国立公園について、いままで特に考えたことはなかった。それどころか、何を以って国立公園というのかもよく知らず、風光明媚な自然を国が管理し、国民が余暇を楽しむエリアくらいの漠然としたイメージだった。実は、学生時代に、北アルプスの白馬八方尾根スキー場で、毎冬ロッジに住み込みのアルバイトをしながら滑っていたことがある。それなのに、当時は北アルプスが国立公園だという意識は希薄だった。ただ一度だけ、それを意識したときがある。シーズン中は宿泊客が多く、ロッジのトイレは毎日掃除してもすぐに汚れてしまう。掃除があまりに大変なので、東京に帰ったときにトイレ用洗剤を買って来た。それを「誰だ。こんなものを使ったのは!」と、酷く叱られたのである。トイレは水洗だったが浄化槽に汚物を溜める。塩素系のトイレ洗剤は、国立公園内の河川や土壌を痛めるのだと言われた。ロッジは山麓にあったが、中部山岳国立公園内だったのだ。
「公園」という概念は近代のものである。明治6年(1871)の太政官布告により、近代化政策の一環として、都市にパブリックスペースを設けて制度化することが決まった。明治36年(1903)、旧陸軍練兵場跡に出来た日比谷公園が第一号である。後、明治44年(1911)には、大規模公園について議論され「帝国公園」が検討された。岩倉使節団がアメリカやイギリスの都市公園や国立公園を実際に見聞したことで、公園が近代国家のシンボルと見做されたのだろう。同時に、幕末以来の国土の荒廃を国が管理して整備する必要もあったという。候補地選定のための「国立公園法」が、昭和6年(1931)に施行された。財政上の問題や私有地を含む土地区分の問題などを討議し、最終的な決定は昭和9年(1934)、まず、瀬戸内海・雲仙・霧島の3箇所、次いで阿蘇・中部山岳・日光・大雪山・阿寒が指定されて「国立公園」が誕生した。
7月19日の観光立国推進閣僚会議で、岸田首相は、「自然公園法(旧・国立公園法)」100周年になる2031年までに、全国の国立公園35箇所すべてを世界水準のNational Parkにするために「民活」を利用した事業を実施するよう指示した。世界の富裕層を満足させるような高級リゾートホテルを誘致する計画だという。インバウンドを見込んだ観光開発である。
国立公園がまだ計画段階だった明治時代にも、既に、国立公園の指定によって評価された景観と文化的価値を利用して観光開発を進めようというグループと、自然の価値が認定されたことを重視して保全活動を推進させるべきだというグループの対立があった。現在の「世界遺産認定」で、観光客による経済効果を期待する人々と、開発によって環境破壊を懸念する人々との立場の違いに似ている。国立公園は、国民が豊かな自然に触れて休養や健康のために利用することを目的としているが、同時に自然保護も重要な目的である。自然保護と観光開発は両立が難しい。しかし、これは表裏の関係でもある。「保護された自然と景観」がなければ「観光資源」にはならないのだし、自然保護には「財源」が必要なのだから、どこかで折り合いをつけなければならないだろう。
日本の国立公園は、国が管理すると言っても国有地ばかりではない。国土の殆どを占める山岳地の多くは国有地だが、公有地もあれば、昔から農業や漁業を営む人々の生活圏も含んでいて私有地も25パーセントほどあるのだそうだ。同じエリアでも、山岳地なら樹木を管轄する林野庁(農水省)のルールと、公園を管轄する環境省のルールが重なれば、対応が異なる場合もあるだろうし、アクセスのための道路は国土交通省に関係する。海浜地区や海底地形や海洋生物にもそれぞれ法規制があるだろう。建物には建築基本法、文化庁の文化財保護法、消防庁の消防法、宿泊施設には厚生労働省も関係する。多くの省庁が関係していて進め方や責任の所在も不明瞭になり、互いに責任を回避するようなケースもあるらしい。
特に優れた価値を認められたエリアは「特別保護区」に指定されているが、人の営みがある地域(第1種~第3種特別地域と普通地域)では、既得権や個人の所有権との摩擦もあるだろう。「すべて」の国立公園が大規模な高級リゾート化の対象だというが、日本の多様な自然環境では、公益性とのバランスもあり、個別に対応せざるをえない問題が多いと思う。
2031年までに実施するとなると、あと7年しかない。素人が考えたいくつかの心配を羅列してみる。勿論、専門家の間ではとっくに議論されていることなのだろうが、新しいNational Parkの計画は随分大規模なようだから、利用者にとっても認識しておくべきことが多い。
