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人間は自分たちの力で歴史を変えられると思っているが、あまり過信しない方がいいかもしれない。改革だ革命だと言っても、世界が構造的な変化を起こすときは、背景に複合的な要因をいくらでも見つけることができる。大きな流れの中に翻弄されている間は、その流れがどのようなものか自覚することは難しく、後で振り返って、変化した社会を自分たちが勝ち取ったもののように感じるだけかもしれないのだ。日本の歴史は天災に彩られている。大地震や台風や大火災で、どれだけ経済活動や人間の意識に変化が起こったか、それらが従来の社会構造を破壊させたかを考えると、抗えない規模の自然災害が歴史の連続性を断つことがあるのだと気づく。
前回、プロテスタントがヨーロッパ社会を変え、国民国家を誕生させ、その思想が世界的な影響力を持つようになった背景を考えたが、そもそもルターの告発が無視されずに各地で受け入れられたのは、16世紀のヨーロッパにそれを可能にする土壌があったからだと言える。その土壌を作った歴史の流れはどのようなものだったのだろうか。
ユーラシア大陸を大雑把に眺めてみると、大陸の両端に人口の多い文化圏があった。双方の古代国家を結んでいたのがシルクロードである。シルクロードは天山山脈の南北の砂漠地帯を通る天山北路・天山南路のルートが開発されていて、古くから人や文物の東西交流があった。そこに更に北の大草原地帯を通るルートが加わったのが、モンゴル帝国の時代である。13世紀終わりころから14世紀にかけてこの帝国の版図は中国全土とロシアの殆どの地域、中央アジアからイラン・イラクをカバーした。帝国内の各地を結ぶ交通網が整備され、騎馬隊が駆け抜けることで様々な伝達の所要時間も短縮された。この軍事・通商のための交通網や隊商基地が、世界的な大災害を準備したのである。「黒死病」、腺ペストの猛威である。
ペストの病原菌パストゥーレラ・ぺスティスが発見されたのは1894年のことで、広州・香港の外国人居留地を襲った感染症の調査のためにコッホの弟子たちが結成した国際調査隊による成果であった(北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサンが発見)。20世紀直前のそのときまで、ペストは原因も治療法もわからない恐ろしい死の病だった。
人類史上、さまざまな種類の感染症があり、地域的・散発的に出現しては収束することを繰り返すことで、徐々に人間に免疫力がついたものもある。しかし、14世紀のペストの惨禍はその波及スピードが速く、世界規模の大惨事となった。ペスト菌は、もともと北満州からシベリア地方にかけて生息する齧歯類に寄生していたと考えられている。シベリアや満州の凍える冬を耐えるのに、地下に巣を作る穴居性齧歯類が保菌者として好都合だったらしい。齧歯類は大河や海などに阻まれてそれ以上進むことができなかった。それを運んだのは人間である。
例えば、20世紀初頭にあった満州でのペストの流行は、清王朝が崩壊して、満州族の聖地であるこの地域に漢民族が流入したことによる。草原地帯の遊牧民には神話的な禁忌があった。この地方に生息するㇼス科のマーモットに罠を仕掛けることを禁じ、射殺せよと語り継がれ、マーモットに病気の様子が見られたときは、すぐにテントを畳んで移動してその地を離れろと伝えられていた。マーモットが疫病に関係していることを祖先たちは経験的に知っていて接触を禁じたのだろう。しかし、満州族の地に雪崩れ込んだ漢民族は、土地に伝わる伝説や迷信のようなタブーを無視して、毛皮で儲けるためにマーモットを追って捕獲した。このときも、ペスト菌をばら撒いたのは人間だった。
中央アジアの大草原に棲む齧歯類がペスト菌の保菌者となったのは、モンゴル帝国が張り巡らせたジャムチという駅伝制度の交通網によるものだった。宿舎・食糧・代え馬を備えた拠点を繋ぐルートを、ペスト菌は宿主の齧歯類とともに騎馬隊や隊商に運ばれて、自分たちでは渡れない大河や湖を突破した。砂漠地帯の天山路にはいなかった穴居性齧歯類が生息する大草原は、ペスト菌にとって永続的な居住地となった。
