【藤原昌樹】沖縄戦の歴史とどう向き合わなければならないのか ―西田昌司参議院議員のひめゆり展示「歴史書き換え」発言をめぐって―

藤原昌樹

藤原昌樹

ひめゆり展示「歴史書き換え」発言をめぐる騒動

 

 今年(2025年)の憲法記念日(5月3日)に那覇市内で開催された憲法改正に関するシンポジウムにおける講演で、西田昌司参議院議員が「ひめゆりの塔」の展示について「歴史が書き換えられている」などと発言したことが報道されて炎上してしまいました(注1)

 

 発言に対する批判の拡がりを受けて、西田議員は5月7日に「(講演での発言が)県民や関係者を傷つけたという報道になっているが、全くそういう意図はなく、私の意図とは無関係に切り取られた記事が誤解を生んだ。結果として傷ついた人がいるのであれば遺憾に思う」と述べましたが、「歴史の書き換え」などの発言については「事実を言っているから撤回はしない」としていました(注2)

 

 そして、5月9日には「沖縄在住の知人に事実関係について調査してもらった結果、『ひめゆりの塔』が沖縄県民の皆さんにとって本当に耐え難い大きな苦しみの歴史、大きなトラウマとなっているということを改めて痛切に感じた。そのことを踏まえると、丁寧な説明なしに『ひめゆりの塔』の名前を出して話したこと自体が非常に不適切であった。沖縄県民また『ひめゆりの塔』の関係者の皆様方にお詫びを申し上げると同時に、私の発言を訂正・削除させていただきたい」と謝罪しました(注3)

 

 西田議員の謝罪は、あくまでも講演で「ひめゆりの塔」に言及したことについての謝罪であり、ひめゆり平和祈念資料館の展示が2021年にリニューアルしていることから事実関係の確認は叶わないけれども、2005年の機関誌(注4)に記したように「20数年前に見た『ひめゆりの塔』の展示が『日本の侵略により戦争が始まり、米軍の侵攻または反攻によって戦争が終わった』とする東京裁判史観そのものの物語であるとの印象を抱いたこと」「歴史観が問題であるとの認識」を訂正・謝罪するものではないと明言しています。

 

 この「訂正・謝罪会見」で騒動が収束に向かうことはなく、ネットを中心に西田議員の発言に賛同し、擁護する声があがる一方で、沖縄のマスメディアを中心に「謝罪とは到底言えない」「TPО(時・場所・場面)の問題ではない」として更なる反発を招き、非難する声が広がることになりました(注5)

 

 西田議員の発言をめぐっては、参政党の神谷宗幣代表が5月10日に「沖縄の人たちが戦ったのは米軍であり、日本軍が沖縄の人たちを殺した訳ではないにもかかわらず、日本軍にやられましたみたいな記述があるのはおかしい」「本質的に彼(西田氏)が言っていることは間違っていない」などと西田議員を擁護する街頭演説を行ないました。

 また、参政党沖縄県連は、神谷代表の発言を「軽はずみだ」と指摘する一方で、沖縄県平和祈念資料館の展示について「知事が変わるたびに展示内容が右へ左へと変わり、政治的なものを含んでいる可能性がある」として「沖縄戦を『日本軍イコール絶対悪』『県民イコール被害者』と単純な構図で語らず歴史を多面的に捉えるべき」と述べています(注6)

 

 沖縄県議会は5月16日、「ひめゆりの塔」を巡る発言の撤回と謝罪などを求める「西田昌司参議院議員による沖縄戦の実相をゆがめ、否定する発言に対する抗議決議」案を賛成多数で可決しました。決議では、県民の4人に1人の命が奪われた沖縄戦を「日本軍の作戦による犠牲であることは紛れもない歴史上の事実」とし、西田議員の発言は沖縄戦の実相を認識せず、歴史を修正しようとするものと指摘しています(注7)

 