国立公園の管理とは、どんな仕事なのだろうか。思い浮かぶのは、主に施設の管理と自然保護である。小さな人工物でも自然の生態系に影響を与える。まして繊細な自然を保っている保護地区は難しい。そのせいなのか、日本の国立公園の宿泊施設などは全体に小規模で、あまり「高級」ではなく、現状は「生産性が低い」のだそうだ。観光資源を充分に有効活用して利益を生み出しているとは言えないのだという。伊豆箱根などの古くからの温泉地には、戦前から高級旅館があったが、庶民が気軽に旅行を楽しめるようになったのは戦後高度成長期のころからで、景勝地には割安で泊まれる国民宿舎が出来た。人々は宿や山小屋で作ってもらったおにぎりを昼食に携帯するような質素な旅を楽しんでいた。まだレジャーが特別なことだった時代で、自然の中では都会の便利さを求めないことが当然だという考えだったのだと思う。自然を貨幣価値に換算するという発想がなかったことは、寧ろ、健全だったと言える。
近年の旅行は随分様変わりした。どこへ行っても都会並みの快適さを味わえる洒落たホテルやレストランやカフェがある。山小屋でさえ、かなり豪華な食事が用意されるようになった。けれども、海外の富裕層がひと夏を過ごすような優雅なリゾート地は確かに少ない。日本は長期休暇が少なく、連休やお盆休みにせいぜい1週間くらい滞在するのが「長期」である。大抵は1泊か2泊の観光客や、バスツアー客がせわしく観光して帰っていく。短い休暇しか取れない庶民の観光客は、地元にお金を落とさない。日本に高級リゾートがないのは、別荘地が有産階級の社交の場であったためかもしれないし、国全体が貧しかったころに計画された基本的な意識が、そのまま変化せずに残っているのかもしれない。
政府が国立公園の整備を進めようとするのは、一部の都市の人気エリアに外国人観光客が集中して地元との摩擦が問題になる中で、「更に多くの訪日客」を呼び込むために、地方に旅行先を分散させようという狙いがある。計画は、2016年の環境省の『国立公園満喫プロジェクト』から始まっている。関係資料をいろいろ見れば、確かに外国人観光客が目当ての計画である。しかし、国立公園を活性化させようというプランの多くは、もっと以前から、国民のためにやっておくべきことだったのではないだろうか。施設の建設だけでなく、生態系の調査・測量・設備の維持管理・資材・安全などなど公益性に関わることにおいても、従来、国はあまり予算を割いていないのだ。
山小屋の経営問題について書かれた『山小屋クライシス』(2021)という本によれば、山小屋の多くは民営で、登山道の整備や修理も彼らが担っているという。この本の中で、取材に応じた北海道大学の愛甲哲也氏は「インバウンド観光を誘致する『国立公園満喫プロジェクト』も、新しく施設を建てたり、多言語化した標識を整備したり、ビジターセンターにカフェを作ったり、Wi-Fiを飛ばすことには、お金が付きましたけど、ボロボロになっている登山道を補修するとか、山小屋の修繕にはまったく予算がつかない。先にそっちをやるべきだとぼくは思いますが、いまあるものをきれいに整えもしないで、新しいものを後からちょこちょこ追加」しているだけだと疑問を呈している。自然保護や登山者の安全を、現状では山小屋の「善意」に頼っているというのである。
公園を管理する現場の公務員は、環境省の自然保護官であるが、その数があまりにも少ない。中部山岳国立公園の正規職員数がたった10人だとは知らなかった。公園面積を職員数で割ると、一人当たりの管理面積は約174平方キロメートルなのだそうだ。比較のために算出したアメリカのイエローストーン国立公園は一人当たりの担当が約27平方キロメートル、イギリスのピークディストリクト国立公園では約5平方キロメートルなのだという。しかも、自然保護官は3年毎に移動があり、担当地域についての知識が深まる前に移動してしまう。この話には、かなり驚いた。自然保護官になろうという人たちは、もともと自然が好きで保護活動にも熱心な人たちである。それでも、これだけの広さを一人で管理する負担の大きさを考えたら、就職を断念したり離職したりすることもあるだろう。
インバウンドで訪日外国人観光客を増やすなら、自然保護官も増やさなければ、自然が荒れる。訪れる人数が増えれば、マナーのいい観光客ばかりではなくなる。軽装で富士山の弾丸登山をする観光客も多い。ヨーロッパから来た知人の若い女性リピーターも「今回はちょっと富士山に登って来る」と軽いノリで言う。ピクニック気分である。公的な人材を増やすと言っても、スーパーのアルバイトを増やすようなわけにはいかない。山岳地や海浜地域、湖沼や湿原などの四季を把握するには経験を要する。大自然を相手にすれば、地域を熟知し専門知識を持つエキスパートでなければ対処できないことが多い。実際に、山岳地で登山客の遭難の救助で戦力になっているのも、山小屋なのだそうだ。彼らが遭難者の捜索隊に加わっているのは、単に人手不足というだけでなく、その山の地理・地形や天候など細かい事情を知悉した人材が限られているからだろう。維持管理や安全のための地道な仕事は、民間の山小屋の「無限の善意」に頼っているのが現状で、それも限界に近いという。