当時のヨーロッパは人口が飽和状態にあった。これは、気候変動と関係がある。9世紀頃から温暖期が始まり、それ以前の古代寒冷期には氷に閉ざされていたノルウェーや、氷河に覆われていたアルプスの山岳地帯にも、温暖化と共に農地が現れ、小麦栽培が行われるようになっていた。農地の拡大による食糧増産は人口を増やし、都市には大規模なカテドラルが聳え、森林は農地の開墾や建築資材・造船のために無制限に伐採された。
人口増加のスピードが、順調だった食糧の増産力を上回ったころ、ヨーロッパの気候は一転して、異常気象のための雨や冷害や病害で不作が続き、1332年の極寒の年には大飢饉が襲った。400年に亘る中世温暖期が終わり、小氷期に入ったのである。この寒冷な気候は19世紀まで続くことになる。(現在の気候変動問題では「産業革命前の気温に比べて」というように17世紀頃の気温を基準にしているようだが、それは小氷期のテムズ川が凍ったような寒い時期の気温である。寧ろ、化石燃料を使っていなかった中世の自然上昇による温暖期と比較する方が、気温上昇の人為的関与の度合いを正確に推定できるのではないかと思っている。)
寒冷期の不作続きで食糧不足に喘いでいたヨーロッパの人々に止めを刺したのは、黒死病であった。ユーラシアの東西の端の文明国には、比較的多くの記録が残されている。中国の歴史書に疫病の惨禍が現れるのは1331年である。河北の人口が激減して十分の一になったと書かれているそうだ。中国を襲った疫病は、西域を通過し、中央アジアのステップ地帯を西へ西へと波及していった。モンゴル軍の兵糧や隊商の食料袋に鼠が紛れ込むこともあっただろう。その鼠たちが草原に棲む齧歯類にペスト菌を移し、ペスト菌は大草原の地下の巣穴で繁殖していっただろう。草原地帯のペストの記録はあまりないようだが、モンゴル軍と一緒に大河を越え、カスピ海を渡り、黒海を越えたと考えられている。
中世ヨーロッパの黒死病の惨禍は、ユーラシアの草原の地下の生物界で起こった変化だけが原因ではない。ヨーロッパ側にも伝播の条件が揃っていた。ペスト菌が黒海や地中海の港に到達したとき、既に、ヒトに感染させるノミを宿しているクマネズミがヨーロッパ全土に分布していたのだ。ノミがたかったクマネズミを運ぶ船舶と航路網が存在していたのである。クマネズミのヨーロッパ北部への分布それ自体が、船舶によって北部の港へ運ばれたことによるものだったらしい。交易船の穀物を積んだ船倉はクマネズミにとって天国のような棲家を提供していた。
1347年12月にクリミア半島の港町カッファで黒死病の記録があり、同じ月のうちにマルセイユに伝播している。地中海から大西洋沿岸に波及して、半年後にはパリ、1年後にはロンドンに伝播し、1350-51年にはバルト海に及んでスウェーデンに到達した。黒死病は沿岸部から内陸にも伝播して、全ヨーロッパの人口の3分の1が失われたと推定されている。1347年にイタリアの都市では、早くも「検疫」が試みられ、40日間、患者を船上隔離することが義務付けられた。Quarantine(検疫)という語は、このときの「40日」が由来である。
ある地域の人々に免疫ができて落ち着いて来ると感染はいったん鎮静化するが、新たに生まれた子供などの未感染者たちに感染が広がって、何回も繰り返し感染の波が襲った。これは、私たちもコロナウイルスで経験したことである。治療法もない時代のことで、ペストが収束して、人口が回復するまでには100年以上かかったと推測されている。
既に寒冷期に入っていたヨーロッパでは、寒さを凌ぐために必要な毛織物の手工業が盛んになっていた。スペインやイギリスで羊の飼育が盛んになって、農民にまで毛織物の衣類が行き亘るようになる。この毛織物がシラミや南京虫の温床になって新たな感染症が襲った。一方で、貧しい者たちも衣類を身につけることで、肌の露出部分が少なくなり、ハンセン病や性病などの接触による感染症は下火になったという。また、衣類の普及は人々に肉体をなるべく隠蔽することを常識化させ、裸体を隠すピューリタン的な道徳心が広まったらしい。貧困層にも行き亘るだけの十分な衣類が供給されるようになっていたということである。
