私は、西部邁氏が幼少期から東大入学前まで住んでいた現在の札幌市厚別区に在住しており西部氏が通学に使ったであろう厚別駅や著作に出てくる小学校・浄土真宗系のお寺・国道一二号線を毎日のように目にします。するとどうしても西部氏のことを思い出すことも多く、その都度どうして「簡便死」にならなかったのだろう、奥様の病状悪化後、西部氏は北海道にほとんど来なくなったのはなぜだろうという疑問に膠着していました。
死後出版された西部氏に関する著作も何冊か読みましたが、違和感や前述した疑問が解けることはなく、遅ればせながら富岡幸一郎氏の『西部邁 自死について』を読み、深い感銘を受けました。
この本の直前まで西部氏の『思想の英雄たち』を再読していたのですが、そこに西部らしさを感じることはありませんでした。しかし『西部邁 自死について』で引用された西部氏の著作を再読すると、「札幌発言者塾・札幌表現者塾」で講演する西部氏の姿がまざまざと脳裏に蘇り、心の穴を埋めてくれました。
西部氏の奥様が娘さんに「(両親の死後)お父さんの本を読めば寂しくない」と言ったことは本当だと実感し、また西部氏は死について多くの著作を残しているのだからこれに早く当たるべきだったと後悔もしました。
そして北海道に関しては、西部氏にとって奥様は同志であり第一読者でありそして故郷であったので、奥様と一緒でない北海道は西部氏にはそれほどの意味もなかったのだと理解しました。
富岡氏は「私はむしろ西部邁という存在を、極めて少数の哲学者として再評価、いや発見してみたい」と述べていますがこれにも納得し、 江藤淳の『妻と私』は文芸書で西部氏の『妻と僕』は思索の書と思い至りました。
さて、当初に掲げた疑問「なぜ簡便死にならなかったのか」(富岡氏は簡便死と認識)ですが、これについては西部氏も完璧な人間ではなくごく普通の人間であった、従って判断を誤ったと理解することにします。
江藤淳が亡くなった一九九九年の札幌発言者塾の二次会で西部氏に「永井荷風のような死に方もある」と言ったら、西部氏は「子供が居たらあんな死に方は出来ない」と述べていました。体力の衰えから自分一人で出来なくなっても自分の思い描いた死に方を諦められなかったと理解することにします。
しかし、西部氏は、多くの著作と多くの人材を育て、加えて一九九四年創刊の「発言者」は「表現者クライテリオン」として現在も継続していることを考えれば本当に素晴らしい業績を残されたと思います。富岡氏の言う通り西部氏が再評価されることを願ってやみません。
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