皆様こんにちは。
本日は現在発売中の『表現者クライテリオン』2022年9月号より書評をお届けします。
黄 宇成
ヴェルナー・トレスケン 著
西村公男・青野 浩 訳
『自由の国と感染症
法制度が映すアメリカのイデオロギー』
みすず書房/2021年12月刊
なぜ、最も豊かな文明国アメリカで、世界トップの新型コロナの累計感染者・死亡者数が記録され、反ワクチン運動が伸張するのか。なぜ、より経済水準が低く権威主義的な国々に比べ、国民の健康状態が悪く、疫病の蔓延に苦しんだ歴史があるのか。経済学者である著者によるとその答えは、アメリカの政治制度とその背後にあるイデオロギーにある。それらは政治的自由と経済的繁栄、さらには他国を凌駕する科学技術力をももたらしたが、同時に感染症に脆弱な社会構造を作り出す原因ともなったのである。
本書では、アメリカの制度や思想における「個人の自由」「財産権」「連邦制」の神聖視が、感染症の撲滅において毒にも薬にもなりうることを、十九世紀前後のアメリカを苦しめた天然痘・腸チフス・黄熱病の事例を通じて検証がなされている。同時期のアメリカでは、商業化とともに都市へ人口が集中するようになり、地域共同体の結束よりも個人の権利の主張が強まる一方だった。
また、インフラ整備への需要もあって州政府や連邦政府の権限が強化されたが、同時に自治体や民間企業の活動の自由は保護すべきものとされた。こうした歴史的文脈の中で、制度や思想は、様々な分野と相互に作用し、アメリカの衛生環境に正と負の影響を与えたのである。
例えば、「個人の自由」を保護する憲法修正第十四条は、時に感染症対策における人種差別から社会的弱者の権利を守ったが、同時にリバタリアン的な反ワクチン団体が最も頻繁に持ち出す条文でもあった。また、「私有財産権」を憲法で規定することで、水道会社は資産の没収を警戒することなく、水媒介性感染症に有効な上下水道の整備に投資することが可能となったが、大量の有害廃棄物を排出する産業に対しては、立ち退きを要求できなくなった。
さらに「連邦制」は、州同士の競争を刺激し、経済発展を支え、移住者を誘致するための衛生環境の改善というインセンティブを与えたが、寛容な検疫政策を採用する州政府に連邦政府が強制介入するのを妨げる原因ともなった。
自由や経済的成長に重点を置いたアメリカの制度や思想は、公衆衛生の改善を阻害する要因として作用する側面がある。対照的に、植民地や独裁国家では、隔離やワクチン接種が強制的に執り行われ、感染症が迅速に制御される事例は少なくない。これらは、正しく機能する民主主義的制度が、常に感染症を効率的に撲滅するとは限らないという事実を示している。
著者が主張するように、疾病の蔓延や根絶は地理的・気候的条件や新技術の誕生による単純な帰結ではなく、個人と社会の選択の結果であるなら、アメリカにおける感染症対策の失敗は、イデオロギーという病の症状ともいえよう。各国の新型コロナ対策やその効果に大きな差があったという事実もまた、この主張を裏付けている。本書の原著は二〇一五年に出版されたものだが、今日の公衆衛生政策を形成した背景を深く理解するための、良い入口となる一冊である。
『表現者クライテリオン』2022年9月号 『岸田文雄は、安倍晋三の思いを引き継げるのか?』
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