【藤原昌樹】沖縄で考える保守思想――沖縄シンポジウムを振り返る(後編)

藤原昌樹

藤原昌樹

本日は3月30日開催の「表現者クライテリオン沖縄シンポジウム〜戦後80年、沖縄から考える対米独立への道〜」

の開催を前に7年前の2018年の沖縄シンポジウムに関する記事をお送りいたします。
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二項対立の問いではない沖縄の基地問題……藤原昌樹

 かつて西部邁先生が「沖縄が地政学的に戦争の問題、軍事の問題から自由になれない場所であり、パブリックには日本軍のであれ、米軍のであれ、軍事基地から自由になれない可能性が高い」と語ったように「沖縄が軍事や戦争の問題から自由になれない」ということを前提としなければならない。普天間基地の辺野古移設の問題で「辺野古への移設に賛成か反対か」という単純な二項対立の問いが立てられるが、それでは答えようがない。沖縄の基地問題は日本の防衛・安全保障の問題であり、日本の防衛の全体像のあるべき姿を描くことなくして普天間基地の辺野古移設が望ましいか否かさえも議論することができない。辺野古移設を推進したい日本政府は「日米同盟や日米安保が大事である」「日米合意がある」「辺野古への移設が唯一の解決策である」「辺野古への移設で少なくとも沖縄の負担軽減になる」と繰り返すのみであり、日本の防衛のあるべき姿について何ら語っておらず思考停止に陥っていると看做さざるを得ない。民主党政権時の森本防衛大臣が「日本の西半分のどこかに海兵隊が持っている地上の部隊、航空部隊、これを支援する支援部隊の三つの機能が完全に機能する状態であれば沖縄でなくてもよい」「軍事的には沖縄でなくてもよいのだけれども、政治的に考えると、沖縄がつまり最適な地域である」と述べ、米国海兵隊の関係者が「辺野古は普天間と比較すると基地機能の面で問題だらけで、少なくとも四十から五十くらいの問題点がある」と語っており、「辺野古への移設が唯一の解決策」とする政府の主張は説得力を失っている。しかも昨年六月六日の参議院防衛委員会で当時の稲田防衛大臣が「普天間飛行場の返還条件(緊急時における民間施設の使用の改善)について調整がつかなければ普天間飛行場の返還がなされないことになる」と答弁しており、「そもそも辺野古に新たな基地(普天間飛行場の代替施設)が建設されたからといって、米国の意向次第では普天間が返還されない可能性がある」ということを政府が公の場で認めてしまっている。一方、普天間基地の辺野古移設に反対する平和運動や絶対平和主義の「沖縄から全ての軍事基地をなくすことができれば、沖縄が平和で豊かな島になれる」という主張は非現実的な夢物語でしかなく到底肯定することはできない。沖縄の不幸は、基地問題において「米国に任せておけばよい」として対米従属の現状を追認するか「沖縄から軍事基地がなくなれば全て解決する」とする絶対平和主義の夢物語の何れかの選択肢しか示されていないということである。「日本の防衛のあるべき姿」について沖縄から発信していく必要がある。

保守こそが「べき論」を語るべきである……柴山氏

 沖縄のことに詳しいわけでも軍事の専門家でもない自分の眼から見ても「米国は普天間と辺野古の両方を使うつもりなのではないか」と疑わざるを得ない。この状況に対して「米国が横暴だ」と非難することもできるが、問題は日本人が米国に対して何も言わないことである。経済のみならず軍事や安全保障、国際政治に関しても、専門家たちが語ることと我々の「常識」との間にはズレがある。全体状況が見えていない専門家の言うことは当たった例しがない。「常識」から考えて「どうあるべきか」という「べき論」を立てておくことが重要である。左翼には「軍事を放棄して憲法の理念を守るべき」とする「絶対平和主義」の「べき論」があるが、これまで保守は「べき論」を語ってこなかった。「どうあるべきか」とは実は明白なことであり、「自分の国の防衛はまず基本は自分たちで担うべきである」「米国の兵隊が日本で罪を犯しているのに日本の法律で裁けない等といったことは是正すべきである」「日米地位協定は改正すべきである」等といった目標を持たずに「辺野古と普天間のどちらが良いか」と二者択一の選択を迫る問いそのものが罠である。防衛問題を専門家のリアリズムと称する、実際には全然リアリズムではない議論に任せておくべきではない。現実の政治に対して責任を持つ保守が「どうあるべきか」について議論することから始めていかなければならない。

