誰が使い始めたのか知らないが、巷の「選択制夫婦別姓」の議論では、同姓は「強制」だと言われる。「強制」は、負の感情に強く訴える単語である(『日記』33)。子供にインタビューをして「選べるのと強制とどっちがいい?」と聞けば、何をどう選ぶのかという内容よりも「強制」という語彙に強く反応する。実際に、家族みんなの姓が同じ方がいいと言いながら、「強制は嫌だ」と答える子供がいる。「選択制」の対立概念を「強制」としたところに、ある種の誘導が潜んでいる。
自分で選べないのが「強制」ならば、生まれた子供の姓名はすべて「強制」である。赤ん坊が、生まれた瞬間に自分で自分に名前をつけることはできない。同時に、子供は親の姓も選べない。親と同姓であっても別姓であっても、生まれた子供の姓は「強制的」に決められ、夫婦が別姓を「選択」するときには、子供はどちらかの親と「親子別姓」を「強制」されることになる。現行法の下でも、離婚時に父親も母親も自分の子供と同姓でありたいとき、子供を巻き込んで対立する場合がある。そこでも子供には選択の自由はない。
「強制」とは意に反して他者から押し付けられることである。私たちが自由にならないことはすべて「強制」なのだろうか。私たちには「自由」がいいことだという意識があり、民主国家の人々は、国家の力が国民の意思に反して著しく強くなることを恐れている。但し、民主国家であっても、私たちは「何でも選択できる自由」を与えられているわけではない。
前回も書いたが、氏姓制度は、夫婦や女性の権利や個人の選択の自由の問題ではない。結婚は両人の意思であるが、「氏姓」は「家」の問題であり、「家(うち)」は、社会という「そと」の世界に対して公的な意味を持つものである。「そと」からは見た「うち」は、ひとつの有機体であり、単なる個の集まりではない。 【西部邁】夫婦とは何か? – YouTube
「(日本では)『家』というものは生活共同体であり、農業の場合などをとれば経営体であって、それを構成する『家成員』によってできている、明確な社会集団の単位である」(中根千枝)。経済基盤としての「家」の生活活動は「意味ある」労働であって、労働は単なる時間との交換による無機質なものではない。そこでは労働こそが経済であり、近代の「労働力はコスト」だという収益中心の考え方には馴染まないのかもしれない。この基本単位としての社会集団は、家を継ぐ長男とその嫁が中心となり、他の兄弟姉妹よりも重視される「タテ社会」である。直系以外の傍流(嫡男以外の兄弟姉妹や本家に対する分家)は優遇されない。このような家族構成は次世代を意識したもので、日本の家族において大切なのは「個」ではなく、親子を軸にした「伝承の関係」ということになる。
いま、問われているのは「夫婦間における姓の選択か強制か」ではなくて、「個人を基本に考える家族制度か、親子全体の共同体を基本に考える家族制度か」という家族のありかたである。「姓」によって定義されている「戸」の内部に「姓の選択肢」を持ち込むことは、このシステムを機能させている基本理念を解体することである。
中根千枝によれば、この「家」という共同体の人間関係が、江戸時代には農村に至るまで浸透していて、長い間に機能集団原理となったという。現実のいまの家族は何世代もが同居している家は少なく、親と別居した核家族形態が主流であり、産業経済が変化した現代では「家」は束縛になることもある。それでも、地方に残した親も「うちの親」であり、何代か続いた店を自分の代で潰してしまったと嘆く経営者が居たりして、無意識下に「家」という共同体は生きている。このような歴史を歩んだ社会の上部構造がcommon senseで、国際的に通用するかしないかは別問題である。
高度成長の時代の日本の「会社」は批判的に語られることが多かった。欧米に比べて「どこが悪いここが悪い」と短所が羅列された。それは日本的な組織力を脅威に感じた欧米の言い分そのものだった。それだけ日本は「強かった」のだ。日本の組織は「藩」に例えられ、「イエ制度」に例えられた。社員は会社に誇りと忠誠心を持ち、福祉を充実させた会社や組織は「日本的家族制度」と言われた。モーレツ社員と言われながら、「うちの会社」のために働くサラリーマンが多かった。ワンオペの職場で、いつでも辞めるつもりで働いている「いまの会社」では、好きになろうという気も起らない。面倒見のいい会社は鬱陶しいところもあったが、見捨てられないという安心感もあった。何かあったらすぐに切り捨てられる派遣社員やパートに忠誠心を持てというほうがおかしい。
三菱UFJ銀行の貸金庫の窃盗犯罪は、従業員の倫理観が問われる事件だった。品質検査の手抜きやデータの改竄など、組織の倫理観を疑うニュースも増えた。自分の会社に誇りや忠誠心や愛着を持つ従業員はどんどん減っている。政府は、遺族年金の改定で、自分の老後のために女性を働かせようとしているし、退職金税制の改定で生産性の低い社員は「学び直し」をさせて追い出そうとしている。企業は常に人件費削減を考えて移民労働者やオフショアリングを歓迎する。会社は「うちの会社」ではなくなっている。企業が企業と株主だけの利益を求めて、従業員の給与の増加を図ることを放棄したら、従業員を守れない。会社という共同体が自分を守ってくれないなら、共同体の倫理観は失われる。
絶対神をもたない日本人の倫理観は、共同体によって形成されると中根千枝はいう。「抽象的な、人間世界からまったく離れた存在としての『神』の認識は、日本文化の中には求められないのである。極端に言えば、『神』の認識も個人の直接接触的な関係から出発しており、またそれを媒介とし、そのつながりの延長として把握されている。」「このあまりにも人間的な——人と人との関係を何よりも優先する——価値観をもつ社会は宗教的ではなく、道徳的である。」「宗教が基本的な意味で絶対性を前提としているのに対して、道徳は相対的なものである。」これが、「空気を読んで」「他人に迷惑をかけない」ように行動する日本の社会である。