 石破茂首相は5月12日の衆院予算委員会で、西田議員の発言について「認識を異にする」として「これまでひめゆり平和祈念資料館を訪れたり、関連書籍を読んだりしてきた」「いかに民間人を戦場に置かないかということは、沖縄戦が原点だとの思いを強く持っている」と強調しました。また、5月20日に官邸を訪れた玉城デニー知事と面会し、「沖縄の皆さまに大変申し訳ない発言があった。自民党総裁として深くおわびする」と謝罪しています(注8)

 

 その後、西田議員は、月刊誌『正論』(5月30日発売)に「『ひめゆりの塔』発言訂正の真意、私は事実を語った…」(以下、「発言訂正の真意」)を寄稿し、沖縄戦の慰霊碑「ひめゆりの塔」の展示説明を「歴史の書き換え」とした自身の発言をめぐって「事実は事実」であるとして改めて正当性を主張しています。

 同論稿では、戦後の日本の歴史観に疑問を投げかけ、「沖縄こそ戦後体制の矛盾と歴史観のねじれを最も色濃く体現している地域です。いわゆる『東京裁判史観』がもっとも深く沈殿し、かつ、米国による戦後支配の名残が日常の中に残されています。こうした実態と向き合わずして、日本の主権や歴史観を回復する道筋は描けません」「政治家として、こうした現状を問い直し、修正を試みることが責務だ」と論じており、再び物議を醸しています(注9)

 

この度の騒動をどのように読み解くのか

 

 柴山桂太氏との「今週の雑談」(5月14日収録)でも述べましたが、私自身は、西田議員の講演の(沖縄のみならず)我が国で広範に蔓延る「東京裁判史観」を批判する趣旨には賛同していますし、西田議員に「ひめゆり学徒隊の悲劇」や「ひめゆりの塔の意義」を否定するという意図はなかったであろうと思慮しています(注10)

 しかしながら、辻田真佐憲氏も指摘しているように、「20数年前に見た」という曖昧な記憶をもとに、自らの主張の論拠を明示することなく、沖縄県民にとって非常にセンシティブで「沖縄戦の悲劇」の象徴とも言える「ひめゆりの塔」の展示(の文脈)を「東京裁判史観」の例に挙げて批判したことは、あまりにも杜撰な悪手であり、歴史観やイデオロギー以前の問題であると断ぜざるを得ません。

 

 沖縄の言論に蔓延る「絶対平和主義」に基づく極端な言説、「東京裁判史観」的なイデオロギーに基づく偏向した「平和教育」を批判的に論じなければならないことは論を俟たないことです。しかしながら、沖縄における「平和主義」のイデオロギーや言説は、長年にわたって積み重ねられてきた「沖縄戦」に関する膨大な調査研究の蓄積に基づいて組み立てられてきたものです。

 「東京裁判史観」や「沖縄戦」に関する「平和主義」イデオロギーに基づく言論を非難するためには、例えば、関連する史料の検証を丁寧に行ない、論拠を明示した上で「この言説の○○の点が間違っている、○○と解釈すべきである」などといった形で具体的かつ詳細な批判を積み重ねていく必要があります。その地道な作業を通して確認された「事実」と「常識(コモンセンス)」に基づき、独立国として我が国に相応しい「歴史観」を構築することに努めなければなりません。

 

 この度の西田議員の発言は、その意図するところとは逆に、(攻撃材料を与えてしまうという意味で)「東京裁判史観」的なイデオロギーを支持する平和主義者達を利することとなり、本土と沖縄の間、あるいは沖縄内部の分断を更に深刻化させることに繋がってしまう可能性を否定できないのです。

 

 迷惑がかかってしまうことになるかもしれないので氏名は伏せますが、沖縄の「平和主義」や「平和教育」を批判的に論じている言論人の一人は、今回の騒動について「こういう発言が一番困る。講演に対する感情的な言説が次から次へと出てきて、議論のレベルを更に下げてしまうことにしかならず、実際にそうなってきた」「彼の下手糞な政治的発言に対して感情論で応えようとする沖縄という構図では何も解決しないし、沖縄県内外のどちらの立場でもない人達に対する説得力を持ちえない」と断じています。