世界の「常識」は「主権」を目指す……藤井編集長

 世界には主権を完全には持たない日本のような国がある。そんな国の最重要課題は自国の主権を獲得することであり、全ての国が主権を目指すことは世界の「常識」である。リアリズムの世界では自前の軍事力を持たなければ「守ってやる」と言う輩の奴隷になってしまう。辺野古移設の賛否についても「自分の国は自分で守る」という目的のために「まずは辺野古に賛成してこう進めていく、あるいは反対してこう進めていく」といった形で議論をすべきであり、それを省いて「辺野古か普天間か」との二者択一を迫ること自体が罠である。日本は戦争に負けてGHQに占領され、サンフランシスコ講和条約によって一九五二年に一応の独立を果たし、奄美群島が一九五三年、小笠原諸島が一九六八年、沖縄が一九七二年に返還された。しかし未だ米軍基地が残っており、非常に広い意味では占領下にある。米国の政府高官が日本のことを保護領と呼ぶなど植民地扱いにしている。米国は日本に対して「属国」「保護領」「植民地」といった認識を持っており、その象徴が日米地位協定である。日本が「(広義の)占領下にある」という事実認識を持ち、主権を獲得して独立を目指すことが、我々日本国民の務めであるということは「常識」の範囲なのである。

日本国民は沖縄を同胞だと思っているのか……藤原

 国民国家について論じる際、我々は沖縄のことを「日本の中の沖縄」として、あるいはウチナーンチュ(沖縄人)が日本国民であることを自明のこととして語りがちであるが、沖縄の側からすると、日本国民や政府に対して「沖縄のことを日本だと思っているのだろうか」「ウチナーンチュのことを同じ日本国の一員だと思っているのだろうか」と疑わざるを得ない場面にたびたび遭遇してきた。例えば、二〇一三年四月二十八日に「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が執り行われたが、一九五二年四月二十八日を機に日本の主権が回復されたと同時に沖縄が本土から切り離され、一九七二年五月十五日の本土復帰まで米軍の統治下に置かれ続け、沖縄では講和条約発効の日は「屈辱の日」と位置づけられ、当時の沖縄県知事は同式典を欠席している。また、二〇〇四年八月十三日に沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した際には、沖縄で大騒ぎになっているのとは対照的に全国のテレビや新聞では「米軍ヘリ墜落」よりも「巨人軍の渡辺オーナー電撃辞任」や「アテネオリンピックでの日本人選手のメダル獲得」のニュースがより大きく報道されていた。これから保守が国民国家について論ずる際に「国民が持つアイデンティティの多層性や多様性について如何に語るのか」ということが課題としてあるのではなかろうか。

反基地と平和主義のセットでは説得力がない……浜崎氏

 沖縄の歴史に基づく日本国家に対する不信感は当然のことである。この不信感に対して日本人はどうするべきなのかということを沖縄の側から提示する必要がある。現状では、沖縄が反基地と言ったときにはほとんど平和主義とセットとなっており、それでは説得力を持ち得ない。沖縄からの怒りの声に対して本土側では「どうせ空想的平和主義者たちが代案も出さずに騒いでいるだけだ」となってしまう。沖縄からこそ、対米従属に甘んじて自立しようとしない日本国家の姿勢について、日本人の「後ろめたさ」に向けて論理を整合的に積み重ねて問い質していくことが必要になってくる。

沖縄のサイレント・マジョリティに向けて……藤原

 沖縄には新聞やテレビといったマスメディアの言論空間では語られることのないサイレント・マジョリティが存在しているのではないか。例えば、現在の米軍基地の問題についても「絶対平和主義か対米従属か」「辺野古移設に賛成か反対か」という二項対立の構図で語られるばかりで、その何れにも与することはできないとして沈黙せざるを得ない人々が多数いるものと思われる。そういった沖縄のサイレント・マジョリティの思いを汲み取る言論が求められているのであり、保守こそがその役割を担うべきであろう。

日米地位協定と積極的従属……川端氏

 これまで日本人は、日本人の多様性とか境界性について考えることを余りしてこなかった。これから日本国内の多様性について真摯に語っていかなければ、我々の根本感情が見えなくなってしまう。主権についても同様である。国連憲章で民族自決が謳われているように「自分の国のことを自分で決める」ことは「常識」なのであるが、日本は自らの主権を放棄してきた。例えば、日米地位協定における刑事裁判権の問題で、協定上は日本に第一次裁判権がある場合でも、日米合同委員会の非公開議事録で「日本側は事実上、米軍関係者についての裁判権を放棄する」という密約が結ばれていたことが明らかになっている。日本は米国に主権を奪われているというよりも、自ら進んで主権を放棄している、いわば積極的従属という状況にあるのである。