このような社会は「論理的でない」「近代的でない」「古臭い」と批判されることもあるが、善し悪しで判断するのではなく、現実の私たちがどのような社会に生きているかという認識はもつ必要がある。宗教的でない日本人が、社会によって機能している道徳心を失ったら、どうなるだろう。日本社会の基本単位である「家族」の在り方が変化するなら、道徳心や倫理観が破壊されるかもしれず、そのとき、それに代わる倫理観をもてるのかどうか、真面目に考えなくてはいけないだろう。
「選択」とは、何かひとつを選ぶことによって、他のすべてを捨てることでもある。私たちは、それだけの認識と自覚と責任をもって今までとは異なる制度を「選択」しようとしているのだろうか。道路交通法や建築法などの下部構造に関する法律は、時代に合わせて変化しなければ機能しない。しかし、上部構造に関わることの中には、歴史や慣習を無視すべきではないものも多い。すべてが「古くなったから取り換える」という類のことではなく、「何故、代々放棄されずに維持されてきたか」を問うべきである。
家族制度の問題を、何故「いま」の国会で性急に決めようとしているのだろう。少数与党になった自民党が、かねてから戸籍法を撤廃したがっている野党に妥協して貸しを作り、財政赤字解消のための社会保障改革や今後の消費税増税の成立を野党に呑ませるための取引材料だという話が、ただの「噂」だというにはタイミングが良すぎるような気がする。
この件だけでなく、「選択」に過度な価値観をもつ時代の方向を、私は不安を持って眺めている。人間は、誕生時点の「初期値」を、自ら選ぶことはできない。初期値はア・プリオリな条件であり、他者からの押し付けではない。子供は両親を選べない。誰の子供に生まれたか、どこの国に生まれたか、白人か黒人か、男か女か、地方の村か都会の街かという地域の自然条件、裕福な家庭か貧困家庭か親の職業は何かという社会的条件、それぞれの初期値から人生は出発する。
初期値は「不平等」である。生物的な初期値が、そもそも等しくない。性の違い、人種の違い、体格の違い、健康の違い、能力の違いという、「与えられた個々の異なる条件」から人生を始めなければならない。自然環境や社会環境という初期の条件を、経験と学習で、どう生きていくかが人生である。
何を初期値と捉えるかは、社会と時代のcommon sense による。長い間、生物的な初期値は「誰の目にも自明なこと」で、common senseは社会的事項について考えればよかった。ところが、最近になって、生物的な初期値と社会的な初期値の境界をどこに設定するかが曖昧になってきた。性自認やジェンダー、人種などの肉体的な初期条件は、各自が「選べる」ものになりつつある。VRやAIの利用や、人間の脳と外部のIT機器を繋ぐ構想は、人間の能力も後天的に選択できるものにする。生物的な初期値が無意味化して、何もかもが「選択の自由」の対象になる。初期値さえも「選択」の対象にしてしまうのは、人間中心の傲慢さである。初期値を運命と捉えて諦めるということではない。しかし、初期値の現実を無視して、選択の自由の範囲を広げることは、「初期値」のカーソルを勝手に移動させることであり、自然法則を無視することである。世界中の国で進んでいる都市の肥大化と地方の疲弊が、この背景にあるのかもしれない。
共同体の束縛を脱して自由になることは、能力の高い者にとって有利である。しかし、一般庶民は、共同体の崩壊で個々に切り離され、孤立するだけである。嘗て、封建貴族の富の独占を不満に思い、出自に拘らず等しく選抜の機会を求めた人々はどうなったか。一握りの能力の高い者だけが幸福になり、競争に負けた普通の人々は下層に留まっただけだった。何世代かを繰り返された選抜によりメリトクラシーが完成し、いまでは能力による階層はほとんど固定化された。エリートがエリートを再生産して、貧困者は貧困者を再生産し、互いに接点のない全く異なる世界を生きている。このディストピアは、有能な者だけでなく、封建貴族を羨んだ「能力のない者たち」の積極的な賛成がもたらした「能力主義」の結果である。
メリトクラシーによって絶対的優越者になった階層が自らを正当化するための偽善がDEI(Diversity, Equity & Inclusion)である。ダイバーシティの平等を掲げてマイノリティを優遇することで、次々に細分化された新たなマイノリティを生み出す。メリトクラシーかアイデンティティ・ポリティクスしか選択できないアメリカの不幸は、古代と啓蒙主義が直結した彼らの歴史に中世という共同体の時代を持たなかったことによるのかもしれない。日本とは異なる歴史である。敗戦後の日本は、三島由紀夫が予言したとおり「無機質な、からっぽな、ニュートラルな」国になって、アメリカの価値観をそのまま「からっぽの」頭に埋め込んでしまった。「近代化」や「グローバル化」の名のもとに、進んで日本の家族制度を破壊して「西洋」になろうと努めている。最も不幸になるのは、アトム化されて拠り所となる家族を失う「エリートではない人々」ではないだろうか。利益を得るのは、家族を充分に養える一握りのキャリア・エリートだけである。
共同体として残されている「うちの家族」が崩壊したとき、日本はどんな社会になるのだろう。メリトクラシーがそうであったように、結果が現れるのは何世代か繰り返された後のことだろう。その頃、「戸」から「個」への選択をした者はもういない。
『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』中根千枝著 /講談社現代新書 1967
橋本由美
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