 

 編集者でライターの梶原麻衣子氏は、(「訂正・謝罪会見」より前の時点ではありますが)渡辺豪氏(元沖縄タイムス記者)のインタビューに答えて、今回の騒動における多くの論点を提示し、分かりやすく整理してくれています(注11)

 

 梶原氏は、西田議員の発言とその後の対応が「あまりにも言葉が足りず、ひめゆり部隊の悲劇やひめゆりの塔の意義を否定するかのような印象を持たれる事態に陥っており、その結果、沖縄の人々と本土の保守派の乖離を招くことになっている」との見方を示しました。

 

 あくまでも私自身の個人的な印象になりますが、西田議員の「訂正・謝罪会見」は「自分とは最も意見の異なる他者」に対して発言の意図を懇切丁寧に説明するという形にはなっていなかったと看做せざるを得ません。

 

 さらに梶原氏は、「反米と言いつつも、日米地位協定等の在日米軍の諸問題にはほとんど触れず(但し、後日公表された「発言訂正の真意」では在沖米軍基地や日米地位協定に言及しています)、しかも沖縄に基地負担を強いている日本政府という構図がある中で、与党の国会議員である西田議員が歴史観『のみ』を取り出して沖縄を叱って見せるのは分断をさらに深めるだけにしかならない」などと問題点を指摘しています。

 

 この度の騒動を巡る数多くの論考の中で、この梶原氏による解釈が西田議員の発言の問題点と事態の全体像を最も的確に捉えているように思えます。

 

 「今週の雑談」(注10)の際にも述べましたが、私自身は、西田議員が「訂正・謝罪会見」で発言の全てを撤回してしまうのではなく、「ひめゆりの塔」に言及した部分のみを訂正・削除するに止めて「(沖縄のみならず日本全国に蔓延る)歴史観が問題であるとの認識」を撤回しなかったことについて肯定的に評価しています。

 

 また、「発言訂正の真意」については、講演や訂正・謝罪会見では十分に論じることができなかった「沖縄戦を巡る歴史認識」や「東京裁判史観」に関する問題意識など西田議員自身の主張と、我が国の歴史観を見直す上で避けて通ることができない論点などが提示されており、その点において肯定的に捉えています。

 しかしその一方で、シンポジウムの講演で不用意に「ひめゆりの塔」に言及したことについて訂正・謝罪をしたにもかかわらず、改めて同論稿で「ひめゆり平和祈念資料館」の展示内容を取り上げて論じていることについては、「ひめゆり」に言及せずとも西田議員の主張である「東京裁判史観」批判を展開することは十分可能であり、収まりつつあった炎上に新たな燃料を投下することになってしまうことに加えて、2021年の改装によって既に存在しない過去の「展示」を議論の対象としており、展示における「侵略」という語句の有無、「侵略」と「侵攻」という語句の解釈などといった瑣末な論点における争いに陥り、その結果、本来為すべき我が国の歴史観を見直す議論から遠ざかってしまうことになりかねないことなどから「決して得策ではない」との印象を受けたというのが、正直なところです。

 

 現状では、西田議員の発言をめぐって未だ炎上が収まらず、沖縄の言論の場で冷静な議論ができる舞台が整っていると言うことはできませんが、この度の騒動を奇貨として、戦後日本の歴史観―「東京裁判史観」-を見直し、歴史を自らの言葉で語り直すための議論が始まることを願わずにはいらせません。

 

「ひめゆり平和祈念資料館」と「沖縄県立平和祈念資料館」(注12)

 