米国の論理は非常にわかりやすい……藤原

 日米地位協定における米国側の論理は「自国の国益や自国民の権利を如何に守るか」という非常にわかりやすい理屈である。自らの国益や自国民の権利よりも米国側の権益を優先しようとする日本政府の振る舞いの方が余程理解に苦しむ。米国が日本に様々な要求を突き付けるのは、ある意味当然のことであり、問題は「我々が日本の国のあり方をどう考え、米国からの要求にどう対峙するのか」ということである。

目指すべきは主権国家である……柴山氏

 かつて我が国が「普通の国」を目指すべしという議論があった。しかし日本が目指すべきは「普通の国」ではなく主権国家である。独立を取り戻し、自国で発生した犯罪については、たとえ外国人であっても自国の法律で裁かなければならない。国民の悲痛な訴えよりも外資の要望の方が優先されるなんてことは主権国家ならばあり得ない話である。主権国家とは内政干渉を受けない国であり、自国のことは自国民が決定する国である。その意味において日本は主権国家として欠落している。この前提を共有しなければ、いくら個別の政策論をしても仕方がない。主権国家として日本のあるべき姿を取り戻すことから始めていかなければならない。

沖縄は「日本の縮図」である……藤井編集長

 沖縄という場所に日本国家の問題の膿が全部出ている。結局、自主独立の問題も地方の疲弊の問題も全国で共通しているのだが、沖縄が一番その割を食っている状況にある。沖縄の問題は全て「日本国家の歪み」を反映したものであり、いわば沖縄は「日本の縮図」である。だからこそ、沖縄の問題をおざなりにしておく限り日本の問題は放置され続け、日本本土が沖縄化していくのである。沖縄の問題を乗り越えることができれば、日本は本当の自立した大人の国家になれる。沖縄の問題をしっかりと解決する糸口がつかめれば、その糸口は日本の問題を解決する糸口そのものなのである。

進む「本土の沖縄化」──シンポジウム後の沖縄問題……藤原

 九月三十日に投開票が行われた沖縄県知事選挙では、「オール沖縄」勢力が推す玉城デニー氏が翁長知事の後継者として新基地建設反対や米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去を強く訴え、政府与党である自民党や公明党等が擁立した候補者に八万票を超える大差をつけて当選を果たした。この選挙結果については「翁長知事の弔い合戦の様相を呈したこと」や「政府与党である自公側の選挙戦術の誤り」等の複合的な要因があるのであろうが、日米合意を盾に「辺野古が唯一の選択肢」として思考停止に陥り、国民(この場合は沖縄県民)ではなく米国の方を向いているかに見える政府の姿勢に対する「なんだか嫌だな」という沖縄の根本感情が大きく影響したものと思えてならない。政府は、前回の県知事選挙で翁長知事が当選した際に安倍首相や菅官房長官が約四カ月も会わなかったことへの批判を踏まえて当選直後の玉城新知事との会談には応じたものの、県知事選挙告示前の八月三十一日に沖縄県が辺野古の埋め立て承認を撤回したことに対して、十月三十日に国土交通相が「工事の遅れは経済的損失や日米関係に影響する可能性がある」として承認撤回の効力を一時停止する決定を下し、十一月一日には工事に向けた海上作業を再開している。現状では国と沖縄県との実質的な協議がなされる見通しが立たず、再び法廷闘争となる可能性が高い。本来ならば、国と沖縄県との協議を通して政治的な決着を図るべきであり、それを放棄して司法に判断を委ねることは「政治の堕落」である。

