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北条泰時は優れた道徳家であり為政者であった。
泰時の事績を振り返ることで、
日本的な政治の理想のあり方を考える。
高徳の指導者とは
政治家の徳と呼ばれるものには二つの側面がある。一つは、国家を正しい方向へと導く賢明さや統率力を有していること。もう一つは、人々の模範となるような高潔な人格を備えていることである。
ところが、この二つは必ずしも一致しない。二十世紀の指導者を自らの交流経験を交えて回想したニクソンは、「偉大とされる指導者は必ずしも善人ではない」と書いている(『指導者とは』)。戦争の指導者や国家の運営者としては優れているが、人間的にはどこか欠落していて、家族や友人としては付き合い難い。一般に歴史上の英雄と呼ばれるのはそのようなタイプであることが多い。
反対に、道徳的には立派かもしれないが、指導者としては失敗ということもある。「宋襄の仁」の故事──渡河する敵を急襲すべきだとする部下の進言を「君子は人の弱みにつけ込むような真似はしない」と退けて、結果的に負けてしまった──などはまさにこれである。人の上に立つ者は優れた人格者でなければならないとはよく言われるが、そのような人格者は指導者として失格である場合が少なくない。だからマキャベリは、「悪徳の汚名を着せられるのを恐れないこと」を君主の条件とした。指導者にとって根っからの善人であることはなんら美徳ではない。「美徳のように思われるものでも、それに付き従っていくと身の破滅になりかねないものがある」し、「悪徳のように思われるものでも、それに付き従っていくと自らの安全と繁栄を生み出すものもある」というのが政治の現実だからである(『君主論』)。
好人物でも器量がない「弱い」政治家より、人間的な欠陥があっても国家を発展に導く「強い」指導者の方が望ましいというのはその通りかもしれない。だが、剝き出しの権力だけで統治が長続きしたためしがないのもまた、確かである。理想とされるべきは、やはり実力と道徳の双方を兼ね備えた指導者だろう。権力者としての優れた器量と、倫理的な卓越性が一つの人格に共存する。そのような高次の徳を備えた人物こそ、真に指導者と呼ばれるにふさわしい。
そんな人物はフィクションの世界にしかいないのだろうか。優れた為政者であると同時に人徳者としても知られる人間など、現実には存在しないのだろうか。ここで私が思い浮かべるのは、北条泰時である。
鎌倉幕府の三代執権で、御成敗式目を制定したことで知られる泰時は、日本史でもかなり地味な存在である。彼の人生に講談的な要素はない。この時代を舞台にしたドラマで取り上げられるのは、源頼朝や源義経、北条政子といった戦時の英雄たちの方だ。近年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、主人公になったのは父の北条義時だった。
しかし一方で、泰時ほど後世の識者から賞賛されてきた人物も稀である。その理由は、泰時が優れた為政者であると同時に人格者、それも並外れた人格者だったからである。
「仁恵世に聞ゆべき」
泰時が優れた政治手腕の持ち主であることに疑いの余地はない。鎌倉方の総大将として承久の乱を戦い、戦後は六波羅探題として京や西国の治安回復に努めた。父の北条義時の急死後に生じた家督相続をめぐる混乱(伊賀氏事件)を切り抜け、三代執権に就任した後は、伯父の時房を執権と同格の連署に、有力御家人十一人を評定衆に選んで、合議による幕政の新たな道をひらいた。泰時が中心となって編纂した御成敗式目は、律令に代わる武士社会の新たな法典として、その後の武家法の範型となった。飢饉(寛喜の飢饉)が起きた際には、自らの所領から出挙米を供出するなど、数々の撫民政策を実施したことでも知られている。泰時の治政は二十年ほどだが、この間は大きな戦乱もなく、後々まで善政の時代と語り継がれることとなった。
注目すべきは、泰時の優れた道徳的資質である。父の遺領分配に際して、兄弟に多くを与え自分は少しの分け前しか取らなかった、政敵となった御家人(たとえば伊賀氏一門)をすぐに許して政権に復帰させたなど、泰時の寛大さを示す逸話は数多い。公正な裁判をすることでも知られ、その方面でも数々の逸話を残している。仏教者との交流もあり、なかでも高山寺の高僧、明恵に深く帰依した。『明恵上人伝記』には、明恵に「先の乱(承久の乱)で天皇に弓を引いたのは大罪ではないか」と詰問された時の様子が記録されている。泰時は、世の混乱を収めるには他に方法がなかったと滂沱の涙を流し、だからこそ天下に善政を敷いて万民安穏の実現に命をかけるつもりです、と語ったという。
残された逸話から浮かびあがってくるのは、不正を嫌い、和を尊び、正直で無私に徹する泰時の人となりである。もちろん、これらの逸話が、どこまで史実であったのかを疑うことはできる。庶子であった泰時が実権を握るには、何らかの権力闘争があっておかしくないはずが、記録には残されていない──義時没後の家督相続も、泰時の才を見込んだ政子が半ば強引に決めたこととされる。泰時の事績が多く記録される『吾妻鏡』は、北条政権の正当性を示すためのものなので、それなりに潤色が施されているのであろう。
だが、泰時の優れた人となりは、同時代にも広く知られていたようだ。『明月記』には、飢饉に際して、自ら率先して模範となるために粗食を続けたため、健康を害するほどだったと記されている。『沙石集』にも、泰時の優れた人格を示す逸話が紹介された後、「実にまめやかの賢人にて、仁恵世に聞ゆべき」「民の歎きを我が歎きとして、万人の父母たりし人なり」とある。泰時の仁者ぶりは、当時から評判だったことがうかがえる。
後世の史家による評価も高い。筆頭が、前号(巻末オピニオン「徳と鏡──政治改革論に足りないもの」)でも取り上げた北畠親房である。「心正しくまつりごとすなお」で、「人をはぐくみものにおごらず」、公正な裁判で土地をめぐる御家人の争いを鎮めたと功績を称え、北条の治世が続いたのは泰時の善行のおかげだという(『神皇正統記』)。また親房は、四条天皇が早世した後、朝廷側の反対意見を押し切って後嵯峨天皇を擁立したことを、泰時の「正理」と賞賛している。
親房の手放しといっていいほどの賞賛が影響してのことだろう、新井白石、頼山陽といった江戸時代の思想家も泰時に高い評価を与えている。戦後も同様である。梅棹忠夫は泰時を「日本最初の政治家(ステイツマン)」と評しているが(『日本史のしくみ』)、これは泰時が連署・評定衆による合議
制を採用した事実を指してのことと思われる。山本七平はさらに踏み込んで泰時の事績を、「日本的革命」とまで評している。天皇を政治的な実権から切り離し、御成敗式目で法による統治を確立した泰時は、今日まで続く日本国家の基礎を作った偉大な革命家だった、という評価である(『日本的革命の哲学』)。
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