重要な施設に「トイレ」がある。観光客の増加ではトイレは重要な問題で、観光地のトイレはどこも行列を作っている。災害時でもトイレが問題になったが、国立公園内では、し尿処理の問題があるために、どこにでも作れるわけではない。山岳地帯や湿地帯などの大自然の中で、し尿処理をどのように行っているか考えたことがあるだろうか。山頂の山小屋や公衆トイレでは、圧縮した汚物のタンクをヘリコプターで山麓の処理施設まで運んでいる。最近は、新しい技術や微生物でし尿の分解を早めて量を減らせる商品の開発もあるが、新しい高機能のトイレは高額だし、ヘリコプターでの汚物の搬送にもお金がかかる。観光客の快適さには、経費がかかっているのだ。
高級リゾートというと先端技術を利用して設備の整ったホテルを想像するが、外観は景観を損ねないように配慮しなくてはならない。滞在者の快適さを維持するための機能は、水や電気やトイレといったインフラにかかっている。インフラ設備が自然を破壊するようなことがあってはならない。富裕層の宿泊客は長期滞在が多い。滞在中にずっとホテルに籠っているわけではなく、周辺の観光スポットや行事や景観を楽しむための移動手段の確保が必要になる。道路の整備やロープウェイ、ケーブルカー、海浜地区ならヨットハーバーやクルーザーの寄港に適した港湾の整備、遊歩道や登山道の整備も必要になるが、市街地の開発とは異なり、それぞれに環境破壊のリスクを考慮しなければならない。
自然保護や観光設備の多くは、本来、これまでに国民のためにやっておかなければならなかったことばかりだ。豪華施設の建設以前の問題である。国立公園は、自然保護に対応できる人材を充分に配置しないまま、「民活」で民間事業者に依存した観光地になってしまった。施設や道路や橋梁などの「観光インフラ」も、経済インフラ同様に見直されることなく放置されてきた。
前述したように、国立公園は、保護された自然と景観がなければ観光資源にはならないのだし、自然保護には財源が必要である。自然保護と観光資源としての利用を両立させるには、利益は民間業者だけでなく、国民に還元されて景観や自然保護の財源にしなければならない。公益性に関わる部分にはもっと国の予算を増やさなければ、自然が荒らされる。東京の神宮外苑の開発に見るように、利益のために簡単に古木を伐採し、平気で景観を変えてしまうような発想が「民活」にはある。まして、利益最優先の外資のホテルなどが参入すれば、国土保全は軽視されるだろう。既にニセコ(国定公園)など、外資系が進出している地域も多い。
本来は、国民の健康と休養のために、とっくになされるべきだった「国立公園の整備」に、インバウンドに味を占めるまで腰を上げなかったことは残念である。国立公園の自然環境の質の向上に着手すること自体はいいことだし、観光資源として活用することにも反対はしない。しかし、ただの原野の開発ではなく、貴重な自然のある地域なのだ。近年、災害の大規模化、植生の変化や人口減少による獣害など、自然環境そのものにも新しい懸念材料が加わっている。自然を保護するにも観光資源として開発するにも、現場を熟知し専門知識を持ったスタッフの育成と待遇の改善が欠かせない。これは公的な義務である。あと7年で、35箇所もある異なる環境の国立公園で、それぞれ十分な人材を確保できるのだろうか。
国民の側も、自分たちの大切な自然環境を、どのように利用し、どのように守っていくのか、自ら考える必要がある。国のプロジェクトで決まったから従っていればいい、何か利益になりそうなら参加しよう、といった姿勢では「資本力」に潰される。それぞれの地域を熟知する住民のボトムアップの力が求められる。今回のNational Parkのプロジェクト資料を見ていると、「民活」に依存し過ぎて、海外富裕層に媚びた派手な高級リゾート開発になりそうな嫌な予感が拭えない。自然は資源であっても商品ではない。何でもお金に換算して、国土を商品化する卑しさを感じるのである。
『山小屋クライシス—国立公園の未来に向けて』吉田智彦著 /山と渓谷社(ヤマケイ新書) 2021
『国土と日本人』大石久和著 /中公新書 2012
環境省_国立公園満喫プロジェクト (env.go.jp)
環境省_国立公園_働く人々 (env.go.jp)
国立公園年表 (env.go.jp)
自然地域トイレし尿処理技術ガイドブックpamph01_full.pdf (env.go.jp)
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