 シンポジウムの終盤で「沖縄の問題をおざなりにしていると日本本土が沖縄化していく」との議論があったが、実際に「日本本土の沖縄化」は着実に進行している。その具体例として、二〇一八年十月一日に米空軍の輸送機オスプレイ五機が国内では沖縄県以外で初めて米軍横田基
地に配備されたことや、政府は東京オリンピック・パラリンピックが開催される二〇二〇年までに羽田空港発着の国際線を増便するため東京都心上空を飛行させる新ルートの運用を始める方針であるのだが、米軍横田基地が管制権を持つ空域を一時的に通過することについて米国側の合意が得られず計画が暗礁に乗り上げていること(後日、旅客機の通過時間帯を午後の短い時間に限ること等を条件に空域を通る一部旅客機の管制を日本側が行うことを米軍が容認する方向で合意する見通しとなった旨の報道がなされた)等を挙げることができる。いずれも日米地位協定に基づくものであり、日本が十全たる主権国家ではなく、米国に従属していることの証左である。これまで沖縄県が日米両政府に日米地位協定の改定を強く求めてきたことについて、沖縄県以外に住む多くの日本国民が他人事のように感じているのかもしれないが、日米地位協定は国と国との間で結ばれた協定である以上、沖縄県のみならず全国一律に適用されるものであり、日本国民全てにとって決して他人事ではないのである(日米地位協定については前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)に詳しい)。
 シンポジウム直後のメルマガで、浜崎氏が「沖縄から『日本』を考えるということは、やはりとてつもなく重要な事ではないか」「ほかならぬ〈沖縄=辺境〉こそは〈本土=中心〉が見えないように排除してきた問題が最も凝縮して現れている土地である」「基地問題や日米地位協定(治外法権)に象徴される『対米従属』の問題──つまり、この国が本当は独立も自立もしていない半植民地国家だという『戦後の現実』──はその最たるものだ」「沖縄からこそ『国民』(沖縄県)ではなく『アメリカ』の方を向きながら、その場凌ぎの『噓』を繰り返す『国家』に対して、その姿勢の歪みを問い質すべきではないでしょうか」と論じている(「『辺境』から見えるもの──沖縄シンポジウムを終えて」二〇一八年八月二十九日)。しかし残念ながら、現在の沖縄の言論空間は「絶対平和主義」の夢想と「リアリズム」と称して対米従属の現状を追認する言説とによって覆い尽くされてしまっている。シンポジウムの最後に質問に立った青年が「沖縄における同調圧力の下での苦しみ」について語ってくれたように、沖縄では「絶対平和主義」にも「対米従属」にも与することができない人々が同調圧力の下で沈黙せざるを得ない状況に置かれている。沖縄から「国家」に対してその姿勢の歪みを問い質すためには、沖縄の地で「保守」として「常識」に基づく本質的な議論を組み立てていく必要がある。沖縄で「保守」としての言論を構築し、沖縄の根本感情に言葉を与えることができれば、同調圧力の下で沈黙し続けている人々が沈黙を破る契機とも成り得るはずである。
 「沖縄の問題は全て『日本国家の歪み』を反映したものであり、いわば沖縄は『日本の縮図』である」(藤井編集長)との認識を共有することができたのが、このたびの沖縄シンポジウムの大きな成果であったといえよう。それとは別に、沖縄の地で「保守」として生き、沖縄から発信していく決意を新たにすることができたのが、私個人にとっての大きな収穫であった


<編集部よりお知らせ>

表現者クライテリオン沖縄シンポジウム
〜戦後80年、沖縄から考える対米独立への道〜

2018年、私たちは沖縄の地において表現者クライテリオン・シンポジウムを開催し、この国の対米従属の歴史とこれからの未来を考えました。
そして今、戦後80年という歴史の節目を迎える本年、もう一度沖縄で集まり、議論しなければならない—そうした強い使命感を抱き、7年ぶりに沖縄シンポジウムを開催いたします。
沖縄こそ、日本の「戦後」が今なお続く場所であり、沖縄を語らずして戦後は語れない。ここにこそ日本の真の独立を考える鍵がある。

日時:3月30日14時~

第1部 14時00分〜15時00分
 ポスト2025の世界と沖縄—第二次トランプ政権がもたらす試練
第2部 15時10分〜16時30分(質疑・応答含)
 戦後80年の検証 ー 沖縄に見る対米関係の実像

懇親会 17時00分〜19時30分 

会場:沖縄県市町村自治会館
(那覇空港から車で10分、バスターミナルから徒歩3分、旭橋駅から通路直通、徒歩5分)

会費:一般、3000円、塾生・サポーター:2000円
懇親会:5000円

参加お申し込みはこちらから

 

表現者塾第七期塾生募集中(2/28まで早期申込割引実施中!)

表現者塾は『表現者クライテリオン』の編集委員や執筆者、各分野の研究者などを講師に迎え、物事を考え、行動する際の「クライテリオン=(規準)」をより一層深く探求する塾(セミナー)です。

◯毎月第2土曜日 17時から約2時間の講義
◯場所:新宿駅から徒歩圏内
◯期間:2025年4月〜2026年3月
◯毎回先生方を囲んでの懇親会あり
◯ライブ配信、アーカイブ視聴あり

講師(敬称略)
藤井聡、川端祐一郎、納富信留、鈴木宣弘、片山杜秀、施光恒、與那覇潤、辻田真佐憲、浜崎洋介、磯野真穂、ジェイソン・モーガン、富岡幸一郎、柴山桂太

詳細はこちらから

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