 「今週の雑談」(注10)で述べたように、今回の騒動が起こった直後には、私自身も「西田議員がひめゆりの塔と県立平和祈念資料館の展示を混同したのではないか」もしくは「東京裁判史観そのものの物語であるとの印象を抱いたのは『ひめゆり平和祈念資料館』の展示内容ではなく、(展示を)解説する語り部(ガイド)の『説明のしぶり』だったのではないか」と推察していました。しかし、「発言訂正の真意」で西田議員自身が「県立平和祈念資料館」を訪ねたことはないとはっきりと否定し、自分が見たのは「ひめゆり平和祈念資料館」の展示であったと明言しています。

 

 私自身、今回の騒動をきっかけに十数年ぶりに「ひめゆり平和祈念資料館」と「県立平和祈念資料館」を訪ねて展示を見学してきました(5月23日)。

 

 あくまでも私個人の主観でしかありませんが、現在の「ひめゆり平和祈念資料館」は、沖縄戦の経過の説明とひめゆり学徒自身が「自らの体験」を語る証言、彼女たちの視点で見た「沖縄戦」の記録を基調に展示が構成されており、決して「東京裁判史観」を想起させるような文脈ではなく、イデオロギーや政治色を極力排して「ひめゆり学徒の体験」を伝えることに努めているとの印象を受けました。

 

 その一方で、「県立平和祈念資料館」では、「アジアを侵略する日本」という文脈で書かれている年表や「壕の中で赤ちゃんを泣き止ませろと住民に銃を向ける日本兵」「投降勧告のビラを拾おうとする少年と(ビラを持っているとスパイ行為と看做されるために)それを止めようと銃を向ける日本兵」などといった展示があり、「日本が侵略した」「日本兵が悪者」「日本が沖縄を酷い目にあわせた」とする「東京裁判史観」に基づく文脈で展示が構成されているということを否定することはできません。

 以下、私自身がメモした「展示の説明文」の例をいくつか記しておきます。

 

  • 住民が見た沖縄戦:地獄の戦場

 日本守備軍は首里決戦を避け、南部へ撤退し、出血持久戦をとった。その後、米軍の強力な掃討戦により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕の中では、日本兵による虐殺や、強制による集団死、餓死があり、外では砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮があった。まさに阿鼻叫喚の地獄絵の世界であった。

 

  • 戦争マラリアの被害

 日本軍の指示、命令によって多くの住民がマラリア有病地域である山中に避難、退去させられ、マラリアの犠牲になった。また、食糧不足による栄養失調と医療品の不足が、マラリアの蔓延に拍車をかけた。とくに、八重山、宮古、沖縄本島北部一帯の山中での犠牲が多く、八重山では約3,600人が亡くなっている。戦争が終わった後にマラリアが原因で、収容所などで亡くなった人々も多い。

 

  • 日本軍による住民犠牲

 日本軍は、兵員、兵器、弾薬、食糧などすべてが不足する中で沖縄戦に突入した。このため、食糧・避難壕などの強奪や戦場での水汲み、弾薬運搬への動員などによる多くの犠牲を住民に強いた。さらにスパイ視による住民殺害など残忍な行為もあり、なかには投降の呼びかけや説得にきた住民を殺害した例もあった。

 

  • 住民犠牲の諸相

 沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般住民の犠牲者数がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍の無差別砲爆撃による犠牲のほか、日本軍による住民の殺害が各地で発生した。日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕追い出しや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などをおこなった。その他、食糧不足から住民の食糧を強奪したり、戦闘の足手まといを理由に、死を強要した。住民は逃げ場を失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった。

 

 「たられば」の話をしても詮無いのですが、西田議員が講演で例に挙げたのが「ひめゆり平和祈念資料館」ではなく「県立平和祈念資料館」の展示であったのであれば、それでも炎上することは避けられなかったとは思いますが、決して少なくない数の沖縄県民が西田議員の主張に理解を示したのではないかと想像してしまいます。

 

私たちはどのように「証言」と向き合うべきなのか

 

 「ひめゆり平和祈念資料館」や「県立平和祈念資料館」の展示の「説明のしぶり」や文脈について、その背景にある「歴史観」と併せて批判的に検証すべき対象であることについて異論はありません。