黒死病の影響は、さまざまなところに現れた。経済的影響も甚大だった。黒死病による人口の減少は、いまの日本と同じように、あらゆる分野で人手不足を招いた。それは、賃金と価格のパターンを大きく混乱させた。下層階級の賃金が上昇して、彼らの待遇を改善させた。ボロを纏っていた貧民が、それまで手の届かなかった毛織物の衣類を購入できるようになったのもそのためである。但し、感染の状況や深刻度とその影響は地方によって異なっていたようだ。
ペストの不条理は、キリスト教会への信頼を疑わせるのに十分なほど悲惨だった。黒死病の流行が波状的に繰り返されて、神の恩寵を疑い信仰心を失う者も出て来た。14世紀には大勢の聖職者でさえも感染を免れずに死んだため、教会の儀式や典礼は権威を失った。同時に、僧侶不足に陥ったことで、後継者の教育もままならなくなった。聖職者は頭脳集団であり、教育にはラテン語の習得も含まれる。「例えば、多くの学者が言うことだが、世俗語が正式の文章にも使われるようになり、また西ヨーロッパの知識人たちの間で、共通語としてのラテン語が衰退していった現象は、この古代語を自在に操れるまでに習得している聖職者や教師が大勢死んだことで早められた。(W.H.マクニール)」 教会の権威の凋落とラテン語の衰退、ダンテなどによる世俗語文学の試みは、俗語聖書に対する抵抗感をなくし、ルターの宗教改革への下地が作られていくことでもあった。
ペストの被害の混乱に関して、教会の無力な硬直性に比べると、諸都市の行政は素早い対応を見せた。イタリアの都市の行政官は実務面で力を発揮して、埋葬措置を指導し、食糧を確保し、隔離検疫を設定し、医者を雇用し、公的私的な行動規制を定めた。諸都市の活力は各都市との連携を生み、市場経済を発展させ、中世的な文化価値から世俗的なものへと変容していくのに、大いに影響を与えたといえそうである。バルト海沿岸都市のハンザ同盟は、その発祥が「遍歴商人」という都市の間を回って交易する商人の団体である。港町でのペスト被害も被ったであろうが、印刷物という交易品を通してスカンジナビア方面のプロテスタント化に貢献しただろう。
黒死病の騒動が鎮火したのは100年以上のちのことで、その間に浸透していった教会への批判精神や世俗語の公的な使用、都市の市民の力、市場経済が、ルターやカルヴァンが説く自立心や勤労精神と無関係だったとはいえないだろう。黒死病の惨禍で、教会の儀式よりも世俗の行政の力が功を奏した現実は、人々に価値観の転換を迫るものだった。
大規模な気象災害、温暖化による農水産物への影響と変化、先進国と東アジア諸国の人口減少傾向、環太平洋地域の地下活動の活発化で地震や噴火の増加、新旧の感染症といった自然の威力によって社会が大きく攪乱されているのが「いま」である。情報ツールの劇的な進化も加わって、複合的な構造変化が起こっているように見える。
社会構造がドラスティックに変化するとき、従来通りの生活や活動が維持できなくなる。いま、必要なのは人を育てることで、生産活動の歓びを知る人々と、厚みのある知識層を作ることではないか。但し、予測不可能な自然の脅威を乗り越えられる責任感のある「賢い知識人」であって、成績を競い合う「おりこうさん」や、金勘定にしか興味のない頭の良さではない。いまの日本は、少子化を補うつもりなのか、子供っぽい大人ばかりになっている。観光立国ではなく、叡智の国になってほしい。世界規模での混乱はカタストロフを予感させるものがあり、21世紀は、人類の叡智が試されているのではないだろうか。
『疫病と世界史』ウィリアム・H・マクニール著 佐々木昭夫訳 /中公文庫 2007
『千年前の人類を襲った大温暖化・文明を崩壊させた気候大変動』ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 /河出書房新社 2008
『気候文明史』田家康著 /日本経済新聞出版社 2010
橋本由美
<編集部よりお知らせ1>
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世界が転換期を迎え、日本はますます衰えていくなか、「危機と対峙する保守思想誌」たる『表現者クライテリオン』の言論活動を益々意気盛んに展開していく所存です。
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