、中国は米国よりも優位性をもっている。中国の資本と経済力の進出は世界各地で見られるが、南シナ海を別にすれば、軍事的プレゼンスは目立たない。中国はヨーロッパ諸国や米国と違い、軍事力をひっさげて広大な世界に進出したことがない。
ガルトゥング氏は「中国の世界観=中華思想」について次のように論じています。
「中国の欠点は、自分たちの文明は他の文明より優れているという感覚である」「この中華思想の国は世界に属していない」「彼らには、全てにおいて自国中心のアプローチが見受けられる。どんな手段を使っても、永遠の中華文明を守ることが自分たちの義務であり権利もあると感じている。最近は中国の意識も変わってきて、外交政策や対外経済政策などは次第に受け入れられつつあるが、まだまだ十分ではない」「中国は傲慢かもしれないが攻撃的ではない。むしろ防御的である」「誰にとっても、中国は攻撃をしかけてくる脅威とはなり得ない」「世界に類を見ないほど自らの優越性を強く確信しているので、野蛮な地域に口出しすることや、攻撃することを考えることさえ、国家的プライドが許さないということなのかもしれない」
「アメリカ人は自分たちの優越性をそれほど確信しておらず、そのことが彼らを危険な存在にしている理由の一つとなっている。米国は世界中で覇権を追求し、経済力と軍事力で帝国主義的行動を展開している」「中国にはそのような面はない。それは中国が平和主義者だからではなく、世界にはそこまで注意を払う価値がないと考えているからである」「米国と違い、中国の政策は防御的である」
(注2) 一つの中国 – Wikipedia
・知っているようで知らない「一つの中国」の意味 台湾総統選の争点には「92年コンセンサス」も | ニュース・リポート | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)
(注3) 宥和政策 – Wikipedia
(藤原昌樹)
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