 

 しかし、これらの「平和祈念資料館」に展示されている当事者の「証言」の数々は、「戦場」という極限状態にあった当事者の絶望、悲鳴、諦め、苦しみ…であり、決して「他者」には分からない、分かったつもりになってはいけないものだと思えます。

 ひめゆり学徒の生き残った方々が「辛い」のは、彼女たちが当事者でありながら、生き残ったことで「死んだ者にとっての他者」になってしまったからであり、「一緒にいた○○ちゃんに弾が当たって死んでしまったけれど、自分だけが助かった」「苦しんでいる兵隊さんを壕に残して自分達だけが逃げ延びた」…など生き残ったことの「罪悪感」(サバイバーズ・ギルト Survivor’s guilt)に苛まれているからであると言えるのでしょう。

 

 沖縄戦に限らず、広島や長崎の原爆、東京大空襲などの各地の空襲被害、戦地での戦闘、零戦で散華した若者たち、それだけではなく、ウクライナやガザ、ベトナム戦争やイラク戦争でも、全ての戦いの当事者や被災者は、死が迫ったときの絶望感や、生と死を分けた偶然の非情さを忘れることができないに違いありません。

 

 「平和祈念資料館」に展示されている証言は、その一つ一つについて、読んだ者が「寸評」や「感想」を述べることさえできないように思えてなりません。私たちは、その言葉をそのまま「抱きしめる」しかないのではないでしょうか。

 

 沖縄戦を語る際に、壕の中で日本兵が住民に対して卑怯で酷い振る舞いをしたという事例が取り上げられることが少なくありません。実際に「県立平和祈念資料館」では、そのような内容の展示が見受けられます。そこに展示されている日本兵の振る舞いが酷く醜い行為であることは否定すべくもありませんが、私自身は、戦場という極限状態の下で酷い振る舞いをしてしまった日本兵達を断罪することに躊躇いがあります。

 

 沖縄戦を戦った兵士も一人の人間であり、敵にも味方にもいろいろな性格の人がいます。戦時ではない平穏な日常においては温厚で誠実な人物が、戦場の極限状態の下で極度の疲労や飢えに襲われ、死の恐怖に囚われ、卑怯で残酷な振る舞いをしてしまったとしても何ら不思議なことではありません。世界中の戦争物語には「優しい敵兵」や「卑怯な味方の兵士」が出てきます。半狂乱で味方を殺したり、裏切ったり、見捨てたりする仲間や、優しく手を差し伸べてくれた敵兵の話は、ナチスのホロコーストでさえあった話です。

 

 「自分達を助けてくれた日本兵」「住民を酷い目にあわせた日本兵」「銃弾や火炎放射を浴びせた米兵」「ガマを出た自分達を手厚く保護してくれた米兵」…その「証言」の一つ一つが、沖縄戦を生き延びた住民にとっての「真実」なのです。

 

 「死んだ者の気持ち」「生き残った者の気持ち」「兵士たちの気持ち」…それらは、本当は誰にも分かるものではなく、「他者の感想」「他者の評価」を嫌うのです。それは「文学」にしか扱えないことなのかもしれません。

 

 現代を生きる私たちが史料を用いて沖縄戦の歴史を振り返り、俯瞰して客観的に考察することができるのとは異なり、「地獄」とも称される激しい地上戦が繰り広げられた沖縄戦の当事者が、その極限状態において自らを取り巻く状況を客観的・俯瞰的に捉えることが極めて困難であったということは想像に難くありません。

 

 我が国の戦争の歴史に翻弄された沖縄戦の当事者たちの「当事者性」について考慮することがない批判的な検証は「過去を客観的に見る」ということではなく、「先人達を断罪する傲慢な行為」となってしまうように思えます。

 

 この度の騒動について、私自身は、西田議員が沖縄(のみならず我が国全体)に蔓延る「東京裁判史観」を批判するに際して、決してそれを否定する意図はなかったけれども、不用意に(そして不適切な形で)沖縄県民にとってセンシティブな「沖縄戦の悲劇」を象徴する「ひめゆり」に言及してしまった。しかも「あまりにも言葉が足りなかった」が故に、沖縄県民の多くに「ひめゆり学徒隊の悲劇やひめゆりの塔の意義それ自体を否定した」と受けとめられてしまい、「沖縄戦の当事者である先人達を断罪した」と看做されて炎上する事態に陥ってしまったのだと解釈しています。

 

沖縄県民は立派に戦った-私たちが取り戻すべき「戦没者の誇り」

 

 前述したように、西田議員の「発言訂正の真意」は「沖縄戦を巡る歴史認識」や「東京裁判史観」に関する問題意識、我が国の歴史観を見直す上で避けて通ることができない論点などが提示されており、共感する点も少なくありません。

 

 一つだけ例を挙げると、沖縄方面根拠地隊司令官であった大田実海軍中将が自決前に打電した電文「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハモトヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ」「只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ」「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を示した上で、「沖縄県民は立派に戦った」「戦後日本の私たちが行うべきは『誤った戦争の犠牲者』といったレッテル貼りではない。それは余りに酷な話であり、示すべきは敬意である」「日本のために命をなげうって戦った沖縄県民を『犠牲者』とだけ断じる歴史観を受け入れることはできない」「沖縄県民にも痛みもあれば、誇りもあったはず」「『沖縄から誇りを語る機会が失われ、同時に本土側もその言葉を奪ってきたのではないか』という問いを私たちは引き受けなければならない」と語っていることは、まさにその通りだと共感します。

 

 この西田議員の「沖縄県民は立派に戦った」との言葉に触れて、西部邁先生の言葉と宮城能彦沖縄大学教授の言葉を思い出しました。

 

 西部邁先生は、いまから10年前に私の恩師である原洋之介先生と私がご一緒した「沖縄」をテーマとする鼎談で「僕はあの戦さ(沖縄戦)を自慢する沖縄人に会ったことがない。本心はどうなんですか」と私に問うた後に続けて、次のように語っていました(注13)

 

 十年くらい前の敗戦記念日のNHKの番組で忘れられない感動的な場面を一度見たんです。それはガマ(洞窟)に十四、五歳の少女挺身隊が入るんです。そのうちの一人に妹と一緒にガマに入る子がいた。いよいよ突撃となった際に少女が六、七人右手に短刀を持って、左手に各自手榴弾を持って突撃して行くわけです。その時に軍人が「お前には妹がいるから、ここに残って妹を守れ」、俺達は突撃すると言われ、彼女はそこに留まって生き延びるんです。

それに対してNHKの取材記者が「さぞかし哀しい辛い一瞬だったでしょうね」というようなことを言った時に、その生き残ったおばあさんが、「何を仰る。私の友達たちは全員朗らかな顔をして、右手に短刀を持ち左手に手榴弾を抱き、あの世で会おうねと言って明るい顔をして突撃して行きました」と言うんです。

多分それが真相なのではないか、と聞いていて思いました。死の瞬間ってそういうものだと思う。そういうことすら全部七十年の風雪で飛ばされた。勿論、他の面もありますよ。死ぬのは怖いし大変なことも色々あったけれども、今言ったような面が語り継がれなくなった。

 

 宮城能彦教授は、『沖縄道~沖縄問題の本質を考えるために』(注14)の中で、沖縄戦の戦死者について、次のように論じています。

 

 沖縄戦や大東亜戦争で亡くなった人たちは「殉国」ではなかったのか?

 自分の死が、遺族や世間の人たちに「無駄死にだった」とか「かわいそうな犠牲者だった」とされたら、成仏して天国に行けるだろうか?少なくとも、もし私が死後そういう扱いを受けたのならば、私の魂は成仏することなく彷徨ってしまうだろう。

 人は「自分は何のために生きているのか」を絶えず問いかけながら生きている。できれば、自分が生きていたことが何らかの形で世の中に役に立っていたこと、あるいは誰かに感謝されたり、影響を与えていることを望むだろう。

 (中略)

 沖縄戦で亡くなった方は「無駄死」だったのだろうか?死者たちは単なる「戦争の犠牲者」という意味づけで納得するのだろうか?

 個人差はあるものの、当時の多くの人々が「国のため」と信じて死んだ、すなわち「殉国」であることは確かである。私も少なからぬ人々から沖縄戦の体験を直接聞いている。ほとんどの人、特に鉄血勤皇隊やひめゆりの方々は「国のため」喜んで戦地に向かい戦ったのである。それを結果的に「無駄死」であったとか、単なる「犠牲者」であったとするのは、後の人の勝手な「解釈」でしかない。

 彼らの「殉国」のおかげで今の私たちの豊かな生活はある。そしてその死を無駄にしないためにも二度とこの沖縄を戦場にしてはならない。なぜそのように考えることができないのだろうか。

 

 西田議員の「沖縄県民を『誤った戦争の犠牲者』とだけ断じる歴史観を受け入れることはできない」という思いと、西部邁先生と宮城能彦教授の言葉との間に相通ずるものがあることをお分かりいただけるのではないかと思います。

 

 私たちが「沖縄戦を巡る歴史認識」を取り戻すために、まずは「沖縄戦の戦死者」を「無駄死にしてしまった戦争の犠牲者」ではなく「国のため、家族や子孫のために立派に戦った人々」と意味づけることで、彼らの「誇り」を回復するところから始めなければならないのではないでしょうか。

 

国民が誇りを持てる「歴史観」を構築するプロジェクト

 

 西田議員の発言に対する沖縄県議会の抗議決議には、下記の記述があります(注7)

 

 沖縄戦体験者の証言や、沖縄戦研究から明らかになってきた事実は、国体護持を至上命令とする日本軍が1944年に配備され、本土決戦を遅らせるため沖縄で時間稼ぎの持久作戦を続け、本土防衛のための「捨て石」にされたと沖縄県史などに表現されている。日本軍は旧制中学校や旧師範学校の生徒たちを、ひめゆりをはじめとする学徒隊や鉄血勤皇隊などとして戦場に駆り出した。さらに、首里城の地下に造った司令部を放棄し、住民が避難していた本島南部に撤退した結果、軍民混在の状況の中、住民を巻き込んだ激しい地上戦となり、県民の4人に1人の貴い命が奪われた。これらは日本軍の作戦による犠牲であることは紛れもない歴史上の事実である。

 

 この抗議決議の文言には「日本軍が沖縄を守るために戦ったことや米軍の攻撃によって多くの住民が殺戮されたこと」が書かれておらず、「日本軍のせいで多くの沖縄県民が亡くなった」という印象を与える「東京裁判史観」的な文脈の記述であるとの批判があります。確かに、この文章が「日本軍の作戦を失敗と看做して否定的に捉えて記述されている」ことから「東京裁判史観」的な認識・文脈であるとの解釈を許してしまう余地があることは否定できません。しかしながら、私自身は、この「沖縄戦を巡る歴史認識」の記述はイデオロギーを極力排除しようと努めている文章であると認識しており、少なくとも沖縄県民の多くが共有する、沖縄県民の側から見た「沖縄戦の真実」であることは間違いありません。

 

 一見すると、この「沖縄戦の真実」と国民が誇りを持てる「歴史観」とは相容れないように思われますが、沖縄県民が抱いている「沖縄戦の真実」を包摂する形で国民が誇りを持てる「歴史観」を構築することは、決して不可能なことではないと思慮します。

 

 『表現者クライテリオン』沖縄シンポジウム(2025年3月30日)で、藤井聡編集長が「現在、沖縄と日本本土が分断されているのは『戦争で沖縄県民が必死に戦ったのに日本本土では戦わなかった』という温度差によるものである。日本本土と沖縄で共通の『ことづくり』=『国防』というプロジェクトを屹立し、沖縄県民を含む日本国民が一丸となって取り組むことができれば、第二次世界大戦における『温度差』によって生じた分断を解消することができるのではないか」と語っていました。

 

 日本本土と沖縄で「国防」という共通のプロジェクトを屹立するためには、その前段で、沖縄県民を含む全ての日本国民が誇りを持てる「歴史観」を構築することが必要不可欠なのではないでしょうか。

 間もなく、沖縄では戦後80年目の「沖縄慰霊の日」を迎えます。

 「絶対平和主義」に基づく非現実的な「夢物語」を信じて「反戦平和」を唱えて「非戦」を誓ったり、空疎な鎮魂の祈りの言葉を捧げたりすることなどではなく、戦没者の「誇り」を回復し、独立国に相応しい「歴史観」を構築することこそが、真の意味で戦没者の霊を慰めることになるのだと思えてなりません。

 

 

(注1) ひめゆりの塔「歴史書き換え」 自民・西田参院議員がシンポで発言【講演ノーカット音声】

(注2) 琉球新報と沖縄タイムスによる批判記事に反論する!歴史観の喪失は沖縄だけでなく日本全体の問題である!(西田昌司ビデオレター 令和7年5月7日)

(注3) 「ひめゆりの塔」発言について撤回と謝罪 その上で申し上げます、歴史を見直し本来の日本に立ち返れ!(西田昌司ビデオレター 令和7年5月9日) – YouTube

(注4) 第42号 知恵と勇気|機関紙showyou|参議院議員 西田昌司

(注5) 自民・西田氏「沖縄の教育はむちゃくちゃ」は撤回も謝罪もせず 「ひめゆり」巡る発言は「事実を言った」 再会見で持論 | 沖縄タイムス+プラス

(注6) 「日本軍は県民を殺していない」 沖縄戦を巡り参政党・神谷代表 自民・西田氏の発言に同調 青森で街頭演説 | 沖縄タイムス+プラス

(注7) 【全文】県議会の抗議決議 西田氏ひめゆり発言 沖縄 – 琉球新報デジタル

(注8) 石破首相「西田氏とは認識異なる」 ひめゆりの塔めぐる発言で見解 衆院予算委員会 | 沖縄タイムス+プラス

(注9) 「ひめゆりの塔」発言訂正の真意、私は事実を語った… 参院議員・西田昌司 – 月刊正論オンライン

(注10) 今週の雑談47(柴山桂太・藤原昌樹)西田昌司議員の「炎上」について | 表現者クライテリオン

(注11) 西田議員「ひめゆり発言」の深層 「歴史観のみを取り出して沖縄を叱って見せる」のは分断招くだけ 「右翼雑誌」元編集者が説く | AERA DIGITAL(アエラデジタル)

(注12) ひめゆり平和祈念資料館

(注13) 鼎談「ついに臨界に達した沖縄問題」(藤原昌樹・原洋之介・西部邁)『表現者』61号(2015年7月号)

(注14) 沖縄道 | 宮城 能彦 |本 | 通販 | Amazon

 

(藤原昌樹)


<編集部よりお知らせ>

6月16日発売 予約受付中!最新刊『表現者クライテリオン2025年7月号 [特集]トランプ時代の核武装論―「核の傘」が無くなる。どうする日本?―』

 

よりお得な年間購読(クライテリオン・サポーターズ)のお申し込みはこちらから!サポーターズに入ると毎号発売日までにお届けし、お得な特典も付いてきます!。

サポーターズPremiumにお入りいただくと毎週、「今週の雑談」をお届け。
居酒屋で隣の席に居合わせたかのように、ゆったりとした雰囲気ながら、本質的で高度な会話をお聞きいただけます。

執筆者 : 

CATEGORY : 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

メールマガジンに登録する(無料)